(sob)RainBOW in the dark box(y)
外は春の雨が降っていた。
ハザードが鳴る。雷鳴よりずっと柔らかく、黄色い光が暗闇を丸く切り裂く。目の前にある全ての隙間を埋めるように雨粒が窓ガラスを叩く。うねる様に流れる雨の筋が顔に同じ模様の影を落とす。それは血管の様に脈打ちうねり回る。
先生の車は鉄の棺桶だった。
運転席に座った彼女は正方形の平たい箱から取り出したカラフルな煙草に火を点けて窓を薄く開けた。 数滴の雨が彼女の手を濡らした様に見えた。 ぼくも彼女に倣って煙草に火を点けると、先生は少し笑って煙草を交換しようと言った。
「わたしは例えば、例えばだよ、きみが何を失っても今日を眠り、食べて、煙草を吸い、何かに笑うだろう」
それが生きると言うことだ、とぼくは思った。「そうですね、ぼくもそうだと思います」
「それがわからない人は、少なくないんだよ」「そうなんですか?」
「あぁ、きみも学校をでたら識るだろうさ」
卒業、と言う文字が目の裏で踊った。
「あんまり時間がかからなさそうですね」
彼女はニヤリと笑って「そうだと良いな」と言った。ぼくは彼女の口元にあるぼくのセブンスターから目が離せなかった。
ブン、と音を立てて鉄の棺桶は動き出した。
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ブゥーーン、と音を立てて空調が働いていた。教室は様々なシトラス系制汗剤の匂いで溢れていた。それを各々がプラスチックの下敷きで攪拌している。
体育が終わった後の教室は更衣室から戻りきれずにいた。着替え終わったぼくらも学徒に戻りきれていない。さながら変態中の虫みたいだった。
炎天下での体育を終えたヤル気ひとつ無い生徒たちを相手に、教壇では何故か白衣を着た国語科の教師が手のひらでチョークを転がしながら「桃源郷とは何か」と生徒に訊いていた。
ランダムに指名された生徒たちはそれぞれの答えを述べた。別に正誤は無いから好きに答えろと笑う教師の白い手のひらで転がるチョークをぼくはずっと見ていた。チョークの粉が彼女の指を少しずつ汚していく。
何人かが桃源郷について答えていたけれど、ぼくはそれを聞いていなかった。みんなの答えはたぶん欲望に直結したものやウケを狙った答え、または本で読んだままの利口な文言かなんかだろう。 そんな事を考えながら見ていた彼女の手の中で、左右に転がるチョークがぴたと止まった。「沢田、きみはどう思う?」
ぼくは後ろの席に座っている性格の悪いサッカー部員を気にしながら「よくわかりません」と答えた。先生はそう、とだけ言った。再び彼女の手の中にあるチョークがゆっくりと動き出した。黒板の上に架けられた時計の秒針が聴こえるようだった。誰も何も言わなかった。
ぼくはぼくであることを務めた。教室はまだ蛹のままだった。
乾いたチャイムが校舎の扉を破る。
放課後にぼくは教員室を訪ねた。
彼女は椅子に座ったまま振り向くと、左手に持っていたペンをくるくると回し始めた。ぼくはそのペンを見たまま、つまり彼女には視線を合わせずに「先生、本当は考えていました。終わりがある、それだけが桃源郷の条件です」
と声を出した。
彼女の指の間で回るペンが一瞬だけ止まり
「……そう」
と答えた直後にまた回り始めた。
教員室の空気は独特の匂いがした。印刷されたプリント類の熱っぽい埃の匂いや、数学科の気障な男教師のコロン、彼らが休憩中に飲むコーヒーや間食、喫煙所から戻ってきた老教師の匂い。
ぼくが様々な匂いを脳内で分解し終わった後、長い沈黙に耐えかねて少し目を上げると、彼女は目を合わせるのを待っていたかの様に回していたペンを止めると「良い答えだ」と言って笑った。
彼女の指にはチョークの粉が無く、それはとても綺麗だったけれど、ぼくはさっきの指の方が好きだなと思った。
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長針の先には蝶を模した飾りがついていた。蝶は丸く飛び続けるんだろう。それは美しいのだろうか?
「守るべき命と葬るべき命、その選択と行使こそ神が人間に与えた神同等の権利なんだよ」
彼女はぼくを見て言った。
「だが人間は神では無い。人間だ」
彼女は続ける。
「だから良いんだよ」
診療所の時計は静かに空気を刻んでいた。
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外に出ると雨が降っていた。にも関わらず、グラウンドからは野球部やサッカー部の声が響いている。恐らく体育館ではバスケ部だとかバド部、武道系の部活連中が汗を流しているのだろう。
傘を持ち歩く習慣の無いぼくは逡巡した後、そのまま雨の中に踏み出そうとした。
「待ち給え」
後ろから声をかけられて振り向くと例の教師が立っていた。
白衣を脱いだ彼女は案外と派手な私服を着ていた。Tシャツの胸元にある十字架の建てられた土星の様なロゴは雑誌で見覚えがある。しかし極彩色の髑髏模様が浮かんでいる黒いスカートは少しアバンギャルドな感じがした。
「なんですか?」
爪先を濡らしたぼくはどこかで煙草を吸うことを考えながら訊いた。彼女は履き潰しかけた赤いブーツの踵を鳴らしながら歩いてくると
「どうせ傘を持っていないのだろう、良い場所がある」と言った。
良い場所?と聞く前に彼女はぼくの傍を抜けて雨の中を小走りに行った。
「何をしてる、早く」
やたら大きな鞄を振り回しながら振り向いた彼女の勢いに釣られて、ぼくは同じ様に雨の中に走っていった。
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どこまで行くのだろう。安物のスニーカーが水を飲んで足に不愉快さを伝え始めたあたりで、先を行く彼女は二、三年前に潰れたガソリンスタンドを張り巡らすロープを跨ぎ、まだそのままで残されている洗車機へと入って行った。
「どうだい?」
学校では見たことも無い様な嬉しそうな顔でこちらを見ている。走ってきたせいか、軽く肩で息をしながら上気した顔をまじまじと見てしまった。
「珍しく視線を合わせたと思ったら、そんなにひとの顔を見るもんじゃあないよ」
ぼくは咄嗟に視線を外して「すみません」と言った。彼女は心底楽しそうに腹を抱えて笑うと、やはり振り回す様に大きな鞄を床に置いて、その中から煙草のケースを取り出した。そこには色とりどりの煙草が並んでいて、まるで虹の様に見えた。
「君も喫煙るんだろう?」
彼女が差し出す煙草を断って、ぼくは鞄の中からセブンスターズを取り出した。
「また渋い煙草を吸うね、そして燐寸とは驚いた」
「止めないんすか、煙草」
ぼくが訊くと彼女は一瞬ぽかんとした表情をして、すぐに笑い出した。
「いや、すまない。……フフ、いや、うん、すまない。フフ、私は白衣を脱いだら教師の時間は終わりなのでね」
「教師の時間とかってより大人として」
「沢田、大人なんてのは役割なんだよ」
彼女が何を言わんとしてるか何となく理解したけれど、何かをはぐらかされた様でぼくは返答に困ってとりあえず燐寸を擦って煙草に火を点けた。すると彼女がこちらを向いて、まだ火の点いていない煙草を咥えていた。
「あぁ、すみません」
再び燐寸を擦ろうとするぼくの手を止めて彼女は咥えた煙草をぼくの煙草にすっと押し当てた。「こうするんだよ、沢田」
顔を離した彼女はいたずらっぽく笑った。
洗車機の外に降る雨が強い音を立てた。
******
「なぜぼくなんですか?」
「ずっと見えていたんだよ」
「見えていた?」
「あぁ、壇上の教員席から、君がね」
「ぼくが、見えていた」
「そう、君が見えていたんだ。始業式のその時からずっとね」
「ぼくからは見えていませんでした」
「まぁ、そうだろう。そういうものだ」
「いいんですか」
「いいんだよ」
「先生」
「ん?」
「先生」
「君は意外と甘えるんだな」
「ダメですか」
「いや、そんな事は無いさ。嬉しいね」
「嬉しいんですか」
「あぁ」
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外は春の雨が降っていた。
それでもぼくは独りじゃなかった。
交換した煙草は赤い色をしていた。
「色によって味が違うんですか?」
彼女はセブンスターの煙を吐くと「全部同じさ」と言った。別にガッカリはしなかった。むしろ安心した気すらする。
いつかの様に十字架の建てられた土星ロゴのシャツと極彩色の髑髏がプリントされた黒いスカートを履いた彼女は、キツいと言いながらそれでもセブンスターを吸って、吐いた。
「きみは前に、終わりがある世界が桃源郷だと言ったね」「はい」「それは不老不死みたいなものには反対だと言うことだ」「はい」「終わらないのは怖いか?」「はい」
「じゃあすこし質問を変えよう」
彼女はこちらを向いて訊いた。
「終わりを迎えるならいつが良い?」
フロントガラスを流れる雨の筋が彼女の顔に皹を入れた様に見えた。彼女の目は月の様に光っていた。虹彩が美しかった。
ぼくは彼女の目を見ながら彼女の質問について考えていた。終わりを迎えるならいつか。
絶頂の瞬間か、絶望の底か、それ以外か。それ以外ならいつだろう?絶頂の直後や絶頂の底の寸前、それとも何もない凪の様な瞬間こそそうなのかも知れない。
「強いて言うなら今ですかね」
煙草の先に長くなった灰を空缶に落としてからそう答えた。
「そうか、フフ」
彼女は笑うと同じ空缶にセブンスターの吸い殻を押し込むと、車のサイドブレーキを戻した。 鉄の棺桶はゆっくりと雨の中を進む。
外は春の雨が降っていた。
けれどぼくらはひとりではなかった。




