自家中
難しい局面にぶち当たって無様に死ぬかあるいは前進か、その二択がチラついたプレイフィールじゃなきゃもう楽しくなくなっていたんだ。だから気まぐれに落としたメタファーの体験版はある意味感動だった。ゲームってこんなにも気楽に、背もたれに寄っかかってボタンを押しているだけでも結構楽しめるってことが、あれは通り過ぎてもはや初体験になってしまった。でも根本的な軌道修正がなされたわけではなく、やはり僕はモニターに貼り付いて1ターン、1ちょん避けになんの誇張でもなく自らの命を吹き込んでしまうのだった。これは気づいたときには再び執り行われていた、あとの祭りの際中の記憶だった。過集中のうちにふっと息を吹き返し、また精神の潜水に明け暮れてゲーム中毒に冒されていた。
生きがいとは一時的に短期的快楽の優先度が上昇する時間のことをそう認識するに過ぎない。さらに詳細に語ればやはりコミュニケーションの先の昂りにあるのだ。ドラキュラの肖像画はどれをみても笑っている。きっと飲む血に困ったことがないんだろう。今どきの嫌味な切り口を思いついてから必死にかき消そうとしてるときの頭の痛さが回転ずしのコンベアの速度だ。共通点を見つけてしまって以来僕は500円寿司を三カ月前に口に入れて以来ご無沙汰して以来だった。今日は回らない寿司を食べよう。白身の良さなんか他人から聞くだけにして今日は赤いのばかり食べよう。そんな食べっぷりの方がきっと大将も喜んでくれるはずだってだって彼だって男の子だもん。
寿司*ゲーム=日本。そんな等式がけっこう通用してしまうこの時代において、助詞の「は」をイコールの意に捕らえてしまうような人が大半だった。含むという関係を知らない動物は虎であると主張する馬の歯がスマホよりもでかい。個人差とかいいいながら結局差があることを認めるのならもういっそ全部認めればいいのに。片頬に手を当てた人魚が岩場でため息をついて、そのまま高波に飲まれてしまった。そのときのgifをラベルにあしらった期間限定ボトルのジョニーヲーカー。実はそっちの方が通常版よりも安く売られていたりするのは酒屋に通う人たちだけの秘密だった。前に飼ったのはクリスマスっぽい赤のコカ・コーラコラボボトルだったっけ。あの赤色については記憶障害の線で調査を進めようと思う……オーバー。僕はノイズの向こうから伝わってくるか細い息遣いを信じて返答を待った。返事はなかった。もう僕は待っていなかったから。