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2021.4.22―side A

 自殺の対人関係理論によれば、自殺は「自殺潜在能力」「所属感の減弱」「負担感の知覚」が合わさったときに起こるという。ここでは用語の詳しい説明は省くが、大まかにはこうだ。自殺潜在能力とは、自分を傷つけるときに感じる恐怖や痛みに耐える能力のことだ。所属感の減弱は、孤独感とほぼ同義だ。負担感の知覚とは、大切な他人に自分が負担をかけていると感じることだ。この理論を自分に当て嵌めようとしたとき、私はいくつかの違和感を覚えた。それは、私のように所属感を必要とせず、負担感を覚えない人間が死にたくなるのは何故かを説明できない気がしたし、私のような人間の存在が無視されているかのように感じたからだ。次に私は、何故自分が所属感を必要とせず、負担感を覚えないのかについて考えた。この問いの答えは簡単だった。私には他人を愛するとか気にするとかいった能力が完全に欠けているためだ。この点については前々からわかっていたことだし、特に悲観する気はない。私が悲観しているのは、私に私の望む能力がなかったことだけだし、その中に他人を愛する能力は含まれていない。私は誰にも愛着を持たない自分が嫌いではないし、それで良いと思っている。このスタンスを変えることはおそらく一生ない。

 自殺の対人関係理論に対する違和感に話を戻そう。私を自殺の対人関係理論に無理矢理当て嵌めると、私を自殺へと駆り立てるのは自殺潜在能力のみということになる。自殺潜在能力は、自分の身体に致死的ダメージを与える能力のことでもある。いくら自分の身体にダメージを与える能力が高かったとして、何の動機もなしに死にたいとは思わないだろう。つまり、私のような人間の自殺あるいは自殺未遂には、所属感の減弱や負担感の知覚以外の、何か別の要因があると考えざるを得ない。この日記の執筆を通して、私は私を死へと誘う絶望の正体を知ることができたらいいと思う。

 と大袈裟に締め括ったが、私は多分もう絶望という名の死神の正体を知っている。それについて書く前に、絶望というものそのものについて考えてみたいと思う。苛立たしいことに手元に辞書がないので、絶望の正確な意味をここに書くことはできないが、私はそれを概ねこのように理解している。何かついて希望がなくなった状態、救いのない状態、それが覆らないことが確定している状態というふうに。これは多分そこまで間違ってはいないはずだ。絶望の対象についても考えてみたい。それは家族かもしれないし、友達かもしれないし、ひょっとすると通りすがりの他人かもしれない。人間ではないもの、動物とか植物とか微生物とか――これは半分冗談だが――に絶望することもあるかもしれない。無生物に絶望することもあるし、実体を持たないものに絶望することもある。このように絶望の対象には様々なものがある。もっとも重要な絶望の対象なのに、私が例として挙げていないものがある。ここで一旦読むのをやめて、少し考えていただきたい。

 賢い読者の各位は既にお察しだろう。最も重大な絶望の対象――それは、自分自身だ。絶望の対象と親しい関係にあればあるほど、その絶望が深くなることに異論を差し挟む者はいないだろう。他者に絶望したのであれば関係を切るか、殺してしまえばいいし(これは倫理的には問題だが)、物に絶望したら捨てればいい。社会に絶望したなら別の社会へ行けばいい。この場合の社会は世界と殆ど同じ意味だ。世界全体に絶望したなどと言えるほど、この世の全てを知り尽くした人間など存在しないからだ。極端な方法ではあるが、このようにして絶望から脱することは可能だ。同時に幾つもの物や人や事柄に絶望して容易ではないことがあるかもしれないが、或いは法的に問題があって実現不可能な場合もあるだろうが、このようにして痛みを取り払い、死神を追い払うことは可能なはずだ。さっきまでに述べたような安直な手を使わずとも、時間が傷を癒してくれることもある。何かを失ったことに対する絶望などは、その状態に対する慣れによって徐々に和らいでくることが多い。ショッキングな出来事に対する絶望は、時間や、具体的な対策の認識によって多少緩和できると考えられる。こうした絶望からの回復策は、即効性の高いものほどリスクが大きく、ゆっくりとしか効かないもののほうがリスクは小さい。リスクを冒すか否かは、その絶望の程度による。その絶望を解消しないと今日にも死んでしまうというのなら、リスクを冒す価値はあるかもしれない。その後に更なる絶望が訪れないとは限らないが。

 自分自身に絶望することの重大性に話を戻そう。何故、自分自身に絶望することがそんなに重大なのか? それは、自分自身というものは、距離を置くことも捨てることもできないからだ。端的に言えば、絶望の対象が自分自身である場合、即効性のある絶望からの回復策は使えないのだ。となると、私達は時間や、あるかわからない次の機会への対策に頼ることになる。それらが水泡に帰し、万策尽きたと思ったときに、真の絶望がやってくる。漆黒の衣を纏い、銀色にぎらつく大きな鎌を持って。私を死にたいと思わせるのは、そうした真の絶望だ。私は私の望むような道を歩くことができず、心身共に疲れ果て、人生を立て直す最後のチャンスも失った。人生はいくらでもやり直せるなどと綺麗事を言う人がいるが、このやり直すとは多くの場合、単に諦めて妥協して日銭を稼ぐだけのマシーンになることで、幸福になることとは違う。私は目標も目的もなく食い繋いでいくことに価値があるとは思わないし、そんな人生は要らない。

 以上のくだらない思惟からわかるのは、私の愚かさくらいのものだろう。その通り、私は愚かである。だいたい、自殺をしようなどと考える者は大抵、問題解決能力が低く視野が狭い。愚か者は生きていても資源の浪費をもたらすだけなので、早く死ぬべきだと私は思う。だから私は早く死にたい。私は自殺予防策を唱える学者にも無視されるほど、無価値なのだから。

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― 新着の感想 ―
[一言] これは自殺についての作品?評論?日記? 天童さま。こういう事だったんですか? ただ、文章が素晴らしくそちらにも気を取られて拝読させて頂きました。 単に投稿された物とするなら、自殺考察に何か…
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