婚約解消して自由になりたい令嬢と、絶対に逃がす気のない完璧王太子
「殿下。私との婚約を、解消していただけませんか」
その言葉を聞いた瞬間。
王太子アルベルトは、微笑んだ。
それはいつもと寸分違わぬ、美しい微笑みだった。
「もちろん」
「……え?」
侯爵令嬢リディアは目を瞬いた。
まさか、こんなにあっさり承諾されるとは思っていなかったのだ。
「君が望むなら、僕は尊重するよ」
アルベルトは優しく言った。
「リディアの幸せが、一番だから」
完璧な答えだった。
さすがは次期国王と評される男である。
容姿端麗。
成績優秀。
剣も魔法も一流。
誰に対しても穏やかで、決して声を荒らげない。
特に婚約者であるリディアに対しては、いつも優しかった。
優しすぎるほどに。
だからこそ、リディアは申し訳なかった。
「殿下……ありがとうございます」
「気にしないで」
アルベルトは笑った。
「正式な手続きはこちらで進めておくよ」
「はい」
「今までありがとう、リディア」
その声音には、一片の怒りも悲しみもない。
リディアはほっと胸を撫で下ろした。
自分が考えていたよりずっと、アルベルトはこの婚約に執着していなかったらしい。
彼女は深く一礼した。
「失礼いたします」
そして部屋を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなってから、アルベルトはゆっくりと笑みを消した。
「…………婚約解消?」
手にしたティーカップの水面が、かすかに揺れている。
よく見れば、カップを持つ指先は白くなるほど力が入っていた。
アルベルトはそれに気づくと、慎重にカップを受け皿へ戻した。
かちゃり。
小さな音がした。
「どうして?」
誰もいない部屋で呟く。
声だけは、不思議なほど穏やかだった。
「僕、何かした?」
昨日の会話を思い返す。
一昨日。
3日前。
1週間前。
1か月前。
「昨日、手紙を2通しか送らなかったから?」
いや。
毎日3通では重いかもしれないと思って、2通に減らしたのだ。
あれはむしろ配慮だったはずだ。
たぶん。
「誕生日の宝石?」
12個。
多すぎただろうか。
だが、本当は17個用意していた。
5個も減らした。
相当我慢した。
「……もしかして、先週?」
リディアは騎士団長の息子と話していた。
15秒ほど。
笑っていた。
いや、あれは社交辞令の笑顔だった。
分かっている。
分かっているが。
「僕と話すときより、楽しそうだった?」
違う。
そんなはずはない。
たぶん。いや。でも。
もしそうだったら?
アルベルトは立ち上がり、本棚から1冊の手帳を取り出した。
《リディアについて》
表紙には、それだけ書かれている。
ページをめくる。
《好きな花》
《苦手な料理》
《最近よく読む本》
《体調》
《睡眠》
《会話中、よく笑った話題》
その最後のページに、新しい見出しを書き込んだ。
《婚約解消を申し出た理由》
1.自分への愛情がなくなった。
アルベルトの手が止まった。
その1行を見ただけで、胃が痛くなった。
横線を引く。
消す。
もう1度書く。
《可能性は低い》
少し考えて、
《極めて低い》
に直す。
さらに考えて、
《考慮する必要なし》
と書き足した。
それでも落ち着かなかった。
2.王太子妃になることへの不安。
3.王宮での生活が嫌だった。
4.自分が何か気に障ることをした。
5.他に好きな男ができた。
そこで再び手が止まった。
15秒。
騎士団長の息子。
笑顔。
「…………」
アルベルトはベルを鳴らした。
側近が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「騎士団長の息子って、最近どう?」
「……はい?」
「仕事。順調?」
「はあ。非常に優秀だと聞いておりますが」
「そう」
アルベルトはにこりと笑った。
「地方で経験を積ませるのも、いいかもしれないね」
側近は数秒黙った。
「何かございましたか?」
「何も?」
笑顔である。
その日の夜。
騎士団長の息子に、辺境勤務を推挙する書類が作成された。
---
リディアには夢があった。
田舎で小さな屋敷を買い、本を読みながら静かに暮らすことだ。
王太子妃など、自分には荷が重い。
アルベルトは優しい。
立派で、完璧で、自分がいなくても何一つ困らないように見えた。
だからこそ、もっと王妃に向いている女性と結婚すべきだと思った。
婚約解消を申し出た翌朝。
父である侯爵に呼び出された。
「リディア」
「はい」
父親は困惑した顔で言った。
「北方に、お前名義の領地が与えられることになった」
「……はい?」
「小さいが、湖と森のある美しい場所だそうだ」
リディアは目を輝かせた。
まさに理想である。
「どうして突然?」
「王家からだ」
「まあ」
父親は首を傾げた。
「殿下から、婚約解消に伴う補償だそうだ。王太子妃になるため、長年教育を受けてきたことへの配慮も含まれているらしい」
「殿下が?」
なんと律儀なのだろう。
あれだけ世話になったのはこちらなのに。
リディアはますますアルベルトに感謝した。
なお。
その領地が選ばれた理由は、
王都から遠すぎず。
治安が良く。
周囲に大貴族の領地がなく。
未婚の若い領主もおらず。
駐屯騎士団長が既婚者で。
その部下も半数以上が既婚者であることだった。
もちろん、リディアは知らない。
1週間後、婚約解消の手続きを終えた彼女は、新しい領地へ向かった。
馬車に揺られること3日、目的地に着く。
森に囲まれた小さな屋敷だった。
「素敵……」
使用人も少ない。
町までは馬車で1時間。
静かで、人もほとんどいない。
完璧だ。
「これなら、誰にも気を遣わず暮らせるわ」
その夜、リディアは久しぶりに熟睡した。
翌朝、使用人が1人増えていた。
「新しい執事です」
「昨日はいなかったわよね?」
「王家から派遣されました」
「まあ」
数日後、庭師が2人増えた。
「王家から派遣されました」
料理人も増えた。
「王家から派遣されました」
護衛も増えた。
「王家から派遣されました」
1か月後、小さな屋敷には、なぜか30人を超える使用人がいた。
「……静かな暮らしとは?」
リディアは首を傾げた。
だが、全員非常に優秀だった。
不自由はない。
むしろ快適である。
そして妙なことが一つあった。
リディアが欲しいと思ったものが、異様な速度で届くのだ。
新しい本が読みたいと言えば、数日後には新刊が届く。
果物が食べたいと言えば、最高級品が届く。
一度、
「王都のケーキが懐かしいわね」
と夕食の席で呟いたことがある。
翌朝、王都で一番有名な菓子職人本人が厨房に立っていた。
「どうして?」
「王家の転移陣を使って、昨夜こちらへ派遣されたそうです」
「そこまでする?」
王家は暇なのだろうか。
リディアは本気で心配になった。
---
一方、王宮では、アルベルトが毎晩報告書を読んでいた。
《本日、リディア様は午前8時12分に起床》
《朝食はパンを半分残されました》
ぴたり。
視線が止まる。
「半分?」
「はい」
側近が答える。
「なぜ?」
「分かりません」
「体調不良?」
「その可能性は低いかと」
「料理が口に合わなかった?」
「昨日は同じものを完食されています」
「…………」
アルベルトは報告書を見つめた。
10秒。
20秒。
「医師を送った方がいいかな」
「必要ございません」
「1人だけ」
「必要ございません」
「診察じゃなくて、近くに待機させるだけなら?」
「それは医師を送るのと同じです」
「そうか」
アルベルトは頷いた。
「分かった」
側近はほっとした。
アルベルトは報告書の端に、
《明日の朝食摂取量を要確認》
と書き込んだ。
さらに、
《体温》
《顔色》
《睡眠時間》
《食欲》
《腹痛の有無》
と追記した。
全然分かっていなかった。
「それと」
次の行へ視線を落とす。
《午後2時頃、町の書店主の息子と3分ほど会話》
アルベルトは動かなくなった。
「…………誰?」
「書店主の息子です」
「名前」
「トーマスです」
「年齢」
「23歳」
「既婚?」
「独身です」
「そう」
アルベルトは微笑んだ。
「本が好きなのかな」
「書店の息子ですので、おそらく」
「王立図書館が人手不足だったね」
側近は目を閉じた。
「殿下」
「何?」
「念のため申し上げますが、その青年はリディア様に本を売っただけです」
「分かってるよ」
「では、なぜ王立図書館への推薦状を書いておられるのですか」
「才能ある若者には機会を与えるべきだと思って」
「先ほど初めて存在をお知りになった方ですよね?」
「人材登用に時間は関係ないよ」
王都は、リディアの領地から馬車で3日。
「栄転だね」
「…………」
恐ろしい男であった。
---
そんな生活が6か月続いた。
ある日、リディアのもとに1通の手紙が届いた。
差出人はアルベルトだった。
《元気にしているかな》
《近くに行く用事があるので、もし迷惑でなければ顔を見たい》
実際には近くに用事などなかった。
リディアの領地から馬車で半日の場所に、わざわざ公務を作った。
それから3日間悩み、
「ついでなら不自然ではない」
という結論を出して手紙を書いた。
《会いたい》
の4文字を書けば済む話だった。
アルベルトには、それができなかった。
断られたら立ち直れないからである。
一方、そんな事情など知らないリディアは懐かしくなった。
《ぜひお越しください》
と返事をした。
返事を受け取ったアルベルトは、5回読んだ。
もう1度読んだ。
「ぜひ」
の2文字を見つめた。
「……会いたいってこと?」
側近は答えなかった。
「少なくとも、嫌ではないよね?」
「そうでしょうね」
「『お越しください』だから、来てほしいってことだよね?」
「一般的には」
「社交辞令では?」
「殿下」
「何?」
「もう行ってください」
3日後、アルベルトがやって来た。
「久しぶり、リディア」
「お久しぶりです、殿下」
6か月ぶりに見る彼は、相変わらず完璧だった。
金の髪。
青い瞳。
穏やかな微笑み。
ただ、少し痩せただろうか。
「殿下、お疲れですか?」
「全然」
即答だった。
実際には、この6か月間の平均睡眠時間は3時間である。
昼は国政。
夜はリディアの報告書。
寝る前には、
「今日の報告に何か異変はなかったか」
をもう1度最初から確認する。
完全な自業自得だった。
「この辺りは何もありませんけれど、ゆっくりしていってください」
「うん」
アルベルトは微笑む。
「僕、ここ好きだな」
「本当ですか?」
「静かだし」
人が少ないし。
「安全だし」
護衛を20人潜ませているし。
「何より、君が楽しそうだから」
「ありがとうございます」
リディアは嬉しそうに笑った。
アルベルトは思った。
かわいい。
死ぬほどかわいい。
6か月ぶり。
183日。
4,392時間。
263,520分。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
今朝からだけで「会いたい」と27回思った。
昨日は数えるのを途中でやめた。
「殿下?」
「何?」
「ぼんやりしていません?」
「君を見てた」
言ってから、アルベルトは固まった。
リディアも固まった。
「…………」
「…………」
まずい。
気持ち悪かった?
普通は言わない?
いや、婚約者だった頃なら言ったかもしれない。
でも今は元婚約者。
距離感を間違えた。
6か月ぶりに会って数分で失敗した。
終わった。
帰りたい。
いや、帰りたくない。
むしろ一生ここにいたい。
しかし嫌われたなら消えた方がいい。
「ふふ」
リディアが笑った。
「殿下は時々、恥ずかしいことを平然と言いますね」
怒っていない。
アルベルトは生き返った。
「そうかな」
「そうですよ」
「気をつける」
絶対に忘れない。
今日の笑顔も。言葉も。声の高さも。
全部覚えておこう。
---
夕食後、2人は庭を歩いていた。
リディアがふと口を開く。
「実は私、最近考えていることがあるんです」
「何?」
「そろそろ結婚を考えた方がいいのかと」
アルベルトは微笑んだ。
「へえ」
完璧だった。
「そうなんだ」
内心では世界が終わっていた。
誰。誰。誰。
聞くべき?
聞かない方がいい?
聞いて名前が出たらどうする?
いや、知っておいた方がいい。
でも知りたくない。
「どなたか候補が?」
言えた。
声は震えなかった。
偉い。
「いいえ。まだ誰も」
アルベルトの中で世界が再建された。
「でも、父がそろそろ縁談を探そうかと言っていて」
侯爵。父親か。
なるほど。
アルベルトは笑った。
「そうなんだ」
その夜、彼は一睡もしなかった。
朝まで、
《リディアが結婚した場合》
について考えた。
考える必要などなかった。
絶対に嫌だった。
だが、自分には止める権利がない。
リディアは自由だ。
本人が望むなら祝福しなければならない。
そう思った。
思っただけだった。
翌朝、侯爵家に王家から書状が届いた。
《リディア嬢への縁談については、王家との調整なく話を進めることを禁ずる》
侯爵は3度読み返した。
「なぜ?」
理由は書かれていなかった。
---
数日後、事件が起きた。
リディアが森で足を滑らせたのだ。
幸い、軽い捻挫だった。
屋敷に置かれていた緊急連絡用の魔道具から報告を受けたアルベルトは、王宮から転移魔法で飛んできた。
本来、王族といえど私用では使えない国家管理の大規模転移陣である。
なお、アルベルトは、
「元王太子妃候補の生命に関わる国家的緊急事態」
と判断した。
完全に職権乱用である。
「リディア」
扉が開いた。
いつものアルベルトだった。
少なくとも、一見しただけなら。
「殿下?」
「怪我したって聞いた」
穏やかな声。
穏やかな顔。
けれど、少しだけ呼吸が速い。
「少し足を捻っただけです」
「そう、よかった」
アルベルトは微笑んだ。
「医師は?」
「診てもらいました」
「骨は?」
「異常ありません」
「熱は?」
「ありません」
「痛みは?」
「もうほとんど」
「食欲は?」
「あります」
「吐き気は?」
「ありません」
「頭は打ってない?」
「打っていません」
「本当に?」
「はい」
「隠してない?」
「隠していません」
「僕に気を遣ってない?」
「殿下」
「ごめん」
アルベルトは黙った。
ベッド脇の椅子へ座る。
両手を膝の上で組む。
その指が、ごくわずかに震えていた。
リディアは初めて気づいた。
「……殿下」
「何?」
「怖かったんですか?」
アルベルトは答えなかった。
ただ、微笑んだ。
「大丈夫だと思ってたよ」
嘘だった。
知らせを受けた瞬間、何も考えられなくなった。
軽い怪我だと聞いても信じられなかった。
転移陣に入るまでの数分で、
骨折。
出血。
感染症。
後遺症。
最悪の場合。
そこまで考えた。
考えたくないのに、頭が勝手に考えた。
「殿下?」
「…………怖かった」
聞いたことのない、小さな声だった。
リディアは目を瞬いた。
アルベルトは視線を逸らす。
「君がいなくなったらどうしようって思った」
「ただの捻挫ですよ」
「分かってる」
「では」
「分かってるけど、無理だった」
アルベルトは俯いた。
「頭の中で、勝手に一番悪いところまで考えるんだ」
そして、
「……ごめん」
と呟いた。
そのとき、アルベルトの上着から、1冊の手帳が滑り落ちた。
リディアが拾う。
「殿下、これ……」
アルベルトの顔色が変わった。
「待って」
遅かった。
手帳が開く。
そこには細かな文字で、
《リディアが好きなもの》
《リディアが嫌いなもの》
《リディアが笑った話題》
《体調》
《食事》
《睡眠》
《過去1年間で会話した未婚男性》
「…………」
リディアは黙った。
ページをめくる。
《婚約解消を申し出た理由について》
その下には、仮説が273個書かれていた。
一番上には、
《自分への愛情がなくなった》
とある。
ただし、何度も線が引かれ、
《可能性は低い》
《極めて低い》
《考慮する必要なし》
《でも否定できない》
《考えたくない》
と書き足されていた。
リディアは顔を上げた。
アルベルトは、見たことがないほど青ざめていた。
「殿下」
「…………」
「これは?」
「……見なかったことにできる?」
「できません」
「そうだよね」
アルベルトは目を閉じた。
「終わった」
「何がですか?」
「全部」
「殿下?」
「嫌わないで」
声が掠れていた。
か細くて、情けなくて、今にも泣きそうな声。
「お願いだから」
リディアは目を見開いた。
「ずっと隠してたのに」
「何を……?」
アルベルトは観念したように顔を上げた。
「僕、君のことが好きなんだ」
「……知っています」
「違う」
「え?」
「普通じゃない」
沈黙。
「君が他の男と話すと、1週間くらい眠れない」
「…………」
「返事が1日遅いと、嫌われた理由を100個くらい考える」
「…………」
「婚約解消って言われた日は、吐いた」
「殿下」
「君が『今日は少し疲れました』って手紙に書いたときは、僕のせいかと思って朝まで眠れなかった」
「それは試験勉強のせいです」
「あとで知った」
「…………」
「でも、困らせたくなかった」
青い瞳が揺れる。
「君が自由になりたいんだと思ったから」
だから自由にした。
本人としては、そのつもりだった。
領地を与え、護衛を置き、使用人を送り、毎日の報告を受け、独身男性を遠ざけながら。
全然自由ではない。
「ごめん」
アルベルトは俯いた。
「気持ち悪いよね」
リディアはしばらく黙っていた。
そして、一つだけ質問した。
「領地をくださったのも、殿下ですか?」
「うん」
「使用人も?」
「うん」
「菓子職人も?」
「……うん」
「町の本屋のトーマスさんが突然王都へ行ったのも?」
沈黙。
「殿下?」
「……栄転だよ」
「殿下」
「ごめんなさい」
王太子が怒られた子供のように縮こまった。
リディアは思わず笑ってしまった。
アルベルトが顔を上げる。
「……笑うの?」
「だって」
こんな人だとは思わなかった。
完璧で、何でもできて、自分などいなくても平気なのだと思っていた。
だから婚約を解消した。
自分よりふさわしい女性がいると思ったから。
「私、殿下は私との婚約なんて、どうでもいいのだと思っていました」
アルベルトは固まった。
「どうでも……?」
「だって、すぐに承諾されたので」
「あれは」
アルベルトは呆然とした。
「嫌だって言ったら、君に嫌われると思って」
「では、本当は?」
「絶対嫌だった」
即答だった。
「婚約解消したくなかった」
「……そうですか」
「ずっと戻したいと思ってた」
「そうですか」
「毎日」
「毎日?」
「朝起きたときと、昼と、夜と、その間も」
「殿下」
「ごめん」
リディアは笑った。
アルベルトは恐る恐る彼女を見る。
「……嫌いになった?」
リディアは少し考えた。
「引いてはいます」
アルベルトの顔が絶望に染まった。
「でも」
リディアは続ける。
「嫌いにはなっていません」
アルベルトが固まる。
「本当?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「気を遣ってない?」
「殿下」
「ごめん」
リディアはため息をついて、
それから彼の手を取った。
「今度は、ちゃんと話しませんか」
「話す?」
「殿下が何を嫌がって、何を心配しているのか。私が何を望んでいるのか」
アルベルトは彼女の手を見つめた。
「……聞いてくれるの?」
「ただし」
リディアは人差し指を立てた。
「勝手に男性を国外や王都へ飛ばすのは禁止です」
「国外にはまだ飛ばしてない」
「まだ?」
「言い間違えた」
「殿下」
「しません」
「報告書も禁止」
アルベルトが固まった。
「…………毎日は?」
「禁止」
「週1」
「禁止」
「月1」
「駄目です」
「…………」
この世の終わりの顔をしている。
リディアは呆れながらも笑った。
「その代わり」
アルベルトが顔を上げる。
「会いたいときは、会いたいと言ってください」
沈黙。
「……言っていいの?」
「はい」
「迷惑じゃない?」
「限度はあります」
「1日1回?」
「多いです」
「3日に1回?」
「殿下」
「1週間?」
アルベルトの顔がどんどん真剣になっていく。
「その都度、相談しましょう」
「分かった」
絶対分かっていない顔だった。
「それと、婚約についてですが」
アルベルトの呼吸が止まる。
「もう一度、最初から考えてみてもいいかもしれません」
「…………」
「殿下?」
「今の、どういう意味?」
「言葉どおりです」
「再婚約の可能性がある?」
「あります」
「何割?」
「そういう話ではありません」
「5割以上?」
「殿下」
「ごめん」
少し黙ってから、アルベルトは尋ねた。
「……抱き締めてもいい?」
リディアは少し迷ってから頷いた。
次の瞬間、アルベルトは彼女を抱き締めた。
驚くほど優しく。
壊れ物に触れるように。
「好き」
耳元で囁く。
「ずっと好き」
「……はい」
「たぶん、思ってるよりずっと」
「それはもう分かりました」
「嫌になったら言って」
「はい」
「でも、できれば嫌にならないで」
「努力します」
「努力なんだ……」
声が本気で落ち込んだ。
リディアは吹き出した。
---
その日から2人は、以前とは違う形で、もう一度関係を築き始めた。
アルベルトは、
不安になったら勝手に調査をせず、まずリディアに尋ねる。
他の男と話していても、人事異動を考えない。
手紙の返事が遅くても、最低3日は待つ。
という3つの約束をした。
3つ目については、
「3日も?」
と本気で聞き返した。
6か月後、2人は正式に、再び婚約した。
王国中は、
「遠回りをした2人が愛を確かめ合った美しい恋物語」
として祝福した。
誰も知らない。
再婚約が正式に決まった日の夜。
アルベルトが寝室で1人、
《リディア・エヴァンス嬢との婚約承認書》
を机の上に置き、椅子に座ったまま2時間眺め続けていたことを。
途中で何度も、
「本物だよね」
と確認していたことを。
誰も知らない。
婚約指輪を渡した翌日。
アルベルトが同じ意匠の指輪を10個作らせようとしたことを。
「なくしたとき用」
「壊れたとき用」
「盗まれたとき用」
「予備」
「予備の予備」
そこまで説明されたところで、側近が止めた。
「殿下。3個で十分です」
「でも」
「3個です」
「せめて5個」
「3個です」
「……4個」
「3個です」
「…………分かった」
こうして、婚約指輪は3個になった。
本人としては、かなり譲歩したつもりだった。
そして、もちろんリディアも知らない。
アルベルトの私室の最奥に、鍵が7つ付いた箱があり、その中には、8歳のリディアから初めてもらった、
『お誕生日おめでとうございます』
とだけ書かれた紙切れが、国宝より厳重に保管されていることを。
完璧な王太子アルベルトには、たった一つだけ欠点がある。
婚約者のことになると、
ちょっとだけ。
本当に、ちょっとだけ。
考えすぎてしまうのだった。
もっとも。
その「ちょっと」が、一般人のおよそ100倍ほどあることを、本人だけは、まだ知らなかった。




