勇気の欠片
俺は千尋の手を強く握り締めていた。
目の前には苦しそうな呼吸を、自らの体に取り付けられた先進機器と共に繰り返し、生に対する執着を見せる、幼馴染で親友、勇気の苦しむ姿がある。
「勇ちゃん! 頑張ってよ、ほら見て、千尋ちゃんと放斗君も応援しているわよっ!」
勇気のお袋さんの声は震えている。
俺たちの脇、いいや、俺たちを脇に追いやった医師と看護師さんたちは必死の形相で、今正に終りを告げんとする勇気の命の火、その弱々しい光を点し続ける為、その為だけに文字通り寝ずの看病と出来うる限りの治療を繰り返し続けてくれている。
頼みます、なんとかしてやって下さいっ!
俺に出来るのは祈るだけだ。
俺は放斗、十六歳の高校一年生だ。
同い年で隣家の女の子、今、俺の手を通して温もりを共有してくれている千尋とは、記憶に残る最初からずっと一緒にいる。
家族以外で彼女の次に古くから知っているのは勇気だけ、子供時代のいつ頃からか近所に越してきて、それ以来、どんな事でも一緒に経験してきた無二の友、親友にして厄介者の俺の唯一の理解者、今、短い生を終えんとしている友達だけなのだ。
他の友人や同級生たちは、何故だか記憶が薄っすらとしていて、印象に残った出来事すらも存在しない。
学校での成績は、んー、まあ、良くは無い…… と言うか体育以外はお粗末なものだ。
対して、俺の手を渾身の力で握り返している千尋と、今、生きる為の呼吸を頑張っている勇気の二人は本当に優秀なのだ。
勉強だけでなく先生の話も良く聞いて理解しているし、クラスメイト達から寄せられる信頼もメッチャ深い。
因みに俺は、学級会の議題で取り上げられる固有名詞では一番だった、何故に?
やんちゃでわんぱくを美徳だと思い込み、度々問題を起こしては大人たちの手を焼かせてばかりいた俺が孤立しないで生きて来れたのも、この二人、掛け替えの無い幼馴染達のフォローが有ればこそだろう。
俺はこの時、こんな掛け替えの無い友、その内の片方を失おうとしていた。
勇気は小さな頃から体が弱かった。
運動が苦手と言う訳ではなかったが、無理をするとすぐ体調を壊して寝込んだりするのはお決まりだ。
運動会やマラソン大会、遠足の後は俺が背負って家まで送り届ける事が当たり前で、千尋はいつも後ろから心配そうな顔を浮かべながら半泣きで付いて歩いていたっけ。
いつも一緒にいる俺たちは、クラスメイトや教師たち、近所の大人たちからいつしか、パーティーと呼ばれるようになっていた。
まじめで勤勉、周囲にも優しく親切な千尋は僧侶とか聖女とあだ名され、まじめで勤勉、体の弱さを補って余りある広範な知識を持っている勇気は賢者、不まじめで気分屋、パワーと勢い、後は頑丈さだけが取り柄の俺は戦士とかタンクとか力特化とか呼ばれていたりしたものだ。
中学に入学し、身長の高さからかバスケット部に勧誘された俺を応援してくれたのも勇気と千尋の二人だった。
厳しい練習や先輩達との軋轢なんかで、自暴自棄になり退部を考えた時に話を聞いてくれたのも二人揃ってだ。
真剣な表情で一々頷きながら、俺の一方的な話を聞いてくれ、全てを肯定してくれたのは千尋だ。
吹奏楽部に入った彼女は、いつも俺の愚痴や不平不満を理解して惻隠してくれ続けていた、自分も練習で疲れているだろうに時には涙ぐんで夜中まで付き合ってくれた。
場所は勇気の家の勇気の部屋。
二人とも通い慣れた本に囲まれたベッドの傍らだ。
『うん放斗の気持ちは良く判るよ』
『放斗は放斗の思う通りにすれば良いのさ』
いつも優しい笑みを浮かべてそう言ってくれた勇気は、その頃には自分の足で歩く事もできなくなってしまっていて、殆ど学校に来る事も無くなっていた。
俺はパジャマ姿で横たわる親友の微笑む姿を見る度に、自分の我儘な身勝手さや、恵まれた環境に感謝しない傲慢さに気づかされて、まあ、その都度なんとか乗り越えて来れたのだ。
勇気の病気は難しい物だったらしい。
俺と千尋が高校へ進学した頃に、勇気はいよいよ闘病に専念する事となった。
地元の総合病院では原因が特定出来ずに、今入院している都会の大病院に転院してもはきとした治療法は判らないままで、対処治療しか施せないでいるようだ。
お袋さんや親父さんに聞いた話では、体を襲う痛みによる苦しみ様は生半可では無いと言う。
でも、時間が有れば病室を訪ねる俺や千尋に向ける勇気の表情は、いつも通りで昔と同じ柔和で慈愛に満ちた物だった。
その頃になると、勇気は俺たちに土産をねだる様になった。
難しい内容の科学書や医学の本、歴史の出来事やそれを解説した新書なんかの類だった。
千尋はあちらこちらの図書館に通っては勇気の欲しがる本を探しては病室に持ち込んでいた。
俺はアルバイトを始める事にして、高校でも続けるつもりだったバスケット部を退部する事になった。
勇気の読みたがった本にライトノベル、いわゆる異世界転生物が多くて、それらが公的な図書館では見つからなかった為、つまりお金が必要になったからだ。
勿論、勇気にはそんな事情は説明しない。
どこかで借りてきたていで持ち込んだ為、読み終えて持ち帰ったラノベは、いつの間にか俺の部屋で山となっていた。
『ありがとう放斗、とても面白かったよ』
そう言って笑顔を見せる友達、勇気の姿が只、見たかったんだ。
今日もリクエストされた新発売のラノベを買って来たって言うのに……
肝心の親友は意識を失ったまま、体に付けられた機械で命を維持する事に精一杯だ。
勇気のお袋さんが医局に呼ばれて退室していった。
その時、
「放斗…… 千尋……」
「勇気! 気が付いたのね! あたしおばさんを呼んでくるね」
「ああ、ありがとう……」
朝から目を覚まさないでいた勇気の意識がもどり、千尋が慌てて医局へ走っていった。
余程焦っていたのだろう、人を呼ぶなら勇気の枕元にあるナースコールを押せば良いのに……
そう思って手を伸ばした俺の腕は、勇気の手に掴まれて止まった。
想像以上に強い力だった。
俺は少し面食らいながら言った。
「勇気? 離してくれよ、ほら、お医者さんを呼ばないと」
「良いんだよ放斗、こちらでの僕の時間はそろそろ終わりらしいから」
「えっ? 何を言って……」
縁起でもない、そう続けようとした俺の言葉は、勇気の手に込められた力が更に強まった事で止められてしまった。
いつも通りの優しげな笑顔を浮かべながら、いつに無く力強い声で勇気は続けた。
「僕は先に戻るよ、放斗はちゃんと自分の時間を全うしてね」
「ゆ、勇気?」
「またね」
勇気の手が力を失い、静かに俺の腕から離れて落ちた。
医師と看護師、勇気のお袋さんを連れた千尋が病室に戻って来た時と、勇気の命を映していたバイタルからリズムが消え去るのは同じタイミングだった。
勇気の死から六十年が過ぎた。
俺は、あの日勇気を看取った病院の一部屋で横たわっている。
とは言え、あの頃から比べれば建て直され洗練された病室は随分暖かでアットホームな意匠に包まれた物だ。
ベッドの横には千尋と子供たち、それに今年七つになる孫娘が俺を見つめる姿がある。
揃って涙ぐみ、鼻を垂らして酷い表情だ。
――――俺は大丈夫だ、心配するな
そう声を掛けたかったが喉に挿された呼吸器と腹にある瘻孔のせいか上手く発音出来ない。
ひゅーひゅーと鳴る不規則な音は家族たちを余計に心配させてしまったようだ。
せめて笑顔で最後の瞬間を終わりたい。
そう思った俺は、精一杯の力を振り絞って、久しく動かしていなかった表情筋を引き上げた。
千尋の目から大粒の涙が零れ落ちる。
――――おいおい、そんな顔するなよ…… これで、終りじゃないんだし……
俺の気持ちを伝える術はもう何一つ残されてはいない。
せめて、心で強く願っておこう。
――――俺は先に帰るよ、千尋はちゃんと自分の時間を全うしろよ!
そうはっきりと思い描いた瞬間、意識が混濁して視界が切り替わった。
俺は上手く笑えていただろうか?
呆然として考えていると懐かしい、それでいてどこか気に障る声が耳に飛び込んできた。
「お帰りハナトっ! 気分はどうだい? すっかり回復出来たみたいじゃないか!」
「ユウキ…… 昔のままの姿かよ…… あっちのお前の方が随分良いヤツだったがな……」
「ははは、さあ、起きろよ」
白を基調にしたドレスローブに身を包んだユウキが俺に手を伸ばしてきた。
掴んで引き上げられた俺の腕にはミスリルのガントレットが光り輝いている。
役目を引き受けた時、王国の宝物庫から選んで与えられた伝説の武具の一つだ。
立ち上がった俺は自分の体を触って確認しながらユウキに聞く。
「魔王に掛けられた融魂の呪いは消えた、それで間違いないんだな?」
賢者ユウキは肩を竦めながら答える。
「ああ、肉体は完璧に治癒されているし、それに伴う厄介な精神の崩壊呪術も、意識をこの僕が作った仮想の別世界に移した事で回避出来ている、どうだい? 僕の案で全て上手く行っただろう?」
にやにやとした笑顔が鼻に付くが、こいつが世界で一番優秀な魔術師である事に変わりは無い。
救いはあちらでの別れで流した涙をこいつ自身には見られていない事くらいだろう。
「それにしても大変な人生、いや仮想体験だったぜ……」
「そう? 現実の我々と境遇が似ている方が良いと思ってね、三人は幼馴染同士で君たち二人は恋仲、丁度良かったんじゃないの? ほら、あっちでは死ぬ程の事では無い! とかさ、良く聞かされたじゃないか!」
「……」
へらへらしたユウキに答える気にはならず、別の話をする事にした。
「ラノベだったか? あの本の山にヒントを隠されても判り辛かったのだがな」
「仕方が無いじゃない、この僕が一人でやっているんだよ? 幾つにも意識を分解して全員に付いてるんだからね! ハナト達だけにリソースを割けなかったんだよ」
「にしても大変だったんだが?」
「でも気が付いたからあっちで全う出来たんでしょ? 自殺とかしたら戻って来れなかったんだからさ、良かったじゃん、結果的に」
「……まあな」
適当に答えたが、とんでもない。
何百冊もの本の所々にこちらの世界を示唆する部分を選んでアンダーラインって……
並べ替えるだけでも何十年も掛かったんだが?
これ気が付かなかったら寿命が尽きるまで目覚めないんだよな?
ヤバいだろ……
そう思いはしたが、コイツを責め立てても悪びれるどころか得意の理屈で言い負かされるのがオチだろう、賢者だし。
そう判断した俺は、まだ横たわって光に包まれたままの千尋、いやチヒロに視線を送った。
目聡いユウキがすぐさま声を掛けてくる。
「さあ、聖女チヒロが回復するまでに僕たちで出来る事をやっておかないと! 世界を救わなきゃね」
「判っている、行くぞユウキ! こっちのターンだ! さあ、俺達の星を悪夢から解放しようぜ!」
「了解! 勇者ハナト」
チヒロに背を向けて歩き始めた俺は心中に少なくない焦りを覚えていた。
やべえ、チヒロにヒントを残してこなかった。
あっちでもまじめだったこいつならしっかり生を全うして戻って来れるよな? と。
この呪術の性質が悪い所は、本人が死を望んだ場合に限って魂が消滅し、現実世界であるこちら側に帰還出来なくなる事なのだ。
事故でも災害でも、勿論寿命による死を迎えた場合であっても問題なく帰還できる。
途中であちらの世界に違和感を感じた場合には突発性の病気や不意の事故なんかに巻き込まれて帰還できるらしい、俺やユウキみたいにだ。
とは言えノーヒントで気が付く確立は限りなくゼロに近いだろう、な……
要は自らが諦めない精神状況でいれば良いだけなのだが……
まあ、みんな前向きで頼もしい奴らばかりである、きっと大丈夫! だと思おう……
実害は無い様だし、並んで回復中のやつらも同じだからそれほど怒られる事も無いだろう。
そんな風に思いながら振り返った聖堂の中は、ユウキの欠片に導かれて魔王の呪いと格闘中の、無数の戦士、数百人のパーティーメンバー達が光に包まれているのであった。
みんな自分をあの地球の人間だと思って、一所懸命に生きているんだろうなぁ…… 頑張ってくれ、と。
前に向き直った俺は全身に闘気を満たしながらもう一度だけ願った。
――――自分の時間を全うして早く帰って来てくれよ! 選ばれし戦士たちよ!
20周年おめでとうございます!
次の20年も創作界隈に幸あれ!