誤った公式で数式を解くかのように
時間を飛び越える、夏目漱石が授業している東大の講堂に行く!
そう強く念じたが、ぼくの身体はぼくの部屋のベッドに止まったままだった。
あの蒼い渦も現れない。
ぼくは息を吐いて、身体の力を緩めた。
間違っている。
それだけはわかった。
前の時と何か違うのが、直感的に感じ取れた。
数学の問題を解こうとするとき、出だしから誤った公式を使ってしまったときに似た感覚だ。正しい解き方はわからないが、違うということだけは分かる。
前回は、父にタコ殴りにされていた。
ひょっとして、身体に害が加えられるのが条件なのか?
ぼくは、ゲンコツを握り、自分の額を軽く叩いた。
力をだんだん強くしてみたが、正しい解き方だという感じはまるでしない。
命の危機を感じるまで強めれば、正解となるかもしれないが、それを試すのは最後にしたい。
叩くのをやめて、拳を顔に押し付ける。
よく考えるんだ。
あのときは、そう、床に這いつくばっていた。
体勢の問題かもしれない。床と並行になることで、脳のどこか神秘的な部位を流れる血流が変化するのかも。
ぼくは、ベッドから降りると、フローリングの床の上でうつ伏せになった。木の感触がひんやりと心地いい。
試すまでもなく不正解といった感じだ。
身体を起こして、再検討する。
あのとき、ぼくは悲惨な境遇から逃げだしたいと考えていた。安全な場所を求め、ワールドカップを見ていた瞬間を思い浮かべた。父の大きな手がぼくの頭をなで、母が幸せそうに笑みを浮かべた幸福な瞬間を。
視界の端に、蒼い何かが見えた。煙のようであり、紙吹雪のようであり、光のようにも見える、不可思議な蒼い渦。
ぼくはあわてて立ち上がり、両手でバツを作りながら「違う!違う!取り消し!」と叫んだ。
正解に辿り着いたのはありがたいが、父にもう一度逢うのはごめん被る。
幸い、渦はすぐに消えた。いや、消えたというより、まだそこにあるのに、ぼくが認識できなくなっただけという感じもする。
ともかく、渦は出た。
呼吸を整えたところで、昨日の夜を思い浮かべる。CTスキャンの検査室だ。髪の綺麗な女性技師が、検査中にぼくが動かないよう、頭にベルトをしてくれた。彼女の髪が、ぼくの頬を軽く撫でた。
渦が出現し、気づいた時には、ぼくは検査室の隅に立っていた。天井から無機質な光が降り注ぎ、消毒薬の匂いがかすかに鼻をつく。頭を固定されたぼくも、女性技師も、もう一人のぼくが部屋に現れたことには気づいていない。
これで決まりだ。
時間旅行にまつわる法則その1は、〝自分自身にまつわる場面にしか飛べない〟だ。
一瞬、過去のぼくに声をかけようかと思ったが、これ以上考え事を増やしたくないのでやめておいた。
元の時間に戻ろうとしたところで気づいた。
元の時間っていつなんだ?
九月二十一日の夜八時過ぎは、具体的にどうイメージすればいいのか? 自分の部屋で時計が八時を回ったことなんて、何千回もある。
ぼくは少し考えたあと、手をクロスさせて「違う違う!取り消し!」と叫ぶ自分をイメージした。あの部屋であんなことをしたのは、あれが初めてだ。出現場所については、一、二分後、自分が過去に旅立ったあとを意識する。まだ、過去の自分との会話に挑戦するほどの勇気はない。
渦が現れ、ぼくは狙い通りの時間に出現した。
胸を撫で下ろす。
時間旅行にまつわる法則その2、〝細かく覚えている場面にしか飛べない〟。
ぼくはもう一パターン試してみることにした。
今度は、一昨日の夜を思い浮かべる。ただし、ぼくが過去に行って変更されたこの現在での一昨日ではなく、変更前の悲惨な一昨日だ。そちらでは、父が、ぼくに向かってビールの空き缶を投げつけてきた。空き缶はぼくを外れて窓の外に消え、隣家の壁に命中して派手な音を立てた。しばらくして、隣家の誰かが「おい!」と怒鳴り、父はそれに応えてワインボトルを窓から投げつけた。
蒼い渦は出ない。
ある意味予想通りだ。
時間旅行にまつわる法則その3、〝なかったことになった過去には行くことができない〟。
ワールドカップ決勝戦の日、ぼくが父をテレビで殴りつけた瞬間、歴史の流れは変わった。元の現実と新しい現実に流れが分岐したわけではない。流れは常に一つ。川の上流で流れを変えたなら、その後、下流から遡れるのは、新しい流れのみというわけだ。
ぼくはさらに実験を続け、いくつかの法則を見出した。
法則その4、〝身につけているもの、手に持っているものは持ち運べる〟。
法則その5、〝渦は、ぼくにしか見えない〟
ダイニングに行って冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぎながら渦を起こしたが、パパと母の二人には見えないようだった。
もっと検証を続けたかったが、十時を回ったところで疲労感に対抗できなくなった。脳が一時的にそれまでの倍の記憶を保持するようになり、処理しきれなくなったのかもしれない。
ベッドに身を放り出し、泥のように眠った。
翌朝、登校したぼくは、自分が秀才になっていることに気づいた。