第一章 四
「おはようございます! 今日の天気は晴れですよー」
目覚ましアラームのように、毎朝同じ時刻、同じ声量、同じトーンでかけられる挨拶で、私は目を覚ました。
全開のカーテンからは、夏のまぶしい朝日が差し込んでおり、寝起きの目には刺激が強い。目開くことが出来ず、両目を片手で隠しながら、ゆっくりと上体を起こした。
「おはよう」
ベッドのスプリングが、ぎしりと音を立てて揺れる。
「はい、おはようございます。体温は三十五度九分、顔色はまずまず、隈は少し。また夜更かしをしましたね? 多少なら許しますが、あまり褒められた行動ではありませんよ」
ベッドの隣に設置されている、L字デスクの様子を見て、ソフィは困ったように笑った。
警察の捜査協力を始めてから、二日が経過している。
試験はこれ以上ないほどに滞りなく進み、それ以上のペースで試験項目数は増えていく。
終わりの見えない試験は、ただひたすらに「正常」という結果だけを返し、アンドロイドの安全性を証明し続けている。
数ミリだけ開いた眼で、私を真正面から見据える顔を見つめた。
艶やかな髪と二十代を思わせる整った顔立ち、隈も毛穴も見当たらない、透き通るような肌。病院で目覚めたあの日から十七年、変わらない顔と、アンドロイドの証が朝日に照らされている。
「さぁ、寝不足気味な彩生のために、おいしい朝ご飯を用意していますよ。顔を洗って、歯を磨いてきてください」
私の顔を一通り確認したソフィは、またぎしりと音を立ててベッドから立ち上がると、静かに私の両足をベッドから下ろし、腰に腕を回してゆっくりと立ち上がらせた。
「眩暈や立ち眩みはありませんか?」
「平気」
あまり身体に力が入らないが、純粋に眠たいだけだろう。支えてくれたソフィの肩から手を離して歩き出す。
部屋を出ると、リビングに漂っていた味噌の香りが、鼻をかすめた。
「今日の朝食は豆と水菜のサラダ、目玉焼き、鮭の塩焼きと豆腐のお味噌汁です。睡眠時間が足りないようなら、仮眠をとっても大丈夫ですが、体に悪いので、ご飯を食べてすぐ寝てはいけませんよ。いいですね?」
ソフィは私の一歩後ろを歩きながら、朝食のメニューとともに小言を言ってくる。
「朝食を出しておきます。何かあれば呼んでくださいね」
いつの間にか持っていたタオルを私に渡して、ソフィは離れていった。
私の住む2LDKのマンションは、リビングに併設されたキッチンと、洗面所が冷蔵庫を挟んで隣り合っている。だから、ソフィが味噌汁を温めなおしつつ、洗面台で顔を洗う私の様子を、何度も横目に気にしているのが、鏡越しに見えた。
義手や義足、AI搭載ソフトウェアなどを主に販売していた、株式会社Teck×Life唯一の生活支援用人間型アンドロイドSOfT Life。通称SOFFE。State Of T Life――TはTecknologyから来ているのだろう――「テクノロジーライフの現状」という言葉から命名されているらしい。作成当時の最高スペックを有していたソフィは、二十年近い年月を経てもなお、十分な性能で私のことを支えてくれている。
長年連れ添っていることが理由なのかもしれないが、私に対する彼女の接し方は、幼いころから変わっていないようにも思う。
ソフトウェアのアップデートは適宜実施していると聞いているが、やはりその辺りの対応の変化などはまだ、人のようにはできないのだろうか。
幾分さっぱりした頭でリビングに戻ると、既にダイニングテーブルには、メニュー通りの朝食がきれいに並べられていた。
「ご飯の前に、線香をあげてくださいね」
私は頷いて、ソフィの部屋――というか、半分近くは両親の遺品置き場となってしまっている部屋――に入る。
十歳の頃、両親は火災事故で死亡した。私もその事故に巻き込まれたらしく、今でもそれ以前の記憶はほとんど残っていない。かろうじて思い出せたことは、両親とソフィと一緒に暮らしていたということだけだった。
仏壇に置かれた両親の遺影は、二人が私の親だと認識できる、唯一のアイテムだ。
脳神経外科医として働いていた父と、アンドロイド研究の先駆者として名を馳せていた母。
二人はそれぞれの分野で、頻繁に注目を浴びるような存在だったらしい。それは、二人が事故で亡くなる前に発行された、専門誌のインタビュー記事からも分かる。
そんな著名な二人が、一つの事故で亡くなったのだから、この業界に与えた影響は大きかっただろう。
点火棒でろうそくに火をともして、外炎の先に線香をかざす。火のついた線香から、独特のにおいが立った。
香炉には既に、一本の線香が立っている。私を起こす前に、ソフィが上げたものだ。ソフィは私を起こす前に、必ず両親に線香をあげているのだそうだ。
香炉に線香を立てて、合掌をする。
毎日欠かさずに行っているが、よく覚えていない両親相手に、何を思って合掌をすればいいのか、いまだに私には分からない。
合掌を崩して、ろうそくの火をあおぐ。一瞬火が大きく揺れて、小さな煙を立てて消えた。
振り返ると、部屋の入口でこちらを見つめていたソフィと目が合い、彼女は微笑んだ。
今日もやはり、私の後ろ姿を見て、彼女が何を思っているのかはわからなかった。
「ご飯にしましょうか」
ソフィに導かれるまま着席し、今度は食事を目の前に手を合わせる。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
ソフィは鼻歌を歌いながら、使い終わったキッチン用品を整頓し始めた。十七年間続いている、普段と変わらない朝の光景だ。
十七年前の事故の後、私はしばらくの間入院していた。隣にはいつもソフィがいて、彼女にとって、私はどんな存在なのだろうと、幼心に思っていたことを覚えている。
退院後は、自分のことすらよくわからなかった私を、叔父だという人物が迎えてくれた。彼と奥さんの間に子供はなく、我が子のように接してくれたのだが、結局私は、一月と経たずに彼らとの生活を終えることになった。
どうやら、彼らはソフィの存在をよく思わなかったらしい。理由は聞かなかったが、節々で「いつまであのアンドロイドを置いておくんだい?」と、ソフィを遠ざけようとしていたことには気づいていた。
叔父夫婦から不当な扱いを受けていたわけでも、彼らのことが嫌いだったわけでもない。当時の私に唯一残っていた記憶が、ソフィと生活をしていたということだけだったから、何の記憶もない叔父夫婦とともに過ごしていくことより、ソフィとともに生活をすることを選択した。それだけの話だ。
両親の残してくれた遺産と、身の回りの一切の世話をしてくれたソフィのおかげで、不自由なく生きていくことが出来たのは、不幸中の幸いだったかもしれないと、常々思う。
「今日はお休みですよね。予定はありますか?」
私は答える前に、口に含んだご飯を飲み込んだ。
「今日はずっと家にいる予定。もしかしたら調べ物で外に出るかもしれないけど」
ソフィは私の返答に、眉を落とした。
「ご両親のことですか?」
「関係があればそっちも調べるけど、今日は違うよ。仕事関係」
ソフィはまだ、こうして両親に関することになると、随分と気を遣う。
事故で両親を亡くすというのは、そう多くの人が経験することではない。悲しみもやるせなさも、一際大きいものだというのは分かる。でも私は、両親のこともよく覚えていないし、ソフィもそれを理解しているはずだ。
だから、両親の話題になるたびに、ソフィはいつまで表情を暗くするのだろうと思うと同時に、なんと声をかければよいのかわからず、その顔を見ないふりをしている。
「お仕事ということは、研究所に行きますか? 声をかけてもらえれば、いつでも車は用意しますよ」
「研究所に行く予定はないけど、何かあったら声をかける」
「はい、いつでも頼ってください!」
ソフィはさっきまでの陰気さを吹き飛ばして笑った。
私は自動車免許を持っていないから、必然と外出するときはソフィと一緒になる。稀に電車や公共の交通機関を使うことはあるけれど、そうするとなぜかソフィは寂しそうな顔をする。
仕事を与えられたときに嬉しそうな反応をさせるのは、どんな理由でそうしたのだろうと、いつも製作者の意図を考えてしまう。
頬の識別コードさえなければ、アンドロイドと人間の区別がつかない程に、現代のアンドロイド分野の研究は発展している。搭載されたAIの精度も高く、十年前の段階ですら、AIとの会話に違和感はないほどだった。
しかし、数日前にテレビで岩倉教授が言ったように、アンドロイドが人間の思考に到達するには、特に感情の面で、まだしばらくの歳月が必要だ。
膨大な分析データとメモリを駆使して、感情に近いものを表すことは出来る。
しかし人が持つ感情という機能は非常に複雑で、論理的ではないことも多い。Aという信号に対する反応が、状況によってBにもCにもなる。果ては1にも+にもなり得る人間の感情は、当の私たちですら、まだ解明することはできないだろう。
目の前のソフィが今、まるで上機嫌に鼻歌を歌っているように見えるのも、彼女の機嫌がいいからではなく、特定の状況下における行動パターンの一つとして登録されているからだ。
だから彼女たちは、許された感情以外を面に出すことは出来ないし、私たちは研究を続けている。
だとすれば、今回の事件は、私たちに何をもたらすのだろうか?
「この世に悪魔はいると思う?」
私の質問に、ソフィは目をしばたたかせる。
土曜日の朝七時二十分。
目の前には食べかけの朝食が並び、私は左手で味噌汁茶碗を持ち上げている。
「すみません、もう一度お願いします」
「この世に、悪魔はいると思う?」
私はもう一度、はっきりと言った。
「あ、聞き間違えわけではなかったんですね」
ソフィは気の抜けた顔でそう言うと、くすりと笑った。
「どうしたんですか、急にそんな質問をするなんて」
「何もないけど、どうこたえるのかなって、少し気になっただけ」
左手を頬に充てて、左斜め上をソフィは見上げる。少しだけ考えるようなそぶりをした。
「実際に悪魔が存在しているかどうかは分かりませんが、人の心の中にいるんだと思いますよ」
「どうして?」
私は熱心な宗教家ではないし、両親もそうだったと思っている。それどころか、科学で証明できない物事は信じない質だっただろう。
ソフィが人の影響を受けるかどうかは知らないが、私と意見が合わなかったということだけは分かった。
「どうしてって言われたら困ってしまいますね。お化けとか幽霊とか、そういったものもですけど、そういうものが見える人っているじゃないですか。その方からしたら、お化けは本当にいるものだと思うんです」
「私はお化けなんて見えないよ」
ふふっと声を出して笑われた。
「彩生はお化けも幽霊も、悪魔も信じていないですよね。でも、悪魔がいないなんて、さすがの彩生も証明は出来ないでしょう? だから、見える人や信じている人の中には存在していて、彩生の中には存在していない。私はそういうものだと思います」
言いたいことは分かるけど……
「哲学的な話を聞きたかったわけじゃないんだけど、まあいいよ。私には証明できないことだからね」
「拗ねないでくださいよ~」
悪びれた様子もなく、ソフィは笑う。
そういうつもりじゃないんだけど。という言葉を味噌汁で飲み込んだ。
「それじゃあ、ソフィはどうなの?」
「えっ?」
ソフィの笑顔が固まった。
そんな気がしただけだったのか、顔を上げると、困ったように笑うソフィが目の前にいるだけだ。
「ソフィの中に、悪魔はいるの?」
彼女の視線が徐々に下がり、回答が返ってくるまでに、先ほどよりも長い時間がかかる。
「私ですか? 私は、そうですねー。……私も、いるんじゃないかなって思います。どうしてって聞いちゃだめですよ。理由なんて答えられないんですから」
ソフィは人差し指を重ねてバツを作った。
「そうなんだ」
「そうなんです」
何の意味もない私の返答を、ソフィは繰り返した。
ソフィは静かに重ねた両手を降ろして、そこで話は終わった。
たとえ試験が終わりをむかえたとしても、アンドロイドの中に悪魔がいないことの証明にはならない。
たった一件。
アンドロイドの中に悪魔がいることの証明は、たった一件の実例で、簡単に成り立ってしまうというのに。