2021.4.23―side A
小学生時代に大好きだった本「知っておきたい有害物質の疑問100」の園芸植物に関するページを読み返していて思い出したことがあった。私は中学時代に既に一度、服毒自殺を試みていたことだ。方法は大したものじゃないし、今思うと実にお粗末だ。ジギタリスという毒草の葉を食べたのだ。ジギタリスはジギトキシンという毒を含み、漢方では強心剤として使われており、誤食した場合は嘔吐、下痢、不整脈、頭痛などを引き起こす。重篤な中毒症状に陥った場合、心臓障害で死に至ることもある。そういう毒草の葉を、私は食べた。ジギトキシンが葉に多く含まれていることを知っていたからだ。結果は自明の通り、私は死なず、腹を壊すことさえなかった。理由は単純で、量が足りなかったのだろう。採取できた葉は数枚しかなかったのだから仕方がない。どうやって手に入れたのかはここでは伏せておく。とにかく、量こそが毒をなすのだということを私は身をもって学んだ。
私が死のうとした理由についても、恥を忍んで書いておきたいと思う。至極単純在り来り、高校受験に失敗したのだ。私は筑波大学附属高等学校に進学したくて、そのために死ぬほど勉強していたが、その努力は報われなかった。合格発表から二日後の夜、私はジギタリスの葉を喉の奥に押し込んだ。結果的に死ななかったが、あのとき私は本気で死にたかった。どうして志望校に落ちたくらいで死にたくなるのか? 私には勉強しか取り柄がなく、それを通してしか誰にも関心を持たれなかったし、人間として尊重されることさえなかったからだ。勉強ができるようになる前の私は、同級生にいじめられ、無視され、毎日のように泣いていた。それが、成績が目に見えて良くなってからはどうだ――皆に一目置かれ、いじめられることも無視されることもなくなった。私は生まれて初めて、他人からの信頼や尊敬を勝ち取ったのだ。私の発言は信じられ重んじられていた。誰も私のすることにケチをつけたりはしなかった。私はやっと快適な学校生活を送れるようになったのだ。
中学一年の三月に塾に入ると、何ヶ月かの努力の末に私はレギュラークラスから特訓クラスに昇格した。特訓クラスは、難しい試験をパスしなければ入れない、難関校を目指す子達のためのクラスだ。そうして高い学力を持つ集団に属すようになると、私はそこで他者との交流が面白いものであることを知った。一緒に勉強したり、質問し合ったり、他愛ない雑談をしたり、夢を語り合ったり――本当に楽しかった。彼らのいるところは私にとって理想郷だった。不愉快な思いをしたり喧嘩したりしたことは一切なかった。誰も私をいじめたり、ガリ勉と馬鹿にすることもなかった。皆が勤勉で、賢く、思慮深かった。そんな人達と関わることができて、私はあのとき確かに、幸せだった。その幸せをもたらしてくれたのは、私の学力に他ならない。私は自分の頭脳を優れたものであると信じ、更なる高みに向けて努力を続け、そして実際に向上した。それは模試の度に偏差値の上昇として表れた。成長を感じることは自信に繋がり、このサイクルは順調に回っていた。高校受験に失敗し、私の無能が証明されてしまうまでは。豊島岡女子学園には受かったが、超難関国立向けの特別カリキュラムに懸命に取り組み、難しい問題に血を吐くような思いで向き合っていた私の慰めにはならなかった。結局私の頭脳は、私が望むほどには優れていなかったのだ。この事実は私を打ちのめし、生きる力を奪っていった。そうして私は不幸になった。自分が無能であるという事実と、死ぬほど頑張っても願いが叶わなかったという経験。この二つが私を苛んだ。自分を信じることによってしか幸せになれない私にとって、学力しか価値がない私にとって、これらは実に致命的だった。情熱、人生、魂――私の全部を捧げてもダメだったのだ。私の全ては否定されたのだ。私は理想郷の外に放り出されたのだ。死にたくもなる。
客観的に見れば、私は全く不幸ではないだろう。五体満足で、家族仲は概ね良好、金に困ったことは全くない。それらが欠けていて不幸な状況にある人から見れば、私は単なる甘ったれだろう。自分でもそうだと思うし、私は自分が嫌いで嫌いで仕方がない。それはつまるところ、私に全く人間的価値がないことからきている。だからこそ私は、学力やら能力やらだけが自分の価値だと信じて疑わなかったのだ。私の人間的価値のなさは、他人を愛する能力に欠けていることに起因していると思う。ここで一つ構造的な矛盾というか、ジレンマが発生する。私は私が他人を愛さないことに全く関心がないし、あまつさえそれでいいと思っているのだが、人間的価値がないことは自己嫌悪を引き起こす。このジレンマは解消不可能であるため、私は自分なりに解決策を見出した。「マナー」という名の沢山のルールで自分を縛り付け、できる限り友好的に「見える」ようにするというふうに。この方法を使えば、少なくとも外から見た人間的価値は向上する。他人と普通に挨拶を交わし、談笑し、共同作業を行うこともできるようになった。だが、それが何だと言うのだろう。どうでもいい他人から多少好意的に見られたところで、私の蛇のように陰険な心は変わらない。外から見た人格的価値が上がったところで、真の人格的価値にはなんら影響を及ぼさない。当然、自己嫌悪は減らない。だから私は「マナー」の一部を捨て、友好的に振る舞う努力をするのをやめた。挨拶されれば返すし、話しかけられれば喋るかもしれないが、そこには何の関心も込められてはいない。私は究極的に、他人のことがどうでもいいのだ。どうでもよくないときは大抵、死ねばいいと思っている。私のような人間がまだ生きていることは社会的損失だと思うし、そのことを気まぐれに他人に話したこともある。彼らの反応は判で押したみたいに同じだ。「そんなことはないよ。あなたには価値があるよ」私はそう言われる度に、私のことなど何も知らないくせによくそんなことが言えるものだと呆れ返る。私にとって価値あるものでなければ、他の誰が認めていようが私にとっては無価値だということがわからないらしい。自分の中に絶対的な価値の指標がある人は案外少ないのかもしれない。まあ、ないほうが生きやすいから皆そうしているだけなのかもしれない。だが私は、たかが命や生きやすさなんかのために主義主張を曲げる気はないし、そんなことをしている他人は死ねばいいと思っている。そう、死ねばいい。私が他人に対して覚える感情の多くはこれだ。人間的価値がないのは当たり前で、生きる価値があるのかも怪しい。私が今生きている、いや生かされているのは、皆が私の死に向き合うことを忌避しているからに過ぎない。誰も私に本気で向き合いたくないのだ。まあこれは致し方ない。皆自分のことで手一杯なのだろう。それに私は魅力的な人間ではない。優先順位が低いのも仕方がない。どうせ向き合わないのなら死なせろと思うが「自称」ヒューマニストな皆にはできない相談のようだ。