月めくりエッセーMay 「こどもの日」に寄せて
◆鯉は大空を泳ぐ
「こどもの日」(五月五日)が来ると、生家の庭に、薫風を受けて大空を泳いでいたこいのぼりを思い出す。巨大な幟旗もはためいていた。
家はなだらかな山の斜面を造成して建てられていた。昔ながらの農家だったので、母屋のほかに納屋と小屋、倉庫があった。屋敷は広く、斜面を背にした母屋の三方に庭が設けられていた。
庭の生垣に何本もの竹竿が固定され、こいのぼりと幟旗がスルスルと上げられる。作業を見守っていて、ドキドキしたものだ。
こいのぼりには大小あった。さらに緋鯉と真鯉がいて、にぎやか。いかにも家庭的だった。
一方の幟旗には、戦国の武将たちが染め抜かれていた。武田信玄や上杉謙信などが勇猛そうな顔つきで見下ろしている。こいのぼりとは完全なミスマッチだった。口にこそ出さなかったが、子供心にもしっくりこないものがあった。
◆武将はどこへ
残念ながら、これは筆者自身の端午の節句の記憶ではない。七歳年下の甥のお祝いに贈られたものだ。
長兄の端午の節句も、戦時中ながら、それなりに盛大に祝っただろう。筆者は三男なので、親類縁者の祝意が尻すぼみになるのも仕方のないことだ。
それはともかく、どこの家の庭先もこいのぼりや幟旗で賑わっていた。武者人形や鎧兜などの内飾りを見かけたことはあまりなかった。
逆転現象が起きたのは、庭が狭くなったこと、集合住宅が普及したことが大きい。いくらミニサイズ化しても、鯉や武将たちは狭い庭では窮屈だろう。マンションのベランダに飾り付けると、いろいろ問題が生じる。
もちろん、馴染みが薄くなったのには、少子化の影響が見逃せない。
◆祝い事は世につれ
祝い事もまた、時代とともに変転してきた。
端午の節句は「菖蒲の節句」の別称がある。菖蒲で邪気を払おうという行事だった。武家の世になり、男の子の武運を祈る要素が強くなる。都合の良いことに、菖蒲は「尚武」(武道や武運を尚ぶこと)へと通じ、社会に定着、今日の原型となったようだ。
世代によっては、五月五日は「こどもの日」の方がなじみ深い。一九四八年(昭和二三)に制定されたもので、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とする。
ここにも時代の流れを見て取れよう。
◆外国人は思う
しかしながら、そこから日本は何歩進んだだろうか。
一九七〇年代後半、外国人の友人と話していて
「やっぱり、そう思うだろうなあ」
と気づかされる経験をした。
その友人は五月五日のことを
「知ってるよ。男の子の日ね」
と言ったのだった。
必ずしも間違いではない。ただ、桃の節句つまり「女の子の日」との整合性を説明できる自信がないので、筆者はあえて訂正しなかった。
大の日本ファン、日本通だった。いくら法がジェンダー平等を建前としていても、理想とは程遠いことを感じ取っていたのだろうか。彼もまた、アメリカで差別を受けてきた黒人だった。