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夏目漱石に会いに行く

パパは優しい手つきでぼくの前髪を持ち上げると、つらそうに顔を顰めた。

「ずいぶん腫れてる。可哀想に」


元の父だったら絶対に口にすることのないような言葉だ。


パパがいう。

「何があったんだ?」


「わからない。覚えてないんだ」

あなたが誰なのかも、わからない。


母さんがキッチンから出てきて、パパの横に座った。実年齢よりもずっと若く、美しく見える母さんと、人生の成功者そのものといった雰囲気のパパ、とてもお似合いの二人だ。


母さんがパパの手を握った。

「春嶽先生は、頭に受けた衝撃のせいで記憶が混濁してるんだろうって」


たしかにぼくは、父にしこたまぶん殴られたが、記憶はハッキリしている。ぼくはあの蒼い渦の向こうで、父の頭に液晶テレビを振り下ろした。あの手応え、父のうめき声、鼻をつくタバコの匂い、何もかも鮮明に思い出せる。


そもそも、それ以前に、ぼくの顔や体には父から殴られて出来たコブやアザがいたるところにあるのだ。


しかも、カーテンの裾から、ガラス窓にもたせかけたテレビの一部が見えている。ぼくが父の頭にめり込ませたテレビの残骸だ。


ぼくが、あの過去の家から〝持ってきた〟ものだ。


なにがどうなってるのか。ぼくは父に殴られすぎて今際の際を彷徨い、長い長い幻覚を見続けているのか。それとも、これは紛れもない現実なのか。


パパがぼくの肩に手を置いた。

「とにかく、今日は早く寝なさい」


もっともだ。ぼくは頷いて、大人しく部屋に籠った。


不思議なことに、ぼくの部屋に関しては、前と大差なかった。大きさは同じ四畳半で、小学校一年生のときに、母方の祖父に買ってもらった勉強机が隅に置いてある。その横には、いつも使ってるパイプベッド。壁には、市の交通安全コンクールで優秀賞をもらったさいの賞状が飾ってあった。


本棚は安物の合板製のものから、天然木を使った高級品に変わっていたが、並んでいる漫画や小説のラインナップはそのままだ。『鬼滅の刃』『ドラゴンボール』『slam dunk』『寄生獣』、筒井康隆の『時をかける少女』、夏目漱石の『こころ』。『こころ』は読みかけなので、途中でしおりを挟んでいたが、その位置は、昨晩、ぼくが挟んだ場所と同じだった。


ぼくは机の一番下の引き出しを開けた。いつもと同じ場所にアルバムがあった。


取り出して中身を開く。


すぐに、写真の枚数がこれまでとは比べ物にならないほど増えていることに気付いた。


昨日まで、ぼくのアルバムに挟まれた写真は、全部で十枚ほどしかなかった。母さんに抱っこされた新生児のぼく、小学校の入学式でおじいちゃんたちと撮影したときの一枚、小学校の林間学校の思い出として学校から配られた何枚か。


それが、いまは何百枚と綴じ込まれている。

さきほど居間で見かけたパパといっしょにキャンプ場でテントを張っているぼく、母さんとパパと誕生日ケーキを囲むぼく、ディズニーランドのシンデレラ城前で家族三人でポーズをとるぼく。


写真を見つめるうち、ワールドカップの記憶のときと同じように、〝そのとき〟の思い出が急激に蘇った。


テントを張るとき、ぼくはトンカチでうまくペグを打つことができず、癇癪を起こした。すると、パパが大きく力強い手でぼくの手を掴み、手伝ってくれた。


七歳の誕生日、ぼくは生まれて初めてホールケーキに刺さったろうそくを吹き消した。それから、パパが手を目一杯伸ばして、家族三人で自撮りした。


ディズニーでは、キャストの綺麗なお姉さんが浮かれた僕たちを撮影してくれた。


ワールドカップの記憶のときもそうだったが、今回もまた、もう一種の記憶がある。七歳の誕生日については間違いなく覚えている。あの日、父は母がぼくのケーキ代として隠しておいた金を見つけ、ぼくにコンビニまで酒を買わせに走らせたのだ。パートから帰ってきた母は「ごめんね、ごめんね」と声を押し殺しながら泣いた。


ワールドカップの記憶では、すぐに片方の記憶が薄れ始めたが、今度はそんなことはなく、あの熊のような父の姿は依然脳裏に焼き付いている。


しかし、あの獣は、もうぼくと母の人生に関わってくることはない。


そう、五歳のワールドカップをテレビで観たあの日、父はどこからともなく現れた男(いまではぼくだと分かる)に頭を叩き割られた。母さんは救急車を呼び、事件性があるということで警察が介入した。そこから何があったのか、子どもだったぼくはよく知らないが、ともかく父は逮捕され、消えた。


それから二年ほどしてパパが現れた。外見も、財産も、人格も完璧で、ぼくの父親になることも快諾してくれた人。パパのおかげで、ぼくたちはこの立派なマンションに住み、何の不安も抱かずに暮らしている。パパにはどれだけ感謝してもしきれない。なにより、母を幸せにしてくれたのだから。


ぼくはアルバムを閉じると、ベッドに横になった。タオルケットーーこれは〝前の人生〟で使っていたものと同じ青海波の柄だーーを腹に乗せる。


何が起きているのか。


事実を事実として捉えるなら、ぼくは過去に戻り、現在を変えたのだ。ぼくのわずかな行動が、その先々の事柄に波紋のように広がって、人生の形を変えてしまった。


本棚の『時をかける少女』が目に入った。これは、タイムリープ、いや、現在の体のまま移動したのだからタイムトラベルだ。


自分のしたことに対する後悔はなかった。あんな悲惨な日々には何の未練もない。


ぼくはベッドに寝転んだまま、ぶるりと身を震わせた。

恐怖とも高揚ともいえない感情が、胸のなかに渦巻いていた。


果たして、あれはなんらかの脅威的な確率によって引き起こされた偶然の自然現象なのか。それとも、ぼく個人の力によるものか。


ぼくは首を傾け、本棚の『時をかける少女』のとなりに刺さった『こころ』を見た。


もし、ぼくが任意の時間に移動できるなら、たとえば、明治時代に行って東大で教鞭をとっている夏目漱石に会うことだってできるわけだ。


ぼくは意識を集中した。


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