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父親交換

時間旅行にまつわる法則その13、〝時を超える素養を持つ人間は、「記憶ちがい」をしやすい〟


ぼくの場合、2010年のワールドカップ優勝国はオランダだと覚えていた。ロッペンがマラドーナを超える六人抜きからの逆転シュートを放ったシーンはあまりに鮮烈で、幼児ながらに記憶に焼き付いた。日頃は気難しい父も凄いものを見たと上機嫌で、缶チューハイを煽りながら僕の頭を殴るではなく、なでてくれた。母はぼくたちを嬉しそうに見つめていた。


あの日は、ぼくの人生最良の日だった。


そういうわけで、中学生になってしばらくしたころ、クラスメイトの片山津が「優勝したのはスペイン」と言い始めたとき、自分の耳を疑った。延長戦でのイニエスタの劇的ボレー弾? いったい彼は何の話をしているんだ?


ぼくは誤りを指摘し、ぼくのなかの鮮明な事実を伝えたが、まわりの連中は、片山津ではなくぼくに訝しげな視線を向けた。みな、ぼくこそが誤っているといった。


そんなはずはない!と憤慨したが、彼らが示したスマホの画面には、スペインが優勝したことを示すデイリースポーツの記事が表示されていた。


まさか、と思っていると、脳裏にスペインチームがトロフィーを掲げる映像が浮かんだ。しかし、その一方で、オランダチームが勝利した記憶もある。二つの記憶の合間で混乱するうちに、オランダの選手たちが、液晶画面のなかでどのような顔を浮かべていたのかが、思い出せなくなった。ロッペンの六人抜きの映像も忘れてしまい、最後に〝たしかにオランダが優勝したはず〟という釈然としない思いだけが残った。


後にわかることだが、この「記憶ちがい」をもたらしたのは、ぼくのなかに眠る時間旅行者としての素養だった。


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


ぼくが能力に目覚めたのは、片山津との会話よりさらに数週間あと、中学校一年生の夏だ。


その日も、いつものように大汗をかきながら、神奈川区の丘を登って帰路についていた。横浜という街は、関西の神戸と同じように山がちで、ふもとの平地に近いところほど地価が高い。金持ちは下のほうに住み、貧乏人は上の方に住むのだ。そして、ぼくたち家族の家は、丘の頂上に建てられた築七十年のボロアパートの一室だった。


錆び付いて軋む外階段を登り、うすっぺらいドアを開けると、酒の匂いと悲鳴が押し寄せてきた。アル中の父がいつものように泥酔し、いつものように母に暴力をふるっていたのだ。


父は熊のような男だった。毛深く、獣じみた臭いがし、理性というものを知らなかった。身長は二メートル、体重は百キロを超えていたろう。そんな巨漢が、「淫乱女が!」と怒鳴りながら小柄な母を蹴り飛ばし、壁に向かって投げつけた。


ぼくは、母を守るべく、叫びながら父の背中に飛びかかった。彼は「このクソガキ!」とわめき、ぼくを引き剥がすと、いっさいの手加減なく拳をふるった。ぼくは、よろめいて安物のダイニングテーブルをひっくり返した。醤油差しが転がり、カーペットに真っ黒なしみを作る。


父はぼくを引きずり起こすと、何度も何度も殴りつけた。耳鳴りが始まり、視界が暗くなった。母の悲鳴がどこか遠くで聞こえた。


激しい苦痛のなか、ぼくは安全な場所を強く願った。暴力とは縁のない、幸せな場所を。


頭に浮かんだのは、あのワールドカップの日だった。父の機嫌も良く、母は幸せそうで、ぼくも幸せだったあのときだ。


ぼくの周りを青い渦のようなものが取り巻いた。一瞬のようにも、無限のようにも感じられるときがすぎたあと、ぼくは時を超え、8年前の居間のど真ん中に立っていた。


5歳のぼくと、チューハイを片手に持った父、まだ若い母が、目の前に現れたぼくを呆然とした様子で見つめてくる。


ぼくの背後、ドンキで買ったばかりの24インチのテレビの中、スペイン代表のイニエスタが劇的なシュートを放ち、アナウンサーが興奮した様子でまくしたてていた。


ぼくは夢か幻覚だと思った。現実のぼくはいまも父に殴られており、一種の走馬灯を見ているのではないかと。


ふいに、父が立ち上がって「てめえ!ぶっ殺すぞ!」と吠えると、ぼくに向かって突っ込んできた。ところが、彼は酔いすぎていた。左右の足がもつれ、ぼくの目の前に倒れ込んだ。


どうせ幻の中だ。やりたい放題やればいい。ぼくはテレビをつかむと、配線を引きちぎりながら、父の頭に思い切り振り下ろした。


液晶画面が盛大に割れる気持ちのいい音がした。


5歳のぼくと、若い母が悲鳴をあげる。


なんだか面倒な幻覚になってきたな、と思った瞬間、青い渦が発生し、ぼくはめちゃめちゃに壊れたテレビを手にしたまま、〝現在〟に戻っていた。


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


居間の様子は一変していた。


さきほど、ダイニングテーブは安い絨毯の上にひっくり返り、醤油差しが中身を垂れ流していた。


それが、テーブルは横倒しにならず、醤油差しも落ちてなかった。いや、それ以前に、テーブルのデザインが違う。父がゴミ捨て場から拾ってきた使い古しの中古品ではなく、無印調の洗練された品に変わっている。天板の上からは、醤油や塩といった調味料の瓶が姿を消し、代わりに女性誌2冊と紅茶で満たされたカップが乗っていた。かすかにダージリンの香りが漂っている。


ボロボロの青いソファは、真新しい緑色のソファに変わり、ヤニのシミだらけの壁紙は真っ白に。開かれた窓から吹き込む風が、レースのカーテンを心地よく揺らしている。遠く、横浜港を進む客船が見えた。


「凛太郎? どうしたの!?」

背後で悲鳴じみた声が上がった。


振り向くと、母が恐怖の面持ちで立ち尽くしていた。さきほどまで父に暴力を振るわれていたはずなのに、その顔にはあざひとつない。いつもは睡眠不足と過労で大きなくまができているのに、さっぱり消え失せて肌艶もいい。普段より10歳は若く見えた。


何が起きてるのか分からないまま、ぼくは手の中のテレビを持ち上げ、父の攻撃に備えた。


だが、その父がいない。


家の中に山と積まれていた酒の空き缶や空き瓶は消え失せ、常に漂っていたタバコのいがらっぽい匂いもない。父が自慢にしていた〝昔のダチ〟との集合写真も壁に貼られていない。


「父さんは!?」


「パパなら会社だけど」と、母。


「就職したの?」


「凛太郎、あなたどうしたの? パパはずっとニルセン・マクローリー投資銀行で働いてるじゃない。なに? 車に撥ねられでもして頭を打ったの? その怪我はなんなの?」


母はぼくの手からテレビをもぎとると、部屋の隅に放り投げた。


ぼくは、母に引きずられるようにして、家の外に出た。そのさいに気づいたことだが、アパートは、しっかりと手入れされた小綺麗な低層マンションに変わっていた。母は駐車場に停まっていたアウディにぼくを押し込むと、みなとみらい地区の高層ビルに入った〝かかりつけ医〟のところに連れて行った。


現実に理解が追いつかないまま、治療を受けた。骨折や内臓の損傷はないということで、母は見るからにホッとしていた。医師はぼくの記憶の混濁は、交通事故もしくは階段からの転落で頭部を強打したことによるもの、と診断した。


家に戻り、無印のダイニングテーブルに着いた。おなじく無印製らしい椅子の座りごごちは、これまでとは比べ物にならない。


母が清潔なキッチンカウンターでトマトを刻んでいると、誰かが凄い勢いで玄関の扉をあけて入ってきた。

「凛太郎は大丈夫なのか!?」といいながら、居間に駆け込んでくる。


「パパ!」母がうれしそうにいう。


〝パパ〟は、父とは似ても似つかない男だった。身長こそ元の父と同じくらいに高いが、均整のとれた体つきで、恐ろしく高そうなスーツを身につけている。腕時計も高級な機械式で光り輝いている。ロマンスグレーの髪を丁寧に撫で付け、顔は映画俳優のように整っていた。


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