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序章

 白い天井。白い壁。白いシーツ。

 目の前の白衣を着た看護師が、手元のタブレットから目線を上げて、私の目をじっと見つめる。

「自分の名前は言えますか?」

 看護師はにこりと微笑んで、優しく私に質問した。

「あいです。名雪彩生」

「彩生ちゃん、痛いところはない?」

「頭が、少し」

「頭が少し痛いのね。どんな感じに痛む?ズキズキするとか、ぎゅうって締められるように痛いとか」

「…… ズキズキするような」

「我慢できないくらい痛い?」

 私は首を横に振った。

「うん、わかった。我慢できないくらい痛くなったら、すぐに教えてね」

 今度は首を縦に振る。

「それじゃあ、質問を続けるね。彩生ちゃんの年齢は?」

「えっと…… すみません。覚えていません」

 ベッド脇の椅子に座り、心配そうな顔で私を見つめる女性が一人。私の左手をそっと両手で包み込む。

「彩生。あなたの年齢は、十歳です。一週間前に、十歳の誕生日を迎えたんですよ」

 どうしてこの人のほっぺには、落書きがあるんだろう。

 女性のほっぺには、複雑な迷路を上から撮ったような黒い線が、はっきりと描かれている。

 看護師のほっぺには、何も書かれていないのに。

「彩生ちゃん。隣にいる人がどなたかわかりますか?」

 ほんの少し、うっすらとだけ残っている記憶を思い出す。

 ―― 暗くて、冷たい。

 ぼんやりとだけ知覚できるその感覚が、私の全てを満たしていた。

 どこにいたのか、何をしていたのか、何も思い出すことが出来ない。暗闇の中、すぐ近くで誰かの声が聞こえた。

「私が…… 必ず…… 」

 その声が、私の手を握る女性の声と一致した気がした。

「彩生ちゃん、大丈夫?」

 看護師の声に、現実に戻される。

 反射的に左を向くと、落書きのある顔がにこりと微笑みかける。その顔が一瞬だけ記憶と重なって、やっぱり知っている人だと思った。

「…… 知っている気がします。でも…… 」

 私がそれ以上答えられないでいると、看護師は答えをくれた。

「隣にいる女性は、彩生ちゃんと一緒に暮らしていた、ソフィさんです」

「ソフィ…… さん」

 聞いたことがあるような、あやふやな感じがした。

「あの、どうしてソフィさんには、ほっぺに落書きがあるの?」

 私の質問に、看護師は一瞬驚いたような顔をして、すぐにまた微笑んだ。

「この人はね、アンドロイドって言うの」

「アンドロイド?」

「そう、私とか彩生ちゃんは、生きている人間なんだけど、この人は機械なの。世の中には、ソフィさんみたいに、人と一緒に暮らしているアンドロイドもいるの」

 人と、アンドロイド。

 ソフィさんは、私たちと違って、生きているわけじゃない。看護師の言葉を、頭の中で繰り返す。

ぼんやりと、何かを思い出せるような気がした。

「なんとなく、わかった気がします」

「偉いね。それでね、彩生ちゃん」

 もう一度、看護師が尋ねる。

「彩生ちゃんは、どうしてここにいるのかわかる?」

 私はもう一度、ぼんやりとした記憶を思い出そうと黙り込んだ。

 ―― 雨が降っていた。

 誰かの呟く声と、顔に当たる雨粒の感触。誰かが私を抱えて、雨の中を走っているんだとわかった。

記憶の中の私が、少しだけ目を開けて、私を抱える彼女の顔が見えた。知っている、落書きのある顔だった。

 その顔が下を向いて、私と視線がぶつかる。彼女の瞳がおおきく開かれ、私を抱える腕に、一瞬力がこもる。

 彼女はゆっくりと足を止めた。言葉を発しようと開いた口からは、声にならないと息が洩れているだけだ。

「………… ぁ………… あ、い?」

 彼女は涙をこらえて、絞り出すように私の名前を呼んだ。

 私は何も答えられず、彼女も黙ったまま立ち尽くす。

 聞こえてくるのは、二人に降り注ぐ雨の音。かすかに、遠くで鳴り響くサイレンの音が聞こえた気がした。

 やがて彼女は、雨の中でうずくまって、私を強く抱きしめて泣いた。私より一回りも大きな体で、生まれたての赤ちゃんのように泣き続けていた。

 記憶はそこで途切れて、再び現実に引き戻される。

 私の腕は所々が絆創膏やガーゼでおおわれていた。

 ソフィさんの反対側にある大きな鏡には、頭を包帯でぐるぐるに巻かれた私の姿が映っている。

「彩生ちゃんはね、事故に遭ったの。それで、ソフィさんが、彩生ちゃんを連れて、病院に来てくれたの」

「事故…… 」

 もう一度、包帯だらけの頭を鏡で確認する。自分のこととは思えないような、痛々しい姿だ。

 でも、何も覚えていない。

「しばらくは病院で過ごしてもらうから、心配しなくても大丈夫。ソフィさんもいてくれるからね」

 私の左手が、ぎゅっと強く握られる。

 ソフィさんの方を見ると、にこりと笑っていた。

 泣きそうな顔だと思った。

「今はまだ、思い出せないこともあると思うけど、きっと良くなるから、安心してね。また様子を見に来るから、何かあったら、そこのボタンを押すか、ソフィさんに伝えてね。わかった?」

 後ろの壁にあるボタンをちらりと見て、こくりと頷いた。

 看護師は満足そうに微笑むと、ソフィさんに目配せをして部屋を出て行った。

「彩生、私は看護師さんとお話をしてきますから、少しだけ待っていてくれますか。すぐに戻ってきますから」

 もう一度首を振って、彼女が部屋を出ていくのを見送った。

 二人が部屋を出ていくと、私は病室に一人きりになった。開けたままの扉の先からは、誰かの話し声が聞こえる。私は天井を見上げて、過去のことを、そしてソフィさんのことを思い出そうとした。 ―― やっぱり、何も思い出せない。

 十年間の生活も、一週間前の誕生日も、他人事みたい。

 怖いとは思わないけれど、もしかしたら、怖いとも思えないだけかも。

 やっぱり、他人事みたい。

 心の中で呟いて、私は目を閉じた。

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