シデムシ王子の初恋と婚約
「シデムシ令嬢の婚約破棄」の番外編(王子視点)です。本編に出てくる王子と出てこない王子の視点になります。
先に「シデムシ令嬢の婚約破棄」を読んでいただけると理解が深まると思います。
<第一王子アルバートside>
とんでもないことが起きてしまった。
弟である第三王子のロベールが部屋を抜け出し、第二王子ヘンドリクスが開いたガーデンパーティに忍び込んでしまった。先日、お忍びで城下にでかけた時に使ったカツラをかぶって変装して。
このガーデンパーティは10歳になるヘンドリクスのお妃選びのパーティで、第一王子である私も、第三王子のロベールも招待されてはいない。
忍び込んだだけなら何の問題もなかった。問題は、忍び込む時に生け垣の穴をくぐったのがいけなかったのか、頭にシデムシがくっついてしまったことだ。
シデムシは『死を呼ぶ虫』と言われて、ここ王都では忌み嫌われている。『シデムシに触ると、その人の周辺に死者が出る』とも言われている。
バカバカしい話だし、私はそんなの信じていないのだが、王都では広くそう言われているということが重要なのだ。
まだ出席者もまばらなガーデンパーティ会場で、ロベールの頭のシデムシを見つけた者が騒いだ。シデムシに触ることのできないロベールはどうすることもできず、うずくまっていたら、ある一人の令嬢がロベールの頭のシデムシを掴んだという。
周囲の注目が彼女に集まっているのをいいことに、駆けつけた護衛はロベールを抱えてその場を立ち去った。
そして今、その護衛から報告を受けたところだ。
「ヘンドリクスと第二王子派の人間はそこにいたのか?」
「ざっと見た感じ、そこにはいませんでした。まだ開場したばかりで第二王子は入場の準備をしていたらしく、取り巻きたちもそちらに行っていたのかと」
「ロベールのことを認識した者は?」
「焦げ茶色のカツラもかぶっていましたし、うずくまっていたので瞳の色を見た人間もいないでしょう。不幸中の幸いでした」
「そうか。わかった。ロベールはずっと自分の部屋にいた。それでいいな」
「承知いたしました」
ロベールの部屋に行くと、顔に涙の跡がついたまま床に膝を抱えて座っていた。
「ロベール、なんでガーデンパーティに行ったんだ。部屋から出てはいけないと言っただろう」
「おかあさまに美味しいお菓子を食べてもらいたくて……」
「厨房に頼めばよかったじゃないか」
「頼まなくても庭に行ったら貰ってこれると思ったから…だから…」
またロベールの目から涙が溢れる。
私とロベールは正妃の子で、ヘンドリクスは側妃の子だ。この国は生まれた順で次の国王が決まるわけではなく、国王の子供の中から最もふさわしいものが次代の王として国王に指名され、立太子することになっている。
正妃である母は由緒正しい公爵家の出で、側妃は飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長した侯爵家の出。現状、第一王子派と第二王子派の勢力争いが激しくなっている。
余談だが13歳になる私は母の「自分の伴侶は自分で選びなさい」という意向で婚約者がまだいない。だからこそ10歳のヘンドリクスに先に有力貴族の娘と縁づかせようと今日のパーティが開かれているのだ。
そんな勢力争いの中、半年前に母が病に倒れた。お腹に悪いできものができたそうで、三ヶ月ほど前から日に日に悪くなり、おそらくもう長くはない。もうあまり食べることもできなくなっているが、ロベールはそんな母に美味しいものを少しでも食べてもらいたかったのだろう。その気持ちは痛いほどよくわかる。
だがしかし、ここでロベールがシデムシを触ったとなると大変まずいことになる。近い将来必ずおとずれる母の死がロベールに結びついてしまうのだ。「迂闊にもシデムシに触ったことで正妃は死んだ」と殊更に第二王子派が騒ぎ立てるだろう。別にシデムシに触ってようと触ってなかろうと、それより先に死の淵に立っている母とは全く関係ないのだが、ロベールの、ひいては私達兄弟の瑕疵として触れ回るはずだ。
しかしあの場に私達兄弟が『いなかった』ということであれば、パーティでシデムシの騒ぎが起きたことは第二王子派で『なかったこと』にしてくれるだろう。王妃の死を第二王子派のせいにされたくないだろうから。
それにしても勇敢にシデムシをロベールの頭から取ってくれた令嬢というのはどこの誰なのだろうか。こちらでは出席者がわからないが、それとなく調べてみよう。弟の恩人なのだから。
◆◆◆◆◆
<第三王子ロベールside>
「一体どういうことなのですか!」
そう言いながら兄の部屋に入る。
机の前で書類を見ていた五つ年上の兄は、書類から顔を上げることなく「何がだ?」と問う。
「あの日のことは『なかったこと』だと、そう言いませんでしたか!?」
書類から目を上げた兄は慌てて人払いをし、部屋には兄弟二人きりとなる。
「今日は王立学園の入学式ではなかったか?」
机を挟んで兄と対峙する
「そうです。そこで南のジャスパー辺境伯の令嬢が『シデムシ令嬢』と呼ばれていました。詳しく話を聞くと彼女はあの時、シデムシを掴んだことでそのように呼ばれているとか。あの日のことは『なかったこと』になってるはずでは!?」
目頭を揉みながら兄が答える
「そうだ。お前はあの場にいなかったし、ヘンドリクスもシデムシのことは公式には『なかったこと』にしているはずだ」
「じゃぁなぜ彼女がそう呼ばれているのですか!」
「目撃者が多かったからだろうな。お前と同世代の令嬢はほとんどあの場に呼ばれていた。まだ全員揃ってなかったとは言え、シデムシを掴んだことは見ていた者の記憶に残っただろう。彼女がシデムシを掴んだというその事実だけが一人歩きしているのだろう」
「彼女は恩人です。彼女にだけ泥を被らせるわけには!」
「それはダメだ!」
兄の厳しい声に身が縮まる。
「あの日、あの場にお前がいて頭にシデムシをつけていたこと、それを隠していたこと、そしてその後に母が死んだこと、全てが第一王子派の瑕疵となる。お前はヘンドリクスが王になることを望むか?」
ヘンドリクス兄上には悪い感情はない。少し気が弱いところがあるが優しい兄で、王太子争いがなければ仲の良い兄弟になれたのではないかと思う。ただその気の弱さが傀儡になる可能性を秘めていて、それを私たちは危惧している。
「……わかりました。しかし」
「お前の気持ちはわかる。だが私たちは『なかったこと』に対して何もできないし、してはいけない。理解してくれ。」
ぐっと唇を噛み締める。
あの時、誰もが遠巻きに見つめる中、あの令嬢は冷静に歩み寄り頭からシデムシを取ってくれた。瞳の色が見えないよう顔を隠していたが指の隙間から彼女の顔を見た。彼女はシデムシを恐れていなかった。恐れるどころか穏やかに微笑んでいた。女神かと思った。
それなのに私は、私を救ってくれた女神に何もできないのか。噛み締めた唇から鉄の味がした。
◇◇◇◇◇
<第一王子アルバートside>
「弟から聞いたのだが…」
そうジャスパー辺境伯に切り出した。
半年に一度、東西南北の辺境伯が王城に来て国王へ辺境の状況を報告し、各辺境伯同士の情報交換の会を開く。
南の辺境を統治するジャスパー辺境伯に密かに連絡を取り、私の自室に来てもらった。ジャスパー辺境伯は筋肉のついた大きな体で窮屈そうに軍服を着て、私の前に座っている。
大きい体の割に威圧感はなく、穏やかな雰囲気を纏った男だが、戦場では軍神といわれるほどの強さを持っている。
「ご令嬢が学園で『シデムシ令嬢』と呼ばれているとか」
「あぁ、そのことですか。」
辺境伯はにやりと笑って顎を擦る。
「彼女がそう呼ばれるきっかけを作ってしまったことを申し訳なく思っている。公式には何も言えないのだが、ここで、個人的に辺境伯と話したかったのだ」
「シデムシなんて掴んでも何も起きやしません。あんなの信じてるのは王都の貴族だけでしょう」
「そうなのだが、ここではシデムシは忌み嫌われているからな」
「シデムシってね、いなくちゃ困る虫なんですよ。死骸だの家畜の糞だのを食って土に還してくれるんですからね。私らは土で育てた野菜を食べ、土で育てた草を食んで育つ動物を食べて生きていき、死んだら土に還っていく。そういう命の繋がりの中では人間もシデムシも歯車の一つにしか過ぎんと思うんですよ。歯車には大きい小さいはあるでしょうが、小さい歯車だって無くなって良いものはないんです。王都の貴族様にはそれが理解できないんでしょうけど。」
「耳が痛いな」
「いやぁ、王子は理解してくださってるでしょう。王都しか知らない貴族のお子さんたちには難しいかもしれませんがね」
「しかし令嬢は辛い思いをすることになるだろう?」
「大丈夫ですよ。気にしないでください。シデムシのことがなかったとしても、辺境のモンは嫌われるんですよ。王都にいる貴族が偉い、王都に近い領地を持つ貴族が偉いって思いたい奴らはだいたい辺境を見下します。辺境は国の端っこのど田舎で、戦いばっかりしている野蛮な連中だってね。私も学園に通っていた時にはそうでしたし、北も東も西もそうだったようです。
でも理解してくれる人はちゃんといる。あなたやあなたのお父上である陛下のように。
そう言って辺境伯はにっこりと笑った。
「私は陛下と同い年ですしね。アルバート王子のことは北のエンドリオン辺境伯から聞いてますよ。あいつの長男と同級生だったとか。あなたがお父上の後を継ぐのであれば安心です。私達辺境は力の限りこの国を守りますよ。あぁ、これはくれぐれもご内密に。まだ正式には決まってないですもんね」
辺境伯はおどけたように肩をすくめる。東西南北の辺境伯たちが私を認めてくれるというのは何よりの朗報だった。
「こうやって話をすることになったということは、娘と同い年のロベール王子が娘にも目を配ってくれているということなんでしょうけど、どうか気に病まないでいただきたい。娘もこれくらいでへこたれているようでは、辺境伯になんてなれない。辺境伯には力のない者は立てんのですよ。力のない者には誰も付いてこない。だから上に立つものは誰にも負けちゃならんのです。あの子はね、私や私の父のような武力はない。だからおそらく知力で上に立とうとしています。でもね、上に立つ者に必要な真の力は武力でも知力でもない。」
辺境伯は言葉を切って、拳で自分の腹をどんと叩く
「胆力です」
そう言ってまた笑う
「誰にも負けない気持ちの強さが必要なんです。絶体絶命の窮地に陥った時にでも諦めない強い気持ちを持つことが」
彼の言葉は私の心に深く刻まれた。
「身が引き締まるような言葉だな。王もそうでなければならない。良い話を聞けた。それにしても伯は娘に甘いのかと思っていたが、存外厳しいのだな」
「目の前にいたら甘やかしますよ。愛する妻が残していったかわいいかわいい娘ですからね。でも私もいつどうなるかわかりません。戦争が起きれば辺境は最前線だ。もし私が死んで一人ぼっちになった時になにもできないような娘になってほしくはないから。だからロベール王子!娘を助けないでくださいね!」
まさにロベールが隠れている机の方を見て辺境伯が言う。伯のいる場所からロベールの姿は確認できないはずだ。
「くっ……なぜわかった」
机の下からロベールが這い出てくる。
「部屋に入ったときから、アルバート王子以外にも人の気配はしてましたからね。王子たち以外にも影が何人か…三人かな。影は気配を消そうとしていましたけど、気配を消そうという素振りもない人がいましたんで、隠れているとすればロベール王子かな、と」
影の気配もわかるというのか。話をしていると穏やかで優しそうな雰囲気だが、やはり軍神と言われる男だ。
「でも……いいのか?令嬢は三年間一人ぼっちかもしれないぞ」
私の隣にちゃっかり座ったロベールが言う。
「むしろその方が好都合です。もしあの子が武力に秀でた子だったら、森に置き去りにするなり山に置き去りにするなり、一人で胆力を育てる場面を作ることができたのですが、それができなかった。だからこの三年間は娘にとってかけがえのない時間になると思います。誰かになにか言われた時に、黙って耐えるのか、言い返すのか。誰かに暴力を振るわれた時に、泣いて終わるのか、戦うのか、違う方法でやり返すのか。いいですか、王子、同情はいりません。かわいそうな娘に手を差し伸べようなんて気持ちで近づかないでもらいたい。唯一、あの子を助けていいのは婚約者のシュテファンだけです。まぁ本当は娘一人で戦ってほしいのですが、将来、共に辺境を統べる者として助け合うことは悪いことではない。でもそれは王子、あなたではない」
そう言い切ると同時に空気がピリッと変わった。今までの穏やかな空気も今の張り詰めた空気も、目の前の一人の男の気持ち一つで自由自在に変えられるということか。
「…私にできることは何もないというのか」
「そうですね。あるとすれば……見守ることでしょうか。次期辺境伯がどのような人間なのか、しっかりと見ていただきたい。噂や他人の言うことに惑わされることなく、ご自身の目で見たことで判断していただきたい。そしてもし、王子のお眼鏡にかなうようであれば、辺境伯となった娘になにか困ったことが起きた時に助けてあげてください」
辺境伯が部屋を辞したあと、ロベールと語り合う
「中央の貴族に聞かせてやりたい話ばかりでしたね」
「私達にも有意義な時間だったと思う」
「ああいう『強い』人が中央にもいてくれたなら」
「いや、あの人の器は辺境で大きくなったのだろう。辺境でしか得られない強さもあるはずだ」
「私も辺境で育ちたかったものです」
「一人で森や山に置いていかれるぞ」
そう言って二人で笑う。
「色々なしがらみでがんじがらめになってる今よりはずっといいんじゃないでしょうか」
「お前なら今からでも戦える。やりたいことをやっていいんだぞ」
「兄さんは?」
「私は大人相手に戦って胆力をつけるよ。上に立つ者の胆力をね。辺境伯の話を聞いて、私は『王になること』しか見ていないことに気付かされたよ。王になった先のほうがずっと長くて険しい道だ。その自覚と覚悟がまだ足りなかったようだ」
「私は自分に何ができるのか、何をやりたいのか、じっくり考えたいと思います」
真っ直ぐ前を見つめたロベールが言った。
◆◆◆◆◆
<第三王子ロベールside>
父上に相談し、学園を卒業した後の進路を王国軍に決めた。いつか彼女が窮地に陥った時にすぐ助けに行けるように。いつかこの恩を返せるように。
幼い頃から続けている剣術の稽古の回数も増やそうとしたが、まだ成長期だから余計な筋肉はつけすぎない方がいいと言われ、体力づくりを中心に運動量を増やした。
学園ではいつも彼女を見守った。度が過ぎる中傷は注意したが、それ以外何もできないことがもどかしい。彼女だけを特別扱いすることはできないが『王族たるもの、誰にでも分け隔てなく接する』という名目で他の人と同じように話しかけたりはしている。
放課後には時間が許せば図書館に通った。そこにはいつも彼女がいたから。お互いに言葉を交わすことはないが、彼女が懸命に勉強している姿を見て、自分もそうあらなければならないと身を引き締める。
ある時、王城に訪れた彼女の父から小さな器を手渡された。
「娘に聞きましたが、最近頑張ってるようですね。うちに伝わる打ち身によく効く軟膏です」
剣の稽古でアザを作ることも多くなっていて、そんな話を学園内で誰かにした覚えはあるが、彼女も聞いていて心配してくれたんだろうかとちょっと嬉しくなる。
辺境伯は『娘を助けることができるのは婚約者だけ』と言っていたが、肝心の彼女の婚約者は彼女に対して何もしない。何もしないどころか別の女性を連れて歩いている姿も見た。腹立たしく思うと同時に、もしかしたらという邪な気持ちも抱いてしまう。
父や兄や、母の実家の公爵家から私の婚約について話を持ちかけられているが、すべて断り続けている。もし彼女と婚約者が仲違いするようなことがあれば……そんなことを考えてはいけないのは理解しているが、どうしても諦めることができない。
幸い私は第三王子で、兄と違って絶対に誰かと結婚しなければならないということでもない。もちろん国のためにどこかの家やどこかの国と結びつきを持つ必要があるというのであれば王族としての務めを果たさねばならないが、その必要が出るまではひとりでいたい。
一年、二年、三年と学年が上がると共に彼女に対する想いは強くなっていった。
誰に何を言われても平然としている彼女の姿を見て、彼女の隣に立ちたいと思った。彼女の故郷である南の辺境のさらに南方で戦争が起きていて、もし戦火がこちらのほうに伸びてきた場合のことを考えると南の辺境の守りは国の重要課題となる。彼女の隣に立つためには少なくともあの忌々しい婚約者以上の剣の腕を持たなければならない。卒業が近づくにつれ、ますます剣の稽古にのめりこんだ。あの婚約者以上になれば、彼女を奪うことができるだろうか。あの婚約者に他の女性がいることを公の場で問えば、彼女の婚約は破棄できるだろうか。
誰にでも平等に接し、誰にでも優しい王子の仮面の下では、そんなどす黒い思いを抱えていた。
卒業記念パーティでも彼女の姿を目の端で追っていた。そんな彼女の元に婚約者が寄っていった時、ほのかな期待を抱きながら引き寄せられるように彼女に近づいていった。
「アイリーン・ジャスパー!君との婚約を破棄する!」
そんな声が聞こえた時、頭の芯が熱くなった。最大のチャンスが向こうから転がり込んできたのだ。
「婚約破棄、するの?」
平静を装って声をかける。でもたぶん満面の笑みが浮かんでいたのではないかと思う。
彼女は破棄ではなく解消でいいという。どちらにしても婚約の事実がなくなるということだ。あとは破棄なり解消なりしたあとで、彼女に婚約を申し込めばいい。
そう考えていたのだが、婚約解消の知らせが一向に来ない。王国軍で激しく厳しい訓練に明け暮れながら、辺境の動向を探る。一ヶ月経ち、三ヶ月経ち、半年経ったところで待ちきれずに圧力をかけた。王族としてあるべき力の使い方ではないのはよくわかっているが、王太子になったばかりの兄も苦笑交じりに協力してくれた。
婚約解消の知らせが届いてすぐ、南の辺境に向かう準備を始めた。兄は私が何をしようとしているのかすでに知っている。父上にも辺境伯令嬢と婚約し、婿入りしたいことを伝えた。「王子の身分を捨てることになっても辺境に向かいます」と宣言した私に父上が言う。
「辺境に身を置くということは、危険と隣り合わせということだが覚悟はできているのか?」
「王国軍にいても辺境にいても、国を守るということに違いはありません」
「守りたいのは国だけか?」
父上に言われて一瞬躊躇う
「……いえ、それは」
「辺境伯が婚約を許してくれるかどうかはまた別の問題だぞ」
ニヤニヤしながら父上が言う。
「許してくれるまで帰ってきません」
「一、二発殴られる覚悟で行け」
「婚約してもらえるならいくらでも殴られます」
大笑いした父上と兄に見送られて王都を発った。
辺境が近づくにつれ、緊張感が高まる。辺境に着くまでの間に誰かと婚約が成立していたらどうしようか。辺境に着いた時にすでに他の男が彼女の隣に立っていたら……
会う前に断られるのが怖くて、訪問の打診の手紙には婚約に関して一切触れなかったのだが、本当にそれでよかったのか。
ジャスパー辺境伯邸で辺境伯と彼女に出迎えられた時、彼女の横に誰もいないことに少しだけ安堵して笑みがもれた。
まずは辺境伯と二人で話をする。
「今日、こちらを訪ねたのは、アイリーン嬢との婚約を希望していると辺境伯に伝えるためだ。釣書を送る時間も、返事を待つ時間も惜しくて直接ここに来た」
「は?」
辺境伯があっけにとられた表情でこちらを見る。
「まだ婚約者が決まっていないのだったら、私をアイリーン嬢の婚約者にしてもらえないだろうか」
「え?王子、王国軍は?」
「辞めてきた」
「は?」
「婚約者にしてもらえないのであれば、この辺境軍に入れてほしい。婚約が叶わなくても彼女のそばで彼女を守りたい」
「いや、待ってくれ。じゃない、待ってください。王子とアイリーンが?王子、前に言いましたよね?同情はいらないと」
「同情ではない。あの時辺境伯に言われたとおり、ずっと彼女を見守ってきた。彼女の強さをずっと見てきた。彼女を一人の女性として好ましく思っている。婚約の許しを得られないだろうか」
「本気なのですか?」
「本気だ」
即答する。
「……そうですか。後は娘の気持ち次第で」
ため息をつき、諦めたような表情を浮かべた辺境伯はソファの背もたれに身を預ける。
辺境伯は彼女を呼んだ。
庭を案内してもらいながら、彼女と二人で話をする。彼女に断られるのが怖くて、辺境には武力に秀でた人間が必要だと話を持ちかける。
『縁談』の話をすると、彼女に異論はないという。外堀を埋めてからだなんて、我ながら卑怯だと思う。だけど怖い。彼女にシデムシを取ってもらって、その後我関せずを決め込んでいた私のことをどう思うのだろうか。嫌われたくはないが嘘を言いたくもない。正直にあの日のことを告げ、彼女の前に跪いた。
「私を救ってくれたあの日から、ずっと君のことが気になっていた。学園にいた三年間ずっと君のことを見ていた。誰に何と言われても自分の足でしっかりと立つ君が好きになった。あの日私の頭にシデムシが止まったことは公式には『なかったこと』になっていて、君に謝罪をすることも表立って君を庇うこともできなくて本当に申し訳ないと思っている」
そう言って頭を下げた。彼女は目を見開いたまま、何も言わない。
「あのパーティーで婚約解消の話が出た時、私の心は大きく跳ねた。あれからすぐ王国軍に入り体と心を鍛えて、辺境のこの地で君の隣に立てるように努力した。まだ力は足りないが、君とこの辺境を守れるような男になる。だから私の気持ちを受け入れてもらえないだろうか」
そう言って手を出したが、彼女は何も言わず目をつぶるとその場に倒れ込んだ。
力の抜けた彼女を抱きかかえ、人を呼び、辺境伯に睨まれながら彼女が目覚めるのを待った。もちろん彼女の部屋には入れてもらえないから、部屋の前で。
辺境伯も一緒に辺境についてきた従者も別室で待てというが、まだ彼女の返事を聞いていない。返事をもらえるまでここで待つと言うと、辺境伯にも従者にも呆れた顔をされたものの、彼女が目覚めた時に部屋に入れてもらえた。部屋の扉を開いた状態で二人にしてもらう。
「ロベール様…?あの、わたし…」
「まだ返事を聞けていない。私の気持ちを受け入れてくれるだろうか?それとも君を守ることができなかった卑怯な男は嫌いだろうか?」
「……夢じゃなかったのですね……あの、本当にあのときのことは気にしないでください。私は大丈夫なので」
「その返事では私が大丈夫ではない。辺境伯にも確認されたが、同情でこんなことを言っているわけでも、あの日のことに責任を感じて言っているのでもない。君のことが好きなんだ」
そう気持ちを伝えると、いつも冷静で落ち着いた彼女がみるみるうちに真っ赤になって小さな声で「ヨロシクオネガイシマス…」と答えた。
私の初恋はここに成就した。
ざっくりしたプロットで書き始めたら、辺境伯が熱く語り始めて本編より長くなってしまいました。
「シデムシ令嬢の婚約破棄」を読んで「王子遅すぎる」「学園時代になぜ何も言わなかった」と思われた方も、一応納得いただけるのではないかと。
でも卑怯で弱くてずるい部分は残ってますので「こんな王子嫌だ」という意見ももちろんありかと思います。