「浮気デートの護衛はお前がやれ」と婚約者の私を指名した殿下へ。今日一番の危険人物は、殿下ご本人です
「浮気デートの護衛は、お前がやれ。しくじったら婚約破棄だからな」
近衛騎士団の詰所に入ってくるなり、王太子ギルベルト殿下は私の机に指名書を叩きつけた。
朝の点呼の直後で、詰所には夜番明けの私と団長の二人しかいない。
浮気、とご自分でおっしゃった。
はあ、いっそ清々しい。
私はジークリンデ・アイゼン。近衛騎士で、五年前から殿下の婚約者を務めている。
指名書には殿下の右に傾いた字で、こんな文面が記されていた。
『本日、男爵令嬢リリアーヌ・ベッカーとの城下視察の護衛に、近衛騎士ジークリンデ・アイゼンを指名する。護衛騎士が護衛対象を見失い、または護衛対象に危害が及んだ時は、同人との婚約を破棄する』
視察。腕を組んで歩く視察があるなら、ぜひ拝見したいものだ。
下には予定表まで添付されていて、十時に中央市場、正午に川沿いの菓子店、四時に王立公園の湖で舟遊び、七時に王宮前広場の灯籠祭りと続いている。
「どうせ皆、陰で浮気と呼んでいるんだろう? なら浮気で結構だ」
殿下は王妃陛下のお決めになった婚約を理由なしには破棄できないから、理由を作りたいのだ。護衛の失敗という、誰にでも分かる理由を。
「承知いたしました、殿下」
殿下の眉がぴくりと跳ねた。
泣くか怒るかを期待していらしたのだろう。あいにく、どちらも夜番の間に廊下に置いてきた。
「ただ、一つ書き足してもよろしいですか?」
このまま引き下がるのは癪だ。私はペンを取って、条件の下に一行足した。
『灯籠祭りの終わりまで無事に務めた時は、護衛騎士の願いを一つ聞き届ける』
「願い? はっ、いいだろう。どうせ使う日は来ないがな」
殿下はその一行を読んで口元を歪め、下に署名した。
「せいぜい気をつけることだな、ジークリンデ。今日は長い一日になるぞ」
扉が閉まり、殿下の高い靴音が廊下を遠ざかっていく。
何を仕掛けるおつもりだろう。あの顔をなさる時の殿下は、大抵ろくなことを考えていない。
「……受けるのか?」
団長が白い眉の下から私を見た。
「命令ですので」
「お前が願いを書き足すとは珍しいな。何を願う?」
「さあ……まだ決めておりません」
本当の話だ。
書き足したのは殿下の顔つきが気に入らなかったからで、それ以上の理由はない、と思う。
団長は指名書に連署して、ふと思い出したように付け加えた。
「そうだ。ボリスたちは今日、夕方まで非番だぞ。手は貸せんからな」
「え、同期の三人がそろってですか?」
「そろって非番だ」
珍しいこともあるものだ。あの三人が休むのは給料日の翌日と相場が決まっているのに。
◇
九時、王宮の通用門。
殿下はお忍びの装いで登場した。
灰色の地味な上着になぜか真っ赤な羽根付きの帽子という、今日の王都で一番目立つ格好だ。
危険度、中。主に帽子が。
隣には桃色のドレスの小柄な令嬢が、ぶら下がるように腕を絡めている。
リリアーヌ・ベッカー男爵令嬢、十七歳。この春から殿下が夜会のたびに連れ歩いている方だ。
「殿下ぁ、この人が『鉄の女』? やだ、こわぁい」
「気にするな、リリアーヌ。今日で最後だからな」
今日で最後。
聞こえるように言っているのだから、聞こえたことにしておこう。
二人の後ろでは、背の高い青年が深々と頭を下げている。
いや、下げすぎだ。腰が直角に折れている。
「え……アイゼン卿? どうして、あなたが」
顔を上げた青年を見て、思わず自分の目を疑った。
宮廷の薬房の、ヨナス・ベッカー殿だ。
夜番が明けた朝、私は三年前から東棟の薬房に通って、打ち身や擦り傷に貼る湿布をもらっている。
夜明けの当番はなぜかいつもこの人で、私の顔を見るたび「また痣を作りましたね」とため息をつく。
ベッカー。ベッカー男爵家。
そういう縁か、と腑に落ちる。
「本日の護衛を拝命しました。ベッカー殿こそ、どうしてここに?」
「妹の付き添いです。父がどうしても行けって……あの、アイゼン卿は殿下の、その」
「婚約者です」
ベッカー殿の顔から音を立てる勢いで血の気が引いた。
気の毒に。この人が悪いわけではないのに。
「い、妹が……本当に、申し訳ありません」
「お兄様ぁ、謝らないでよぉ。殿下が誘ってくださったんだから!」
ベッカー殿は懐を探って、小さな紙包みを差し出した。
「顔色、悪いですよ。夜番明けでしょう? 薄荷の飴です」
「勤務中は飲食をいたしません。規則ですから」
「……飴も、飲食ですか?」
「飲食です」
ベッカー殿は困った顔で紙包みを見つめ、きちんと懐に戻した。
「じゃあ、勤務が明けたらですね」
勤務の終了は灯籠祭りの終わりである。
この人はそれまで、あの飴を持ち歩くつもりなのだろうか。
殿下とリリアーヌ嬢は手をつないで前を歩き、私は車道の側の半歩後ろにつく。
ベッカー殿は当然のような顔で私の隣に並んだ。
付き添いなら妹の隣にいるべきでは、と思ったものの、口には出さなかった。あの二人の間には、きっと誰も入れない。
前を行く殿下がリリアーヌ嬢の髪に触れる。
私は護衛として、その指の動きを冷静に観察していた。
痛くはない。
五年も婚約者を務めて、痛くないのだ。そんな自分がなぜか少し寂しかった。
十時、中央市場。
朝の市場は王都で一番人の多い場所だ。
野菜の籠、魚の樽、焼き栗の煙、値切る声と怒鳴る声。夜番明けの私が毎朝の走り込みに使っている道でもある。
「あっ、鉄の姉ちゃんだ!」
「姉ちゃん、今日は走らないのー?」
魚屋の倅のトビとその仲間たちが手を振ってくる。
手を振り返したいのは山々だが、今日は仕事中だ。
その時、前を行く殿下が振り返った。
目が合う。口の端が上がる。
あ、来る。
「行くぞ、リリアーヌ!」
殿下はリリアーヌ嬢の手を引いて、人混みに飛び込んだ。
赤い羽根が籠と樽と人の頭の間に沈んでいく。
護衛をまく作戦か。
条件の一つ目は『護衛対象を見失った時』だから、市場の雑踏で護衛をまいてしまえば、その時点で私の失敗が確定する。
しかし地面を追えば、人の壁に阻まれる。
走って追う? 無理だ、三歩で見失う。悔しいが、殿下にしては上出来の作戦である。
だから私は後を追うのをやめて、横の荷車の縁に足をかけた。
「ちょ、アイゼン卿!?」
ベッカー殿の声を背中で聞きながら、荷車から果物屋の日除けに跳ぶ。
帆布が大きくたわんで私の体重を受け止める。次は干物屋の軒、その次は乾物屋の屋根だ。
市場の屋根は低く、端から端までほとんど切れ目なく続いている。
毎朝走っている道を少し高い所から走るだけなのだから、困難なことは何もない。
気持ちいい! 夜番明けの頭に、風がよく効く。
「姉ちゃんが屋根の上走ってるー!」
「すげえ! 赤い帽子の兄ちゃん、あっちだよ! 鶏屋の角!」
子どもたちも歓声を上げながら、下の通りを並走してくる。
言われなくても見えている。真っ赤な羽根の帽子でお忍びをなさる方など、上から見れば一目瞭然だ。
殿下は鶏屋の角を曲がり、野菜売りの列を突っ切り、魚屋の裏の細い路地に駆け込んだ。
勝ち誇った横顔が一瞬こちらを振り返る。私が後ろにいないのを確認したのだろう。
後ろにはいない。
上にいる。
魚屋の裏の石畳は朝の仕込みで流した水に濡れていた。
殿下の上等な靴底がつるりと滑る。
「うわっ、あ、ああああっ!」
派手な水音がした。
殿下は塩漬けの鰊の樽に、頭から見事に突っ込んでいた。
よし、捕まえた。屋根から路地に飛び降りて、樽の前に着地する。
「お待ちしておりました、殿下」
樽から顔を上げた殿下の頭に、鰊が一尾のっている。
赤い羽根は魚の汁を吸って、だらりと垂れ下がっている。
「な……っ、お前、どこから……!」
「屋根の上からです。一度も見失っておりませんよ」
「殿下ぁ! ……うっ、くさぁい」
追いついたリリアーヌ嬢は、鼻をつまんで三歩後退した。
路地の奥から猫が一匹、二匹、三匹と集まってくる。
「く、くそっ、寄るな! しっ、しっ!」
少し遅れて、息を切らしたベッカー殿が路地の入り口に到着した。
……どうして屋根を走った私より疲れているのだろう、この人は。
「アイゼン卿、手を」
「はい?」
いつの間に? 右手の指の節が擦りむけて出血している。
乾物屋の瓦で引っかけたに違いない。全く自覚がなかった。
ベッカー殿は肩掛けの鞄から小さな缶を出し、私の手を取った。
冷たい軟膏が傷に塗られていく。指先が触れた所だけが妙に熱い。
待って。これは何?
護衛中に手を握られた場合の対処など、近衛騎士規則のどこにも載っていない。
「……ご自分の怪我にも気づいてください。いつもそうなんですから」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいんじゃないんですよ」
殿下は鰊を払い落とし、猫に追われて路地を出ていく。
並んで歩き出した時、ベッカー殿が声を落とした。
「アイゼン卿、言うべきか迷っていたんですが……」
「何でしょう?」
「今朝七時、殿下が薬房にお見えになったんです。それで、その」
「おい、ジークリンデ! ぐずぐずするな、昼は水車亭だぞ!」
前から殿下の声が飛んできて、ベッカー殿の言葉はそこで途切れた。
薬房? 殿下が?
殿下は風邪一つ引かない方だ。毎晩九時には寝息を立てる、薬とは無縁の健康体である。
三年、扉の外で聞いてきたのだから間違いない。
では、いったい何を買いに来たのだろう。
前を行く赤い帽子が魚の匂いをまき散らして揺れている。嫌な予感がして、背中が冷たくなった。
◇
正午、川沿いの菓子店『水車亭』。
殿下は着替える暇もなく、鰊の匂いをまとって席に着いた。隣の卓の客がそっと椅子を引いて離れていく。
「林檎水を四つ。それと、苺のタルトもだ」
殿下はなぜか、私とベッカー殿の分まで注文した。
給仕が盆に四つの杯を載せて戻ってくると、殿下は自ら杯を受け取り、慎重な手つきで並べ替えた。袖口が一瞬、一つの杯の上で止まる。
そしてその一つを私の前に滑らせる。わざわざ、私の前に。
隣のベッカー殿が身を硬くする。この人も、何か気づいているらしい。
「座れ、ジークリンデ。暑い中ご苦労だったな。ほら、飲め」
優しい声だ。
五年で初めて聞く、優しい声。
危険度、高。
背筋が寒い。優しい殿下なんて、真夏の雪より不気味だ。
「勤務中は飲食をいたしません」
「命令だぞ。王太子が下賜する杯を、断るのか?」
下賜、とおっしゃった。
殿下は近衛騎士規則を一度も開いたことがない。開いていれば、その単語の危険を察知できたはずだ。
「近衛騎士規則、第五十一条」
ここが勝負所だ。
「王族より杯を下賜される時は、まず下賜なさる御方が一口お含みになり、毒なきことをお示しになる。古い作法ですが、今も有効です」
「なっ……」
殿下の顔が硬直する。あら、図星?
リリアーヌ嬢はきょとんとして、殿下と杯を見比べている。
「殿下ぁ、飲んであげたらいいじゃないですかぁ。毒なんて入ってないんでしょ?」
「あ、当たり前だろう! 毒など入っていない!」
殿下が私の前の杯をつかむ。一口程度なら平気だと判断したのだろう。
問題は、その『一口』の量である。
ぐびり、と喉が大きく鳴る。
殿下は杯の半分を一気にあおって、どんと卓に置いた。
「どうだ! 何ともないだろう! さあ、飲め!」
その時、ベッカー殿が私の杯に顔を寄せた。
すん、と鼻を鳴らす。
やっぱり、何か入っていた。予想はしていたのに、胸がずしりと重くなる。
「アイゼン卿、その杯は薬師としてお止めします。……眠り草ですよ、これ。今朝、殿下が薬房でお求めになった一番強いのです。この匂い、三晩分まるごと入っていますよ」
テラスが静まり返った。
全員の目が杯の半分を飲み干した殿下に集まる。
「ち、違う、これは、その……」
三晩分を一度に溶かせば効くに決まっているし、しかも一口ではなく杯の半分を飲んでしまったのだ。
「ちが……う……」
殿下の頭がゆらりと揺れて、前に傾いた。
そして、苺のタルトに顔から着地した。
嘘でしょう? 自分で入れた眠り薬を、本当に自分で飲んだの?
すぐに規則正しいいびきが聞こえてくる。
三年、扉越しに聞いてきたのと同じ音だ。
「……おい、あれ王太子殿下じゃないか?」
「お忍びって、ああいうのを言うんだっけ?」
囁き声がテラス中に伝染していく。
リリアーヌ嬢は両手で顔を覆っていた。
情けない。見下ろした寝顔に、まずそう思った。
クリームまみれの頬に苺が一粒くっついている。
そこまでして、私を眠らせたかったのか。
呆れより先に胸の奥がちくりとした。五年分の何かは、思っていたより安かったらしい。
寝顔だけが昔のままなのが、また腹立たしい。
五年前の春の御前試合、見習いの部。私が三本続けて勝った時、十五歳の殿下は試合場の砂の上でこんな顔をしてべそをかいていた。
『お前なんか、大嫌いだ』
あの日の王妃陛下は手を叩いて大喜びし、その場で私を殿下の婚約者にお決めになった。
十四の私は手加減というものを知らなかった。今なら少しは知っている、ということにしておく。
「殿下、今朝『これは夕方まで効くか』とお聞きになったんです。ええ、効きますよ。夕方まで、きっと起きません」
「僕が出した薬なんです。僕のせいだ……」
「いいえ。お出しになった薬を、ご自分で飲んだのは殿下です」
それから三時の鐘が鳴るまで、殿下はタルトを枕に眠り続けた。
ベッカー殿に椅子を何度勧められても、私は座らない。座ったら最後、二度と立てない気がする。
鐘が鳴り終わると、リリアーヌ嬢が涙目で叫んだ。
「ねえ、どうするのぉ、四時のボート! 殿下が予約してくださったのに!」
……そこなのか、と思わなくもない。
懐から出した指名書の予定表には、『四時、王立公園の湖にて舟遊び』とある。予定どおりにお運びするのが護衛の仕事だ。
「お運びします」
「え?」
仕方ない。私は殿下の腕を肩に回し、ひょいと背負い上げた。
鎧よりは軽い。鰊の匂いは鎧よりきつい。
「ちょ、ちょっと待ってください、アイゼン卿! 僕が代わりますって!」
「護衛対象のお体は、護衛がお預かりします。規則です」
「規則ばっかりだな、あなたは……!」
ベッカー殿は頭を抱え、店の主人から白い日傘を借りてきて、私の頭の上にさしかけた。
「……護衛に日傘は不要です」
「日差しが強いので。それに」
ベッカー殿は前を向いて言った。
「心配なので」
心配。
私を?
殿下を守るのが私の仕事で、私を守る人はいない。近衛に入って以来、それが当然だと思ってきた。
嬉しい、と思ってしまった自分が、少し悔しい。日傘の影が背中の殿下ごと私を包んで、なぜだか息がしにくい。
川沿いの道を歩くこと一時間。
王太子を背負った女騎士と、日傘をさしかける薬師と、顔を覆った男爵令嬢と、猫が四匹。行列は長くなる一方だった。
四時、王立公園の湖。
貸しボート屋の老人は私の背中の殿下を見ても眉一つ動かさなかった。
長くこの商売をしていれば、こんな客も来るのだろう。
眠っている殿下を舟の座席にもたせかけ、向かいにリリアーヌ嬢を座らせる。
リリアーヌ嬢は鼻をつまみながら、それでも嬉しそうにオールを握った。
「わたし、漕いだことないけど、頑張りますぅ」
護衛は護衛対象から目を離せない。
私はもう一艘借りて、後方から追跡することにした。
オールに手を伸ばすと、横から別の手が先に取った。
「僕が漕ぎます」
「ベッカー殿、漕いだことは?」
「……本で読みました」
本で読んだ舟は湖の真ん中で三回、同じ所を回った。
右のオールばかり強く漕ぐからだ。前を行くリリアーヌ嬢の舟も似たような動きで回っていて、さすがは兄妹だと妙に感心してしまう。
喉の奥から変な音が漏れた。
自分でも聞いたことのない音だ。もしかして、これが笑い声というもの?
「あ、今、笑いました?」
「笑っておりません」
「いや、笑いましたよね!?」
ベッカー殿は顔を赤くして、回転する舟の上で口を開いた。
「三年前の冬、初めて薬房にいらした時のこと、覚えています?」
「肩の湿布をいただきに伺いました」
「外れた肩をご自分で入れてから来たんですよね。廊下の柱に打ちつけて」
覚えている。
夜番の交代までに戻るつもりで急いでいた。結局は団長に見つかって、半日休まされた。
「僕、あの朝、手が震えて湿布が貼れなかったんですよ」
「それは、ご迷惑を」
「迷惑じゃなくて」
ベッカー殿は漕ぐ手を止めて、私を見た。
「近衛でも、痛いものは痛いでしょう?」
湖の上を風が渡っていった。
そんなことを言われたのは初めてだ。痛いかどうかを尋ねられた記憶さえ、私には一度もない。
胸の奥が縮む。痛いと口にしても、許されるのだろうか。
返事を探していると、前の舟で悲鳴が上がった。
「殿下ぁ、起きたぁ!」
殿下が舟の上で身を起こしている。
寝ぼけ眼で公園の時計塔を見上げた殿下の顔から、血の気が引いていく。
針は四時二十五分を指していた。
「東屋だ! 東屋に着けろ、今すぐ!」
「ええっ、まだ漕いでる途中ですぅ」
「いいから貸せって!」
殿下は強引な手つきでリリアーヌ嬢からオールを奪い、めちゃくちゃに漕ぎ始めた。
舟は水しぶきを上げながら、岸の東屋めがけて突進していく。
「ベッカー殿、代わってください」
「は、はい!」
何をする気? 私はオールを受け取り、三掻きで殿下の舟に並んだ。
東屋の桟橋に殿下の舟がどんと乗り上げ、殿下はリリアーヌ嬢の手を引いて桟橋に飛び移る。
その瞬間、東屋の柱の陰から覆面の男が三人飛び出してきた。
「その娘、いただくぞ!」
一番大きな男がリリアーヌ嬢の腕をつかんだ。
◇
賊? 白昼の王立公園に?
舟を桟橋に寄せながら、私は剣の柄に手をかけた。
大男が一人、細身が一人、若いのが一人。
構えがなっていない。いや、なっていなさすぎる。わざと崩した構えだ。
大男はリリアーヌ嬢の腕をつかんで、私の方に首を傾けた。
リリアーヌ嬢の悲鳴にまぎれて、覆面の下から小声が漏れる。
「すまん、ジークリンデ。俺だよ、俺」
聞き慣れた声だ。
五年前、見習いの頃から稽古場で隣に並んできた声。
「……は? ボリス?」
「カールとディーターもいるぞ」
細身の覆面が軽く片手を挙げた。
同期の三人。今日は夕方まで、そろって非番のはずの三人だ。
「何やってるのよ、あんたたち」
「昨夜、兵舎の裏の酒場に殿下の従者が来てな。金貨三枚で賊の役をやれって」
ボリスは早口で続けた。
「団長に報告したら、『引き受けろ。本物のごろつきを雇われるよりましだ』とさ。お前には言うなって言われたが……殿下の顔色、おかしくないか? 何か盛られたのか?」
「ご自分で盛って、ご自分で飲まれたのよ」
「……は?」
「で、殿下の筋書きは?」
「俺たちがこの娘をさらおうとする。護衛のお前は止められない……っていうか、止めさせるなってさ。そこへ殿下が颯爽と剣を抜いて、俺たちを撃退する。最後に殿下が、自分で腕を少し切るんだと」
「自分で?」
「『危害が及んだ』ことにするんだよ。それでお前の護衛は失敗、婚約は破棄。台本まで寄越したぞ、あの方」
殿下は桟橋の端で鰊の匂いを漂わせて、寝ぼけた顔で剣の柄をまさぐっている。
呆れた。
腹も立った。
しかし胸のどこかで、わずかに哀れだと思ってしまう。
そこまでしなければ、この方は婚約一つ解消できないのだ。
だったら、私のやることは決まっている。
殿下をお守りする。殿下ご本人から。
ボリスが芝居に戻って、リリアーヌ嬢の腕を放した。わざとらしく剣を構え直す。放されたリリアーヌ嬢は、一目散に殿下の隣に逃げ込んだ。
「ぞ、賊め……!」
殿下が叫んだ。
台本では、ここで颯爽と剣を抜く段取りになっている。
しかし殿下の意識は、まだ半分夢の中にある。
考えるより先に、自分可愛さが勝ったらしい。剣ではなく、逃げ込んできたリリアーヌ嬢の背中に手をかけ、ぐいと自分の前に押し出したのだ。
最低。今のはさすがに、最低だ。
「ま、待て! この娘をやる! だから私には……!」
は? 今、なんて?
桟橋にいる全員の頭に、同じ言葉が浮かんだはずだ。リリアーヌ嬢が首だけで振り返る。
「……は?」
自分の言葉を聞いて、殿下はようやく目が覚めたらしい。
慌てて剣を抜き、台本を思い出したように胸を張る。
「ち、違う、今のは作戦だ! 賊ども、成敗してくれるわ!」
殿下は剣を振りかぶり、ボリスたち……ではなく、自分の左腕に刃を向けた。
筋書きの最後の一行を最初に実行しようとしている。順番が完全に逆である。
冗談でしょう? 自分で自分を斬る護衛対象なんて、聞いたこともない!
私は踏み込んで殿下の手首を押さえた。
「放せ、ジークリンデ! 邪魔をするな!」
「護衛対象への危害を防ぐのが、護衛の務めです」
「その危害が要るんだよ!」
殿下は手首を振りほどこうとして、両足を踏ん張った。
その靴底には、朝の市場の鰊の鱗がまだびっしりと張りついている。
濡れた桟橋の板の上だと鱗はよく滑る。
「あ」
殿下の体がきれいに宙に浮いた。
剣が桟橋に転がり、殿下だけが湖に落下した。
大きな水柱が立つ。
浮上してこない。手だけが水面でばたばたと暴れている。
そういえば、殿下は泳げないのである。
水練の授業は毎回、腹痛を理由に欠席しておられた。ああもう、本当に手のかかる方!
「ベッカー殿、これを!」
剣帯を外して、舟の上のベッカー殿に放る。
迷っている暇はない。受け止めたのを見届ける前に、私は湖に飛び込んだ。
冷たい! 初夏の湖がこんなに冷たいなんて、聞いていない。
濁った水の中で赤い羽根が揺れている。あの帽子は最後まで目印として優秀だ。
殿下の襟首をつかみ、水を蹴って浮上する。
暴れる腕が頬に当たるが、構わず桟橋まで引っ張っていく。
「おい、引き上げろ!」
覆面のままのボリスたちが腕を伸ばし、三人がかりでずぶ濡れの王太子を桟橋に引き揚げる。
殿下は盛大に水を吐いて咳き込んだ。
生きている。危害と呼べるものは、鼻に水が入った程度である。
「げほっ、げほ……っ、ぞ、賊が、助けた……?」
その時、殿下の上着の内側から濡れた紙の束が滑り落ちた。
リリアーヌ嬢がそれを拾い上げる。
「……『四時半、賊が現れる。リリアーヌが悲鳴を上げる。私が颯爽と剣を抜く』」
リリアーヌ嬢の声が一行ごとに低くなっていく。
「『賊を撃退し、腕に軽く傷を負う。リリアーヌ、私に惚れ直す』……」
紙の束がぐしゃりと握りつぶされる。うわ、本気で怒っている。
「惚れ直すわけないでしょ!? わたしを前に押し出したくせに!」
「リ、リリアーヌ、あれは作戦で」
「最っ低! くさいし! 寝るし! お芝居だし!」
リリアーヌ嬢は台本を殿下の顔に投げつけた。
濡れた紙が額に貼りつく。
「お兄様、帰るわよ!」
一歩踏み出して、リリアーヌ嬢は止まった。
「……やっぱり、灯籠祭りは見てから帰る」
桟橋に上がって髪の水を絞る。ああ、寒い。
不意に、肩が温かくなった。え、何? 上着?
薬草の匂いがする。ベッカー殿の上着だ。
「どこか切っていませんか? 水、飲みました?」
「平気です。慣れておりますから」
「慣れないでくださいよ……」
ベッカー殿の手が私の肩の上で震えていた。
声も少し震えている。
「あなたが飛び込んだ時、心臓が止まるかと思ったんですからね」
……何なのだろう、この人は。
朝から、私が聞いたことのない言葉ばかり口にする。危険度の判定がまるでできない。
ベッカー殿から剣帯を受け取って締め直していると、背後で殿下が立ち上がった。
額にはまだ台本が貼りついている。
「ジークリンデ! 危害だ! 私は湖に落ちた! お前の護衛は失敗だ!」
「殿下は、ご自分の足で滑られました」
「落ちたことに変わりはないだろうが! 母上の前で、はっきりさせてやる!」
殿下は水を滴らせて公園の出口に直行した。
予定表の最後は七時、王宮前広場の灯籠祭り。王妃陛下が最初の灯籠に火を入れる場所だ。
「やべ、俺たち六時から広場の当番だ」
ボリスが懐中時計を見て、覆面の下でうめいた。
「先に行くぞ。ジークリンデ、殿下を頼むな」
「頼まれなくても護衛よ」
覆面の三人は、全速力で退散した。
広場に向かう道すがら、ベッカー殿が隣で言った。
「アイゼン卿。灯籠祭りが終わったら……少し、歩きませんか?」
嬉しい誘いだった。だからこそ、首を横に振るしかない。
「祭りが終われば、次の勤務がありますので」
「今夜も、ですか?」
「今夜も、です」
ベッカー殿は眉を下げて、それから小さく言った。
「知っています。三年、見てきましたから」
三年、見てきた?
どういう意味なのか聞き返したいのに、喉が言うことを聞かない。
王宮前の広場から、祭りの笛の音が聞こえ始めていた。
◇
七時、王宮前広場。
広場は灯籠を手にした人々で埋まっていた。
正門の前の露台に、王妃アーデルハイト陛下が立っている。夜会服の腰に細身の剣を帯びて。
王妃陛下は二十年前まで近衛騎士で、私が近衛を志したのもこの方に憧れたからだ。
露台の周りには警護の近衛騎士が整列している。
大男が一人、細身が一人、若いのが一人。三人とも、袖口がまだ濡れていた。
ばれないだろうか。いや、殿下ならきっと気づかない。
王妃陛下が火打ち石を手に取った、その瞬間である。
「母上ぇっ!」
人垣を割って、生乾きの殿下が露台の下に躍り出た。
うそ、その格好で? 王妃陛下の御前に?
帽子はない。髪は藻と台本の切れ端で飾られ、鰊の匂いは湖の匂いと混ざって新しい段階に入っている。
猫が五匹、ついてきている。
「母上! 護衛騎士ジークリンデ・アイゼンは、本日の護衛に失敗しました! 指名書のとおり、婚約を破棄させていただきたい!」
広場がどよめいた。
王妃陛下は火打ち石を置いて殿下を見下ろし、次いで私の差し上げた指名書を受け取った。
湖に浸かって波打った紙が、急に頼りなく見える。
「ふむ。見失うか、危害が及ぶか、か。アイゼン卿、報告を聞こう」
「はっ」
私は露台の下で片膝をついた。借りた上着の下で、濡れた服がまだ冷たい。
王妃陛下の御前で報告するのは初めてだ。膝が震えないのが、自分でも不思議だった。
「本日十時、中央市場。殿下は自ら走り出され、鰊の樽に転倒なさいました。護衛は屋根の上から終始お姿を確認しております」
人垣のどこからか、子どもの甲高い声が飛んできた。
「見てたよー! 姉ちゃん、屋根の上走ってたもん!」
あちこちで噴き出す声がする。
トビだ。来ていたのか。
「正午、川沿いの菓子店。殿下は今朝ご自身でお求めの眠り草を、作法に従いご自分でお飲みになり、三時まで苺のタルトの上でお休みに」
「四時半、湖の東屋の桟橋。賊三名が出現。殿下は令嬢を盾になさり、ご自分の腕を斬ろうとなさり、それを阻止した護衛ともみ合って、靴底の鰊の鱗で滑って湖に。救助したのは護衛です」
広場の誰一人として、もう笑いを我慢していない。
この一行だけは、顔を上げて明言しておきたい。
「以上、本日殿下に及んだ危害は、三件とも殿下ご本人によるものです。本日一番の危険人物は、殿下ご本人でございました」
「ち、違う!」
殿下が叫んだ。
まだ言うの? 往生際の悪さだけは、五年前から一流である。
「賊だ! 私は賊に襲われたんだよ! 護衛は賊を防げなかった! 大男と、細いのと、若いのの三人組だ!」
王妃陛下は肩越しに後ろを振り返った。
露台の後ろに並んだ近衛騎士のうち、大男と細身と若いのが、そろって一歩前に出る。
三人は完璧な敬礼をした。
「……この三人か?」
殿下は金魚のように口を開け閉めした。
声は出ない。鰊の匂いだけが漂っている。
ボリスが懐から小さな袋を取り出し、殿下の足元に置いた。
「金貨三枚、お返ししますね。殿下」
広場が爆ぜたように沸いた。
しかし王妃陛下だけは表情を崩さず、深く嘆息した。
「昨夜のうちに、団長から報告を受けていた。お前がどこで思いとどまるか一日待っていたが、最後まで止まらなかったな」
「は、母上、それは……」
「ギルベルト。お前は護衛を欺き、近衛を金で買収し、己の身を三度も危険にさらした。護衛騎士はその三度とも、お前を守ったのだぞ」
「アイゼン卿。婚約は、どうしたい?」
広場が静まった。
何百もの灯籠の明かりが、こちらに集中している気がする。
生乾きで猫にまとわりつかれながら、殿下はまだ私が取りすがると信じている顔をしている。
すがる気などとうにない。
ただ、一つだけ言っておきたいことがあった。
「殿下のお望みどおりに。ただ、殿下が一言おっしゃれば、今朝のうちに済んだことでございます」
殿下は口を半開きにして硬直した。
ぽかんと開いた口が、五年前の砂の上で負けを知った瞬間の顔に重なる。
「……は?」
「婚約は王妃陛下のお決めになったことでしたので、私からは申し上げられませんでした。殿下が『解きたい』とおっしゃれば、いつでもお受けするつもりでおりましたのに」
「じゃ、じゃあ、市場は? 眠り薬は? 賊は?」
「全部、必要ございませんでした」
殿下はその場に座り込んだ。
猫が一匹、その膝に乗った。
「よかろう」
「婚約は解消する。破棄ではない。非はギルベルトにある。王太子の位は、私が預かる。いいな、ギルベルト?」
殿下は口を開きかけたが、王妃陛下の目を見て唇を結んだ。
「明日から一年、近衛の新兵として鍛え直せ。護衛される側が護衛の何たるかを知らんでは話にならん。教官は……」
王妃陛下は後ろの三人をあごで示した。
「あの三人だ」
ボリスが満面の笑みで敬礼した。
「朝の走り込みは市場三周からですよ、殿下」
殿下の膝の上で猫がにゃあと鳴いた。
さすがに殿下が気の毒になる。しかし同情は一瞬で終了した。
「さて」
王妃陛下は指名書を広げ、私が書き足した一行を指でなぞった。
「『灯籠祭りの終わりまで無事に務めた時は、護衛騎士の願いを一つ聞き届ける』。祭りの終わりを待つまでもない、護衛は果たされた。申してみよ、ジークリンデ」
願い。
朝に書き足した時点では、何も決めていなかった。
爵位を、と言えば通るかもしれない。殿下への罰を、と言っても、おそらく通る。
だが、どれも違う気がした。私の望みはもっと小さく、そのくせ今まで一度も叶わなかったものである。
湖の上で「痛いものは痛いでしょう」と言われた時。
日傘の影の中で「心配なので」と言われた時。自分が何に疲れていたのか、私はやっと理解した。
「今夜、殿下のお部屋の扉の前に、私以外の者を立てていただきとうございます」
広場がしんと静まった。
王妃陛下の眉がわずかに上がる。
「……どういう意味だ?」
「殿下の扉の夜番は、三年前から私がお引き受けしておりました。婚約者ですので。今夜一晩だけ、代わっていただきたいのです」
殿下がはっと顔を上げた。
「三年……? いや、夜番は交代のはずだろう。毎晩、違う者が」
「いいえ。毎晩、私です」
殿下は私を見上げて、動かなくなった。今さら気づいたの?
「……毎晩、扉の外にいたのは、お前だったのか?」
「はい。殿下のいびきは、よく存じております」
広場がどっと沸いた。
殿下はうつむき、濡れた前髪で顔が隠れた。耳だけが赤い。
ああ、これで終わったのだ。
その耳を見て、胸の奥がふっと軽くなった。
軽くなった分、少し寒い。五年背負ってきた荷物を下ろしたら、背中が落ち着かない。
「そなた、最後に休んだのはいつだ?」
「三年前の冬、肩を外した日に、半日いただきました」
「一晩では足りん。十日休め。命令だぞ」
「……承知いたしました」
王妃陛下は火打ち石を取り上げ、最初の灯籠に火を入れた。
炎が紙の中で膨張し、灯籠が夜空に上昇する。これを合図に、広場中の灯籠が一斉に空に放たれた。
少し迷ってから、私は剣帯を外してボリスに差し出した。
「預かっておいて」
「おう。……似合わねえな、剣のないお前」
「うるさいわね」
左の腰がやけに軽い。
三年間そこにあった重さが消えて、歩き方まで忘れそうだ。
広場の端の街灯の下に、ベッカー殿が立っている。
その背中を、灯籠を抱えたリリアーヌ嬢がぐいぐい押している。
「お兄様、ほら! 今! 今よ!」
「わ、分かったから押さないでって……!」
「ジークリンデ様、今日はごめんなさいっ! お兄様をよろしくお願いしますね!」
言うだけ言って、リリアーヌ嬢は人混みに消えた。
残されたベッカー殿は咳払いを一つして、胸元を探った。
その手が空を切る。上着がない。
「あ」
上着なら、湖の桟橋から私の肩の上だ。
隠しに手を入れると、湿った紙包みが指に触れた。開けてみれば、今朝の薄荷の飴が三つ、私の濡れた服から水を吸って一つの塊になっている。
「勤務が明けたら、って言いましたからね。……すみません、こんな有様で」
本当に、一日中持ち歩いていたなんて。
胸が詰まって、まともに礼も言えない。塊を一かけ割って、口に入れる。
「……甘い」
「薄荷ですから、甘くはないはずですけど」
「甘いですよ」
灯籠の浮かぶ夜空の下を、二人で川沿いに歩く。
私は当たり前のように車道の側に立った。我ながら呆れる。三年の習慣は、非番になったくらいでは抜けない。
ベッカー殿がそっと私の前を回って、車道の側に入れ替わった。
「今夜は、僕が外側です」
「それは護衛の位置です。薬師の方が立つ場所では……」
「非番でしょう? 今夜のあなたは、守られる側ですよ」
守られる側。
言葉の意味は分かる。だが、どこに手を置けばいいのか分からない。左の腰に手をやって、剣がないことを思い出した。
「アイゼン卿」
「……今夜は非番です。卿は、要りません」
ベッカー殿は一瞬目を丸くして、それから確かめるように私の名前を呼んだ。
「ジークリンデ様」
「はい」
「三年、あなたの痣を診てきました」
街灯の下でベッカー殿の耳が赤い。つられて、私の耳まで熱くなる。
「夜明けの当番、本当は僕の番じゃなかったんです。三年前から、毎朝代わってもらっていて」
「……え?」
「あなたが来るのは、いつも夜明けだったので。痣を作って、湿布を受け取って、すぐ帰ってしまう。その三分が、僕の一日で一番いい時間でした」
待って。
待って、これは、つまり。
「いつか痣のない日に会えたらって、三年、思っていました」
危険度、測定不能。
近衛騎士規則のどこを探しても、こんな場合の対処は書いていない。
顔が熱い。耳も熱い。どうしよう?
怖いのと嬉しいのが同じくらいで、湖の水はあんなに冷たかったのに、と関係のないことを考える。
今度は、迷わなかった。
いや、正直に白状すれば三秒ほど逡巡した。
「十日、非番があります」
まっすぐ顔を見る勇気はなくて、空の灯籠を見上げて言った。
「……全部、ヨナス殿の薬房に通ってもいいですか?」
初めて名前で呼ぶと、ヨナス殿は息を呑んだ。
「痣がなくても?」
「痣がなくても」
ヨナス殿の手がそっと私の手に触れた。
剣を握らない右手は、思っていたより軽くて、思っていたより温かかった。
◇
一か月後の夜明け、中央市場。
「遅い遅い! あと二周だぞ!」
「ま、待て、ボリス……きょ、教官……っ」
新兵の訓練着を着た元王太子が、魚の樽の間をよろよろと走っていく。
その後ろから、市場の子どもたちと猫の群れが追跡してくる。
「魚の兄ちゃん、がんばれー!」
「その呼び方をやめろぉ……!」
あの夜のあと、近衛騎士規則に新しい一条が追加された。
『近衛騎士は、七日に一度、必ず非番を取ること』。王妃陛下のご命令で、近衛の中ではアイゼン規則と呼ばれているらしい。恥ずかしいので、やめてほしい。
今日がその七日目である。
私は市場を抜けて、王宮の東棟に向かった。
薬房の扉を開けると、薬草の匂いと一緒に、聞き慣れた声が迎えてくれる。
「おはようございます、ジークリンデ様。あ、今日はどこも痛くないですね」
「はい」
痣のない手を、ヨナス殿に差し出す。
「会いに来ただけです」
↓番外編「夜明けの三分」(薬師ヨナス視点。灯籠祭りの夜、真夜中の薬房で)
https://note.com/wise_turtle184/n/n3a152dc75ef6?app_launch=false




