第二章 一
週が明けて、また試験の日々が始まった。
当初に予定していた項目の七割ほどが終わっているが、特筆すべき結果は得られていない。
昼休憩の時間になり、私と舞島さんは三階の休憩スペースで昼食を広げていた。他チームの研究員たちも、同じように休憩に出てきており、座席の半分ほどが埋まっている。
「あの人たちが欲しい結果が出ていないっていうのは、こっちとしてはありがたいことなんだけどねー」
舞島さんがそう言いながら、ランチボックスからサンドイッチを取り出す。その脇には淹れたてのアップルティーが添えられている。たしか、フォションといっただろうか、そんなブランドの人気商品らしい。
「そうですね。まあ、問題があるほうが面倒なことになりますけど。リコール案件じゃないですか」
「それはそう」
舞島さんがティーカップを持ち上げると、微かなリンゴの甘い香りがこちらに届いた。
そういえば。と、送ってもらった紅茶のお返しを、通販で頼んだことを思い出した。ソフィの選んだ候補はどれも良さそうなものだったが、私は一番子供向けなお菓子セットを贈ることにした。ソフィが気を聞かせて、紅茶に合いそうなものを選んでいたというのは、後になって聞いた話だ。
「舞島さん、先日は紅茶を送っていただいて、ありがとうございました。お返しの品は数日中に届くと思います。お菓子セットにしたので、良ければご家族でどうぞ」
「あら、別に気にしなくても良いのに。でもありがと。きっと娘が喜ぶわ」
日奈ちゃんが喜ぶ顔でも想像したのか、舞島さんは幸せそうに顔を綻ばせた。
そこに、私たちが研究室を出る時まで作業をしていた、神田主任と水無月さんがやってきた。神田主任はコンビニ袋を、水無月さんは無地のバンダナに包まれた弁当箱を持っている。
「今日はコンビニ弁当俺だけですか……」
神田主任が寂しそうに言った。私の弁当は毎日ソフィが作っているし、水無月さんは奥さんが作っているらしい。舞島さんは日によって違うので、神田主任が一人だけコンビニ弁当になることはよくある。
隣のテーブルに席を取った神田主任に、舞島さんが言う。
「奥さんにお願い……はさすがに無理か。神田さんより忙しそうですもんね。自分で作ればいいじゃないですか。奥さん喜ぶんじゃないですか。うちも旦那が作ったりしますよ」
「いやまあ向こうも神田さんだけどね。でも朝早く起きて準備するって考えると、結構面倒なんだよね。あっちは大体外食だし、こっちは食堂あるじゃない。俺は遠いし外に出るのが面倒だから、あんまり利用してないけど」
神田主任はおにぎりの包装紙を外しながら言った。話題に上がった神田主任の奥さんは、大手製薬会社の営業職をしているバリバリのキャリアウーマンだ。私は一度だけ会社の集まりで、神田主任と一緒に来ていたところに会ったことがある。私と舞島さんも世間的には同じ分類なのだろうが、私は彼女と同じキャリアウーマンだとは口が裂けても言えない。そう思えるほど自信と行動力に満ちた女性だと印象に残っている。
「話は変わるけど、早ければ明日には試験終わるよなぁ」
神田主任は食べかけのおにぎりを片手に言った。
「まだ向こうから連絡は来てないんですか?」
水無月さんが尋ねる。神田主任の向かいに座っているので、ビニール袋の前にお弁当が広げられている。見ているのかは分からないが、神田主任の視線はそのお弁当に向いている。
「まだ何も来てないな。今日あたり一回連絡入れようかとは思ってはいるけど……」
神田主任が言いかけたところで、丁度神田主任の端末に電話がかかってきた。
「と、言ってるところに丁度電話。ちょっと外す」
神田主任は持っていたおにぎりをテーブルに置いて立ち上がる。そのまま周りに誰もいないところまで、速足で歩いていった。
「進展ありですかね」
「かもね。朗報ならいいんだけど」
私たちは雑談の代わりに、神田主任が電話している様子を見ながら、静かに食事をとる。周りのざわめきにかき消されて、何を話しているのかはさっぱりわからないが、神田主任の表情は大きく変わることはなかった。
数分間そうしていると、神田主任は電話を切って、こちらに戻ってきた。
「どうでした?」
真っ先に質問をしたのは水無月さんだ。
「うん、ひとまず進展あり」
「え、それだけですか? もっと何かありませんか。良い話と悪い話があるとか」
舞島さんがいてもたってもいられなさそうに尋ねる。
「ま、ここで言うような内容でもないからな。話は研究室に戻ってから」
「それはそうかもしれませんけど……」
舞島さんは少し不満気で、水無月さんも目を合わせると肩をすくめた。
残りの弁当を、他愛ない話をしながら食べ進めたが、普段よりもせわしなかったのは気のせいではないだろう。
研究室に戻ってきた私たちは、すぐに会議をする準備を整えた。以前と同じように、ホワイトボードの前には水無月さんが陣取っている。だが以前と違い、今は二人の刑事が同席している。捜査で近くに来ていたから、調査状況の確認と報告のために同席したらしい。共有のスペースにはまだ人が多く、見える範囲だけでも研究室の中を片付けて、ここで会議を進めることになった。
全員の準備が出来たところで、年齢が上の刑事が話を切り出す。こちらが青砥刑事だったはずだ。
「まず、警察はこの件を、事件として捜査を進めています。現場の状況や被害者の状態から、事故ではないと判断した次第です。捜査自体は進んでいますが、特別皆さんに報告するようなことは判明していません。そして、依頼を受けていた、医療用アンドロイドの事件当日の所在ですが、ここら一帯の医療用アンドロイドは、一体残らず、事件当日それぞれの配備先にいたことが確認できました。ですから、医療用アンドロイドが事件に関わった可能性は無いという判断を下しました。また、鑑識の方で調べている、人工皮膚片についてですが、こちらはまだ特定に至っておりません。調査自体は進んでいるという話ですから、もう数日で判明するかと思います。何か質問などはありますか?」
青砥刑事がこちらの四人の顔を見渡す。
ある程度予想していたことではあるが、医療用アンドロイドの可能性が消えたのは、調査としては大きな一歩だ。他の三人も、犯人は人間で、アンドロイドは偶々その場に居合わせたという意見で一致することだろう。そうなると、被害者の爪の間に入っていた人工皮膚片は、アンドロイドのものではなく、人が利用していたものということになる。そうなれば、犯人候補はかなり絞られるはずで、事件解決への道が開けたようなものだ。
私を含み、気になることはあれど、まずは話を進めようという雰囲気が漂っていた。その雰囲気を感じ取ったのか、神田主任が話し出した。
「ひとまず、こちらからは何も無いようです。では続いて、こちらの調査状況の説明をさせていただきたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「お願いします」
ほとんど同じタイミングで、水無月さんがホワイドボード用のペンを、向刑事が万年筆を手に取った。
「この捜査が始まった時に、こちらのチームで話し合っていたことですが、一般用アンドロイドには犯行は不可能だ。という意見で一致していました。確認のため行っている試験は、今のところ七割ほど完了していますが、現状はその説を立証する結果しか得られていません。それ自体は問題ないことだと思っています。今後は残りの試験をこのまま続行する予定です。全試験が完了して、何も問題が見つからなければ、こちらが調査できる範囲では、アンドロイドの犯行を再現することは出来ないという結果になります」
私は一抹の不安を奥深くに閉じ込めて、刑事たちの反応をうかがう。神田主任も、黙って刑事たちの返答を待っている。
「ありがとうございます。一つお聞きしたいのですが、実施していただいている試験が完了して、何も問題がなかった場合でも、アンドロイドが犯人ではないと確定するものではないと思っています。アンドロイドの犯行ではないという結果は、どの程度信頼できるものでしょうか?」
言ってみれば、どれだけ私たちを信じてよいのか? という質問だが、神田主任は特別気に掛ける様子もなく、淡々と答える。
「試験には、こちらで製作しているアンドロイドを使っています。ですから、事件現場にいた機種がどうか、という話は出来かねます。どこのアンドロイドかもわからない。事件が起きた時の状況も分からない。その中でアンドロイドが人を殺せるか、という調査をしているわけですから“こちらが調査できる範囲では“不可能だと言わざるを得ませんね」
神田主任の説明に、二人の刑事は顔をしかめた。
「調査の条件が判明していないから、人工皮膚片からアンドロイドが特定できなければ、ちゃんとした結論は出せないということですか」
「おっしゃる通りです」
神田主任はにこりと笑った。
二人の刑事は顔を合わせて、こちらに聞こえないように話し始めた。こちらとしても、今の状況ではそれ以上の説明はできないし、何の保証もできない。
やがて内緒話を終えた青砥刑事が、こちらに向き直った。
「わかりました。今のままでは正確な調査も難しいでしょうから、なるべく早く、人工皮膚片の解析を進めたいと思います。では、我々はこれで」
刑事たちはそう言って席を立った。研究室のドアは、内側からもセキュリティを解除しないと開けられないため、神田主任がその後を追う。刑事が部屋を出て行ってすぐに、神田主任は戻ってきた。
「というわけで、話し合いが終わったわけだが、何か気になることはあるか?」
神田主任が私たちに問いかけたが、誰からも意見は出ない。
「じゃあ俺から一つ。正直、これから話すことは俺も考えがまとまっているわけじゃない。だから、三人の考えを聞いてみたい。まずは、この捜査が始まる前に、このチームで取り組んでいた研究を思い出してほしい。まだ上手くいっていなかったが、学習型の人工知能についての研究をしていただろ。躓いていたのは新しい感情の学習だった」
一週間ほど前、自分たちが行っていた研究の内容を思い出す。ここ一週間の調査の印象が強く、ずっと前の記憶を探るようなもどかしさを感じたが、やがて思い出すことが出来た。
既存のアンドロイドとは根本から異なる、自ら感情を学習する人工知能の研究だった。
人間でいう大脳辺縁系という、大脳皮質の内側にある部分で、喜怒哀楽や欲求、情緒を司っている部位を、人工知能で再現しようという研究だ。大脳辺縁系はさらに細かく分ければ、帯状回、扁桃体、海馬、海馬傍回、側坐核と分類されるが、特にかかわりが深いのは扁桃体と呼ばれる部位だ。
扁桃体は喜怒哀楽や快不快の処理を担っており、特に不安や緊張といった恐怖反応における重要な役割を持つ。
人が喜怒哀楽や恐怖を感じるように、人工知能が感情を持ち、個体による好き嫌いを判断できるようにするには、どのように学習させればよいのか、という問題にあたっていたはずだ。
「いろいろと実験をしていたわけだが、その中で一つ、いや一つだけなわけはないが、はっきりした結果が得られていないものがあった。未学習の感情領域を無理やり活性化させた時の反応実験だ」
人の感情はそれぞれ、脳の特定の領域が密接に関わっている。例えば、喜びに敏感に反応するのは前頭前野後方だ。人工知能にも同じように、感情に対して一部の領域が敏感に反応させるようにした場合、感情を識別できるのかという実験をしていた。まさに、人の頭脳を人工知能で再現しようという研究だ。
「その実験では、結局感情の識別は出来ていない。まだ実験段階だから、その場合にアンドロイドがどういう挙動になるかも、まったくわかっていない。ただ、そういった機種がいた場合、どんなエラーを起こすのか分かったものじゃないよなと思ったわけだ」
「それは学習型の人工知能を搭載したアンドロイドが既にいるんじゃないかって話ですか? そんな話聞いたことありませんし、実験段階なら機体まで与えられていないと思いますけど」
水無月さんの言う通り、そんな話は聞いたことがない。成功していたら、確実に話題になるだろう。
「だから、その実験段階の機種だったらって話。それならどういう動きをするか分からないし、何か間違いがあってもおかしくないなと、仮定の話だよ」
「それは確かにわかりませんけど、実験段階のアンドロイドが外を出歩くなんて大問題ですよ。それにそんな技術力ある会社なんて、かなり数が絞られませんか?」
舞島さんの指摘に、神田主任が小さく唸る。
「そうだよなぁ。このあたりで一番大きいところって言うと……」
神田主任の言葉に、全員がお互いの顔を見た。
この研究所だ。
「いや、さすがにないか」
もう一度、全員が顔を見合わせて頷いた。