第一章 二
研究室の中は大きく荷物置き場、作業スペース、会議スペースに分けられている。
最大六人で使用することを想定されているため、四人で使うには十分な広さがある。
作業スペースには、一人ひとりに割り当てられたデスクが、向かい合うように並べられており、基本的には日々デスクワークに勤しんでいる。
そのためデスク周りは、その人の個性や嗜好が強く反映されているような気がする――これは私が言ったわけではなく、たまに研究室に訪れる事務員さんの言葉だが。
健康グッズをそこかしこに用意している神田主任。商品の陳列棚のように、ブランドの紅茶を並べている舞島さん。大切に家族の写真を飾っている水無月さん。一切余計なものを置いていない私。
そんな内容の話を、楽しそうにしていた事務員さんと舞島さん。私はすぐ横で話を聞きながら、仕事さえまともにこなせて、他人に迷惑をかけないなら、何でもいいだろうと思っていた。
実際のところ、自分で言うことでもないが、このチームは非常に優秀な人たちがそろっていると思う。それを理由に、何かと面倒な案件を回されることもあるが、私たちの技術と知識が必要とされているというのは、悪いことではないはずだ。
それに、本当に面倒なだけの案件は、神田主任の判断で拒否しているらしい。そういう話を聞くくらいだから、やはり優秀な人なのだと思う。
そんな若き優秀な主任は、やはり上手くいかない実験結果に悪戦苦闘していた。
今は水無月さんと二人で会議スペースを占領して、実験結果の考察を進めている。
「名雪、こっちの実験結果まとめるのは、あとは私一人で片付けられそうだから、向こうの手伝いしてきてくれる? あとで私も合流するから、途中経過まとめといてくれると助かるわ」
「承知しました。こちらで記載したものはサーバーにあげておきます」
「ありがと。それじゃよろしくー」
途中までまとめた実験結果を、共有フォルダにアップロードして席を立った。
「今、どんな感じでしょうか?」
二人は、声をかけられるまで私に気づかなかったようで、不意を突かれたように振り返った。
「あれ、そっちの作業終わった?」
「いえ、私は先に合流しただけで、残りは舞島さんがまとめてくれています」
離れたところで話を聞いていた舞島さんが、大きな声で捕捉を付け足す。
「明日にはそっちに行くので、今日までの成果は名雪にまとめてもらってください。どうせまだ資料にしてないですよね」
「おい、どうせとか言うな。少しは上司を信頼しろ」
神田主任は不満げに、舞島さんを指さした。
「そりゃもう信頼してますよ。我らが主任は、優秀がゆえに先に進みすぎて、結果をまとめるのが追い付いていないって」
「よし、許そう。名雪、よろしく頼んだ」
神田主任は真面目な顔をして手を降ろした。
私は、水無月さんの「茶番だなぁ」という呟きを聞かなかったことにした。
「それじゃあ、さっとこれまでの経過を説明するから――っと、悪い、電話だ」
神田主任が話し始めようとすると、着信音が神田主任のポケットから聞こえてきた。
「はい、神田です。はい、お疲れ様です。はい、はい――」
神田主任が電話をしている間、私はホワイトボードに書かれた文字を眺めていた。
――これは、話を聞いたほうがよさそうだ。
何を書いているのか理解できず、私は水無月さんに説明を求めようとした。その瞬間、電話を終えた神田主任が戻ってくる。
神田主任は二回手をたたき、作業をしていた舞島さんにも聞こえるように声を張った。
「はい、全員注目。とりあえず舞島も、いったん聞いてくれ」
舞島さんは何事かと首を伸ばした。
「とりあえず、名雪は舞島の手伝いに戻って、なるはやでそっちの作業終わらせて。で、水無月と俺はこっちの現段階の状況をまとめる。さらにその作業の前に」
神田主任は勿体つけるように、一泊間を置いた。
「今から全員で緊急会議。警察と一緒にな」
怪訝そうな表情をした二人と、視線が交わった。
私たちは研究室を出て、三階エレベーター前の広間に向かった。そこにはスーツ姿の二人の男性がいた。この気温だというのに、ジャケットが傍らのソファに掛けられていた。
「すみません、お待たせしました。汎用人工知能情報処理研究チーム主任の神田です」
そう神田主任が挨拶をすると、二人は立ち上がった。
「いえいえ、こちらこそお忙しい中すみません。私は捜査一課の青砥と言います」
四十代ほどの男性が、胸のポケットから警察手帳を取り出して言った。物腰の柔らかそうな話し方だが、その眼光は相手を見定めようという力強さを感じる。
もう一人、青砥と名乗った刑事よりも一回り若い男性は、立ち上がると百九十センチ近くありそうな長身で、広い肩幅とワイシャツの下に見える腕は筋骨隆々という言葉がよく似合う。真っすぐ結ばれた唇も相まって、どうしても圧の強さを感じてしまう。彼も同じように警察手帳を掲げている。
「同じく、向です」
私たちはまだ神田主任から詳しい話を聞いておらず、一体、刑事が何の用なのかはわからない。
二人と四人が向かい合うように座ると、青砥刑事が話し出した。
「もしかしたら、ニュースか何かで聞いて、既にご存じかもしれませんが、二日前にこの近くの住宅街で事件がありましてね」
「あぁ、昨夜にニュースで見た気がします。確か、ご老人が家の中で倒れていたとか」
神田主任が顎をさすりながら言った。
そういえば、そんなニュースがやっていた気もする。ニュースではそれ以上の情報がなかったし、熱中症で倒れたのかと思っていた。
「えぇ、その事件です。倒れていたのは浮舟歩佳さん。七十九歳のご高齢の女性です。その件で皆さんに、お尋ねしたいことがありまして」
どこかで聞いたようなセリフに、神田主任が「あぁ!」と、少し大げさに反応する。
「事情聴取ってやつですか。ですがそれなら、我々だけ呼び出された理由がわかりませんが」
「いえいえ、そういうことではありません。事件当時は、皆さんがこちらにいたことは、受付の方から聞いております。そうではなく、専門家の方のご意見を伺いたくて」
青砥刑事はそう言うと、ジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、そこに挟まれていた一枚の写真を掲げた。
「これは、なんでしょう。皮膚か何かに見えますが。よく見せていただいてもいいですか?」
「もちろんです」
神田主任はその写真を受け取ると、じっくりと観察する。そのまま隣へ、隣へと写真を観察して回し、私の元にやってきた。
写真には神田主任の言う通り、皮膚の一部のようなものが映っていた。だいぶ拡大して取られているようだが、元のサイズが小さいのだろう。よく見ても、それ以上は何もわからなかった。
私は写真を青砥刑事に手渡した。
「おっしゃる通り、これは皮膚片です。現場で見つかりました。それで、これを鑑識で調べてもらった結果、どうやらこれは、人工皮膚片だということがわかりました」
人工皮膚片と聞いて、何か嫌な気配を感じた。それは私だけでなく、三人も感じ取ったようだ。隣を見ると、神田主任は片方の眉を吊り上げている。舞島さんと水無月さんも、何かを考え込むような表情をしている。
「こちらに関しては、皆さんのほうが詳しいかと思いますが、人工皮膚片というのは、人型アンドロイドに使われることが多いものだと。それは間違いありませんか?」
「えぇ。私たちが直接扱うわけではありませんが、うちで開発しているアンドロイドにも、人工皮膚片は使われています」
「これが現場で見つかったと言いましたが、それ以外にも、いろいろと調査で分かっていることがあります」
青砥刑事はそこで話を切り、私たちの目を順番に見つめる。
「ここから先は、まだ報道されていない内容です。捜査協力のお願いですから、必要な情報はもちろん伝えさせていただきますが、皆さんには、今から話す内容と、捜査上で扱う情報は、口外しないでいただきたい。よろしいですか?」
青砥刑事の声のトーンが一段下がり、こちらを見る視線が一際鋭くなる。
隣に座る舞島さんが息をのむ音が聞こえた。
私たちの無言の肯定を確認すると、青砥さんは口を開いた。
「まず、第一発見者は浮舟さんが住んでいたアパートの大家さんです。二人はほぼ毎日世間話なんかをしているらしく、当日も浮舟さんを誘いに部屋に行ったところ、部屋の鍵が開いていることに気づき、部屋の中を見てみたら、浮舟さんが倒れていたということです。大家さんはすぐに救急車を呼びましたが、救急隊員が到着する頃には、既に亡くなっていたそうです」
青砥刑事は淡々と説明を続ける。
「死因は頭部の外傷。後頭部を机の角に強く打ち付けたことが最大の原因です。すぐに救助されれば助かったかもしれませんが、頭を打ってから発見されるまでに、半日以上の時間が経っていたようです。そして、先ほどの写真に写っていた皮膚片は、浮舟さんの爪に挟まっていたものです。偶然何かをひっかいてしまった可能性もありますが、これは浮舟さんが亡くなる前、犯人から襲われたときに、抵抗してついた可能性が高いです」
だんだんと彼らが今日ここを訪れた理由がわかってきた。
「つまり、浮舟さんは何者かに殺害されたと我々は考えています。しかし、浮舟さんの自宅に荒らされた様子はなかったので、物盗りや強盗目的ではなかったのでしょう。それについては、まだ詳細な理由などははっきりしていません」
青砥刑事はそこまで説明して、隣に目配せをすると、向刑事がその後を続けた。
「また、事件が起きた住宅街は高級な住宅街ではなく、どちらかというと経済的に安価な場所です。人型アンドロイドはかなり値の張るものですから、その近辺でアンドロイドを所持しているような家はなく、普段アンドロイドを見かけるようなこともないと、住民への聞き込みでわかっています。ですが、事件当日、浮舟さんと一緒に歩いていたアンドロイドがいたとの証言がありました」
ちょっとすみません。と神田主任が手を挙げた。
「人型アンドロイドを購入した場合や、譲り受けた場合、指定の購入届を市役所に提出する必要があります。そちらは調べがついていますか?」
神田主任の疑問に、向刑事がすぐに答える。
「はい、市役所の方でも確認をしましたが、あの辺でアンドロイドを管理している家はありませんでした」
「そうですか。失礼しました。続きをお願いします」
向刑事がさらに説明する。
「住民の証言では、女性型のアンドロイドだという意見がありましたが、具体的な顔立ちまで把握していた人はいなかったため、近隣の監視カメラの映像を調べているところです」
青砥刑事の刺すような視線が、再び私たちに注がれる。
「皆さんに検証していただきたいのは、アンドロイドが人を殺すことは可能か、ということです」
舞島さんの「マジかぁ……」という声が聞こえた。神田主任と水無月さんも、苦々しい表情を浮かべている。
「一つよろしいですか」
私が手を挙げると、青砥刑事は瞬く間に柔らかい目つきへと変わった。
「えぇ、どうぞ」
「人工皮膚を使用しているのは、人型アンドロイドだけではありません。今では医療用だけでなく、美容にも使われることがあります。用途によって微妙に素材が異なりますが、発見された人工皮膚はどのようなものか分かっているのですか?」
二人の刑事は顔を見合わせ、首を傾げた。
「申し訳ありません。あまり詳しくないもので、そういった可能性もあったのですね。我々も人工皮膚としか聞いていませんが、今鑑識で詳しく調べていますから、わかり次第お伝えします」
「よろしくお願いします」
「ほかに、何か気づいたことや、確認したいことはありますか?」
水無月さんが「捜査方針に口を出す気は無いのですが……」と前置きをする。
「浮舟さんが亡くなったのは自宅でしたよね。ご高齢のようでしたし、事故や病気の可能性は無いのですか?」
「そうですね。現時点でわかっていることは、浮舟さんは特定の病気での通院歴はなかったということです。病死やそれによる転倒かどうかは、まだわかっていませんが、数日中に判明するでしょう。ただ、杖を使っている様子もなく、活動的な方だったと大家さんの証言もありますから、事故という線は低いのではないかと」
「そうですか」
水無月さんは目を伏せた。
警察はこの事件を他殺だと考えている。しかも、アンドロイドによる殺人だと。
万が一にもそれが真実だった場合――
これは単純な殺人事件などではなく、時代の転換点になりうる。
それも、非常に悪い意味のものだ。