2021.4.27―side A
今日は自殺志願者の各位は当然ご経験なさっているであろうOD(オーバードーズ)について軽く書いていきたいと思う。ご存知ない読者もいらっしゃるかもしれないので簡単にODの意味を書いておくが、ありていに言えば薬物を用法・用量を守らずに沢山飲むことだ。この行為にはメリットとデメリットがある。メリットは、薬物の種類によっては多幸感、安心感などの快感を得ることができるし、深く眠れたりもすることだ。デメリットは、副作用が強く現れやすくなるので、体質によっては吐き気・眩暈・倦怠感など色々な体調不良に悩まされることだ。統合失調症、双極性障害、鬱病の患者によく処方されるアリピプラゾールには、悪性症候群、遅発性ジスキネジア、麻痺性イレウス、横紋筋融解症などの重大な副作用がある。知識がないと具体的にどんな症状が表れるのかわからないと思うが、字面だけでもちょっと恐ろしいと感じるのではないだろうか。また、副作用が増強されるのと同じように離脱症状も増強される。苦悶、不眠、幻覚、妄想などの精神症状や、流涎、動悸、疼痛、嘔吐などの自律神経系症状が出るかもしれない。まあ、これは自分の体質に合う薬物、丁度いい摂取量を見つければ大した問題ではなくなる。他のデメリットには、内臓がダメージを受けることが挙げられる。薬物の分解を担う肝臓、排出を担う腎臓などが長期的なODによって故障してしまう可能性は十分にある。他にも、薬物によっては消化器官がダメージを受けることもあるし、心臓に負担がかかる薬物も沢山ある。ODは、短期的にはあなたの心を救うかもしれないが、長期的には多くのものを奪っていく。だが私は、他人にODをやめろとは言わない。そんなものは個人の自由だし、デメリットを説明したくらいでやめるような人は、そもそもODなんかしないだろう。私が挙げたデメリットの例を読んだくらいで震え上がってODを止めるような人間には、元からODをする資格がない。自分が被る健康被害を余さず理解した上で、それでも今ある苦しみに耐えられないからする。ODとはそういうものだと私は思う。単なる快楽目的で軽い気持ちでやっていると痛い目を見るぞ、と覚悟のないオーバードーザー(これは今勝手に作った言葉だ。もし既にあったら申し訳ない。ここではODをする人という意味だ)の各位には言っておきたい。
ところで、さっきODをするのは個人の自由と書いたが、これは使用する薬物の所持・使用などが法的に禁じられていない場合、入手方法が違法でない場合、ODをした結果他人に危害を加えるリスクがない場合に限られる。私はコンプライアンスを重視するので、犯罪者は大嫌いだし、他者を肉体的に傷つけるのは良くないことだと思う。ODをしたい各位には、くれぐれも市販の薬物や処方された薬物を使い、薬が抜けるまでの間誰にも会わないようにしていただきたい。間違っても、怪しい脱法ドラッグや合法ハーブや、覚醒剤や大麻やコカインなどの違法薬物を使ってはいけないし、錯乱して暴れて誰かを怪我させたりしては駄目だ。それらは公共の福祉を害する。自分の精神や身体をいくら傷つけても構わないが、他人に迷惑をかけてはいけない。私は個人主義者だが、同時に法の支持者でもある。毎日他人に対して殺意を覚えているのに何もしないのは、私が法律や、法律という概念そのものを愛しており、それが記された書物の中には必ず「他人を殺してはいけない」と書かれているからだ。自分を傷つけることや殺すことが法で禁じられていなくて本当によかった。だがこれは現代日本での話で、世界には自殺が法で禁じられている国は存在する。イスラム教の聖典コーランでは、自殺が明確に禁じられている。そのため、シャリーア(イスラム法)によって自殺企図が処罰の対象になる国も存在する。そういう国は、世界に少なくとも十ほどあると聞いている。罰則の内容は、少額の罰金など比較的軽いものから、終身刑などの極刑まで様々だ。歴史を顧みると、自殺が法的な罪であったことは珍しくなく、十九世紀初頭頃まで世界中の殆どの国には自殺や自殺企図への罰則を定めた法律が存在した。世界の自殺に対する態度が、禁止や処罰から予防へと転じたのは、つい最近のことなのだ。自殺に寛容な文化だと言われている我が国でさえ、江戸時代には殉死禁止令が出されていたことがある。まあこれは徳川家康の四男の松平忠吉の死後、家臣の切腹が相次ぎ、それが高い評判を得たことによって武士の間で殉死が流行したことから出されたものなので、イスラム教圏やキリスト教圏で自殺が禁じられていたこととは色々と背景が異なる。イスラム教圏で自殺が宗教的罪である理由は前述の通りだ(調べたらコーランの他にも、ムハンマドの言行録ハディースにおいても自殺は明確に禁じられていた)。キリスト教圏で自殺が禁じられるようになったのは、ローマ帝国内でキリスト教が国教化され、国を統治するために使われるようになって以降のことだ。キリスト教が自殺を罪と認識するように変容していったとき、その中心にいたのは神学者のアウグスティヌス(354〜430年)だ。彼は「神の国」という著書の中で、モーセの十戒の一つ「汝殺すなかれ」という殺人禁止の文言を、他殺だけではなく自殺も禁じていると解釈している。これがキリスト教の自殺に対する態度を決定づける重要な鍵になった。その後、各公会議において自殺関連行動を行った者への宗教的罰則の強化がなされていき、中世キリスト教世界において自殺は宗教的罪になった。教会権力が増大すると、自殺は宗教法だけではなく民法・刑法においても罪になり、自殺者は犯罪者とされ、遺体は市中引き回し、串刺し、他にも様々な罰を受けた。
こうした事実を知っていると、無宗教かつ不可知論者の私は、やはりこのままでいようと思うのだった。




