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一般向けのエッセイ

編集者・鳥嶋和彦の印象

   

 漫画編集者の鳥嶋和彦のインタビューを見ていました。雑談気分で感想を書こうと思います。

 

 鳥嶋和彦は「ドラゴンボール」の鳥山明を見出した人で、ジャンプの名編集者として一時代を築いた人です。ゲームとも関わりがあって、ドラクエやFFに関わっていますが、そのあたりは興味があれば検索してみてください。すぐ出ると思います。

 

 僕は鳥嶋和彦という人は気に入っていて、というのも偉そうですが、ああいう明快に自分の考えを持って、ロジックできっちり表現できる人は好きですね。頭が良い人で、それが怜悧に、冷たく聞こえるほどです。

 

 鳥嶋という人は、ヒットメーカーらしく、冷徹に作品を売る、という事を考えています。ユーチューブの動画などを見ていて、大体この人の哲学は把握できたと思います。ちゃんと自分の哲学を持っていて、それがうまく時代にはまったという印象を持っています。

 

 鳥嶋和彦の哲学は僕なりに言えば、「指示表出系」の哲学です。指示表出というのは吉本隆明「言語にとって美とはなにか」の用語で、これと対立するのが「自己表出」です。簡単に、指示表出=エンタメ、自己表出=芸術、という風にイメージして貰えればいいかと思います。

 

 鳥嶋和彦は「伝達」というのに重きを置きます。まず、漫画家含む表現者は、表現したいものを自分の中に抱えています。一方、読者は、望んでいるものがあります。大多数の人は漠然と読みたいとおもうものがあります。そうすると編集者はその間に立って、読者とクリエイターをつなぐような役割をします。読者の要望と、クリエイターの表現意欲とがうまく両立するような形式、それをクリエイターと協議しながら作っていく。それが編集者の役割だと意識されています。

 

 これはかなり明快な考え方なので、今でも相当な部分通用すると思います。鳥嶋和彦は、「一人でやっているのは駄目」「独りよがりなものはプロではない」と言っていますが、それは逆に言えば「表現ーー伝達ーー視聴者」というラインを中心に考えているからです。そういう哲学から逆算して、作品をどう魅せていくのかというのが問題となってきます。

 

 僕なんかは、この方程式に収まらないのが芸術だと思っているので、全面的には賛成はできないわけですが、別にそのあたりは鳥嶋和彦は気にしていないと思います。漫画編集者は、傑作を世に生むのが課題ではないからですし、そのあたりは割り切っていると思います。

 

 もっと言えば、鳥嶋和彦自身が面白いと思えなくても、読者とクリエイターが作品を介してうまくつながればいいので、そのあたりはプロフェッショナルに割り切っていると思います。この点、もっと突っ込んで考えると、本当に後世に残る作品というのはアマチュア的なものなのかもしれません。例えば、今、自分はセリーヌの「夜の果ての旅」を読んでいるのですが、セリーヌと村上春樹、どっちが面白いかと言うと、村上春樹でしょう。ある意味、村上春樹の方がセリーヌよりも「プロフェッショナル」と言えるのかもしれない。しかし残るのはセリーヌでしょう。

 

 で、鳥嶋和彦は僕は明快で、特に思考は混乱していないと思うし、(なるほどなあ)と思うのですが、一般的なごちゃごちゃした意見というのはいつも混乱していて、たいてい(くだらないなあ)と思ってしまいます。なぜそういう事になるかと言えば、要するに、宮崎駿は最高の芸術的価値があると信じられていたりして、そこから(どうして宮崎駿は今出なくなったのか?)というような話になったり(いや、そうは言っても今も面白い人はいる)とか、(そんな偉そうな事を言う前にプロになれ)とか、とにかく色々なごちゃごちゃした意見が混在しているわけです。作品の価値基準をどこに置くかというので混乱していて、こういう議論に入るだけ無駄だと自分は思っています。

 

 僕は作品というのは純粋な価値としてあるものではないと思っています。歴史、社会との相対的な関係で成り立っていると思います。だから、鳥嶋和彦のような優れた才能は、宮崎駿とか、宮崎をうまく使ったプロデューサーの鈴木敏夫とか、その他にも村上龍とか村上春樹とか、そういう人を持ってきてもいいですが、要するに七十年~九十年代くらいの盛り上がった大衆社会と、それが衰退していく時期に現れた才能だと思っています。これらが最高の価値を持っていると思う世代は昔を懐かしむのでしょうが、文学なんかに深く入った人は、三島由紀夫や川端康成が自殺した七十年代あたりで「文学は死んだ」と感じているようです。僕も大体そう感じていて、そうすると文学の死後、サブカルチャーが上昇してきて、それは当然、それを享受する大衆との関係として現れてきたわけです。

 

 現在に視点を移すと、ここまで来るともはや「クオリティ」すら問題にならない。つまり、文学なんかに深く入り込んだ視点からすると、八十年代の時点ですでに色々終わっているのですが、大衆文化を中心に見る人からしたらむしろそのあたりが最高潮でしょう。ここには視点のズレがあるわけですが、これが現在になると更にずれてきて、もはやかつての宮崎駿やスピルバーグのようなクオリティも大衆的なものには求められない。ユーチューバーやなろう小説は、それを作っている人も作品も一瞬で消費されているような何かになっている。かつてはある程度の質と量を保っていた大衆文化も、完全に惰性で分解したというか、今のクリエイターは内心では自分が一瞬で消費される感覚を肌で感じているはずで、そういう風に時代は変わってきたと見ています。

 

 それで、トータルで見た時、鳥嶋和彦という優れた才能は、ある程度の質と量が成り立っていた時代に現れた人だったという風に見ています。そんな風に一人の人間を括るのは良くないかもしれないが、そういう印象を持っています。

 

 歴史的に見れば、偉大な芸術家というのは、貴族とか王侯の庇護を受けるか、一部のブルジョアに支えられるかという風で、大衆的なものと完全に癒着して現れる例は少ないと見ています。まあ、まだ勉強中ですが。大衆的なものが全面的になれば「パンとサーカス」という風に単純化、平板化を引き起こす。

 

 現在においては、人間そのものが表面的に消費される時代なので、ある程度時間をかけてクオリティを目指す人はすべて時代に反逆するような要素になるのかもしれない。今は「売れるものを作らないのは駄目」という程度ですが、もう少し進めば「大衆の意向に沿わないものはすべて駄目」という風になると思います。その内、弾圧も始まるかもしれません。作品が社会との相関関係で現れるとすると、社会が変われば作品も変わります。

 

 ロシア文学などは偉大でしたが、革命が起きて、偉大な文学者はほとんど消えました。現在の状況ももう少し進めば、宮崎駿とか鳥嶋和彦のような才能すらも出なくなる可能性があると思います。変わりに現れるのは党派性、イデオロギーであり、イデオロギーに従属した作品は、首根っこを掴まれているようなもので作品として自立する事はない。かつての偉大な絵画などは神に顔を向けていましたが、その神が「教会」というような世俗権力にすり替えられると低劣化を起こす。

 

 現在は様々なものが党派性と、一瞬の快楽的消費に還元されていて、その流れになっていると思います。その中で何が残り何が消えるかは予測がつかない。少なくとも、少し前には存在していたある程度の安定した大衆と、それに対して才能を発揮する大衆的大御所とのバランスの良い関係は消えたという事だと思います。鳥嶋和彦という人もその厚みの中にいた優れた才能だと思います。これからはまた違う形で、違うものが表面に現れてくるかと思います。そうしてそれはあまり良いものではないと、ある程度の感覚を持った人はみんな感じているように思います。

 

どなたかはわかりませんが誤字報告ありがとうございました。適応ボタンを押しました。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  編集者をテーマにした所が鋭いと思いました。 [一言]  もはや商業出版において、このエッセイで語られるような『読者と作家をつなぐ編集者という存在』はいないんじゃないかな、と思っています…
[良い点] あなたの書かれた作品どれも面白くて、もうこの作品はブクマしなくて、ヤマダヒフミさん自体をお気に入りにしよう。そう考えていました。 でも、この作品読んでいく内に、まさか作品の消費スピードに…
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