たばこ百合
小学五年生の頃の夏休み、学校のプールに通っていた時でした。
「甘い匂いがする!」
一緒に通っていた幼馴染の孝樹がまたバカなことを言って、プールサイドのタオルが沢山かかった柵から外を覗いていました。
孝樹は運動と食べ物のことばかり考える典型的なバカ男子で、幼稚園の時からの付き合いがある私は仕方なく一緒にいることが多いけど、男子ってどうしてこんなに子供なんだろうってしょっちゅう思ってた。
その時も私はまたバカなこと言い出した、なんて思ってた。いくら嗅いでも、独特な塩素臭、爽やかな汗を全てをさらう夏風の臭い、甘い匂いどころか、食べ物の臭いさえしなかった。
「姫乃! 行こうぜ! 甘い匂いがする!」
行き帰りが一緒だから、と私まで強引に呼ばれて、というかそれだけ言うと大急ぎで帰ろうとする孝樹を追い、仕方なく私も帰ることにした。ああ、時間が余っちゃうなぁ、とか、家で夏休みの宿題をしよう、とかいろいろ考えながら。
けれど、孝樹の嗅覚は意外と馬鹿にできないもので、小学校を出て一分もしないうちに、その臭いの発信源を見つけることができた。
校庭が見える学校の外の道路の傍にバス停があり、そこに一人の大人のお姉さんが立ち尽くしていました。
その人は色の抜けてきた金髪で、太陽が輝きセミの鳴く夏だというのにコートを着て、涼し気な顔でバス停の傍の木陰で煙草を吸っているのです。
孝樹は困った顔で私に聞いてきました。
「あれ煙草?」
「見たらわかるでしょ」
お姉さんの白い指が挟んでいる煙草から煙が立っていて、お姉さんの口からも煙が出ていて、間違いなく煙草です。
ただ、孝樹がはしゃぐ気持ちもわかるほど、私もその香りに驚きました。
当時は煙草の煙なんて、ただ燃やした時に出る煙よりも変な臭いがして気持ち悪いもの、という印象だったのに、その匂いはチョコレートのように甘く、おいしそうなものなのです。
と、私が少し驚いていると孝樹はそのお姉さんの間近にまで迫っていました。
「お姉さん! それなに!?」
「ちょっ! 孝樹!」
少し驚いたお姉さんは、すぐに楽しそうに笑いました。
「煙草だよ」
「そんなん吸ってたら死ぬぞ!」
またバカなことを言って、私はとても孝樹が恥ずかしくなりましたが、お姉さんはただ優しく笑って、孝樹の頭を優しく撫でて言いました。
「私は無敵だから死なないんだよ~」
お姉さんも子供でした。
子供に合わせて笑うのが上手なのか、子供の扱いに慣れているのか、ともかくお姉さんは私達に物怖じすることなく、かといってつっけんどんに否定せず、楽しく喋ることができたわけです。
「なあなあそれおいしいの!? 俺にもくれ!」
「ダメダメ、悪い子になっちゃうぞ? ってか死ぬんでしょ?」
「俺も無敵だよ!」
「大人にならないと無敵になりません~」
「いいじゃんケチ!」
「ケチじゃない」
「ケチ!」
「ケチじゃない」
「あの……孝樹、もう行こ」
大人の人の変な会話を見てる気恥ずかしさも相まって、ますますその場から離れたくなった私は孝樹に促しましたが、お姉さんは私を見てまた微笑みました。
「あれ、彼女? カワイイじゃん」
「ばっ! ちっげーし! ちっげーし!」
「かっ……」
可愛い、と言われて私は顔から火が出るみたいに熱くなりました。夏なので、汗をかくのは当然なのですが、汗も急にふきだしたように思います。その時のお姉さんの笑顔があまりにも爽やかで、何故か私はその笑顔がとても目に焼き付いて残滓のように頭にこびりつきました。
「煙草吸ったら早く死ぬのは確かだから、あんな可愛い子泣かしちゃだめよ?」
「彼女じゃねーし! っつか可愛くねーし!」
「あ!? んだと!?」
女子が強いくらいの年齢ですから、ふざけたことを抜かす孝樹は暴力をもって退治するくらいのことはできました。というかしました。孝樹はまた「オニヒメノが怒った!」なんて言って一人で逃げかえっていきます。
それを見てまたお姉さんは笑うのです。
「あははっ! お嬢ちゃん強いじゃん」
「お、お嬢ちゃんって……子ども扱いしないで! 坂木姫乃です!」
「姫乃ちゃんね。はいはい」
軽い調子で済ませて、お姉さんはまた煙草に一口つけました。薄いベージュの口紅に挟まれた煙草は少しだけ汚れて、口元の湿り気を帯びて柔らかくしなだれているのが見えました。
「あの…………お姉さんは?」
「私? 名前? 名乗るほどの者じゃないよ」
それは、そうです。行きずりの関係というものでしょうか。こんな一期一会と言っても、本当に二度と会うことのなさそうな私達が自己紹介しあうこともないでしょう。
「追っかけなくていいの?」
と言われれば、一緒に来て一緒に帰る孝樹ですから、追っかけなければいけません。
少し孝樹の方へ、家の方へ歩きながら、私はけれど、無意識に、声をかけてほしいような動作でちらちらとお姉さんの方を何度も見ながら歩いていたのです。
そしたら、彼女はまた楽し気に笑うのです。
「まあ、私は何日かここに通うから、また会えるかもよ」
「そうなんですか?」
「うん。まあね」
それを聞いて、私は安心して、孝樹を追いかけました。
学校のプールが解放されているのは、夏休みの平日いつものことなので、また会えると思ったからです。
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そして、実際にお姉さんと次の日に会うことができました。
「また煙草かよー!」
きっかけは孝樹の『昨日と同じ甘い匂いする』という声で、また勝手に帰ろうとしたことでした。
「また煙草だよ。えっと、少年と少女」
「孝樹だよ!」
「姫乃です」
「タカキにヒメノね。覚えた覚えた」
煙を吐くお姉さんを見て、孝樹は困った表情で、腕を組んでうーんうーんと唸り始めます。
「どうしたの?」
「いや……煙草って食べられないじゃん」
「ぶはっ!」
そのあまりに間抜けな言葉に、お姉さんがせき込みました。心底可笑しそうに、大笑いしています。
私は孝樹のことが自分のように恥ずかしいけれど、何故か安心したような気持ちと、とても嬉しい気持ちがありました。孝樹のことで、お姉さんがこんなに笑ってくれるということが、どうして安心できてうれしいのかはその時は気付けませんでしたが。
「良いキャラしてるね~」
「あ、あの、えっと……」
私はつい勇んで何か話そうとしましたが、特に共通の話題もなくて、何を話そうか悩んでいるうちに。
「学校のプール? 毎日通ってるの?」
「あ、はい。平日は開いているので」
お姉さんの方から話題を出してくれました。
「そうなんだ。そんなの昔からあったかなぁ?」
「お前の昔とか五十年前かよ?」
「コラ孝樹!」
「まだ二十八ですぅ」
孝樹がまたオニヒメノと言って逃げ出して、二人きりになりました。
「あの、煙草、体に良くないですよ」
私はそんなことを言いました。
煙草は、学校の授業でも、DVDを見せられて、どれだけ危ないか、病気になるとか成長しなくなるとかということを学びます。大人になっても吸わない方がいいに決まっていたからです。
お姉さんにはそういう危険なことをしてほしくないと思っていたのです。
けどお姉さんは平然とした顔で煙草を吸いながら言います。
「うん、体には良くないね」
まるで他人事で、自分が吸っているのは煙草ではないと言いかねないくらいの無関係振りです。
「あの……だったらやめた方がいいと思うんですけど」
「まあ…………そのうちやめるつもりだから」
そのうちやめる、っていうのはやめない人の常套句です。孝樹もゲームをしている時はそのうちそのうちと言いながら最後までやめない時ばかりです。サッカーしててもそのうち帰ると言いながら最終下校まで帰らないことばかりでした。
だけど、その時のお姉さんの俯いた顔は、寂しくて、満たされない表情は、煙草よりもずっと大切なものを諦めてしまうような悲しみに暮れていました。
それを見ると、私は急に煙草をやめた方がいい、なんて言ったことを後悔しました。いつまでも続けていいから、そんな悲しい顔をしないでほしいと思いました。
けれどそう伝えることはできませんでした。その代りに、しばらくお姉さんの近くにいたいと思って、隣に立ちました。
バス停だけど、ここのバスは全然来ません。バスを待っているようには思えませんでした。
「ん、どうしたのヒメノちゃん? 副流煙危ないよ?」
「あの……ここでいつも何してるんですか?」
「煙草吸ってる」
「……あの」
「待ってるんだ、トモダチ」
孝樹といる時は楽しそうなお姉さんですが、お姉さん自身の話になるとなんだか冷たくて、これが本当の姿なのでしょう。
その友達とどういう関係なのか、子供の私でも難しいものなんだと分かりました。何日かここで待つと言った以上、しばらく会えないことは覚悟しているのかもしれません。
「ヒメノちゃんさ」
「はいっ!」
力んで私は大きな声で返事をしましたが、それが可笑しかったのか、またお姉さんは笑っていました。
「タカキくん、追っかけなくていいの?」
「あ……」
曲がり角から、孝樹はちらちらとこっちを見ていました。昨日の私のようです。
男は本当に馬鹿だなぁと思いました。
「ヒメノちゃんは、友達を大切にしなよ」
去り際にお姉さんはそんなことを言っていました。短い言葉だけど、私はそれ以上のものを感じ取っていました。
その次の日はプールに行きませんでした。
行く前にお姉さんと会ったからです。
「おい姫乃! 行くぞ!」
「今日はいい! なんかしんどいから!」
別に、これっぽっちもしんどいことはありません。ただ、プールに入らない理由があれば何でもよかったのです。
「良いの? 姫乃ちゃん」
「あの今日は……その……」
お姉さんの前で嘘を吐くことは、とても気まずい感じです。けれど、孝樹がいない時にお姉さんと会いたい気持ちが強まっていました。
お姉さんは、よく分からない表情で、いつも通り淡々と煙草を吸っていました。
「ま、いいけど。なんていうか、暇だねぇ、小学生」
「ひ、暇じゃないです」
「そう? ふーん」
訝しがる様子で、そうなるのは当然でした。私が嘘を吐いたのはお姉さんと話したいという一心で、それ以外に理由がないからですし。
お姉さんと話したい理由というのも、私がお姉さんを一方的に気に入ってしまっただけなのですから、むしろ不思議がられていないと、私の複雑な気持ちがバレているということになりますから、不思議がられていてよかったのです。
「あの、お姉さんは」
「なぁに?」
「煙草、好きなんですか?」
「んー……」
悩ましい表情で煙草を吸いながら、ふぅーっと息を吐いて、お姉さんは言います。
「好き、だったかな」
「今は好きじゃないんですか?」
「あはは……トモダチと一緒に吸ってたんだけどね……その子と喧嘩しちゃって」
それが原因だということと、その友達と今お姉さんが待っている友達が同じ人だというのは、沈んだ表情で直感的に理解できました。
これ以上踏み込めない、そう思っても、もっと知りたい。
「あの……」
その人のことをどう思っているのか……聞いても仕方のないことを、聞いてみようとして。
「煙草、吸ってみる?」
「えっ! い、いいです! いりません!」
私は反射的にそう答えていた。
子供だから、何よりも、いけないことだから。
子供が煙草を吸ってはいけないし……女の人同士で間接キスなんて、駄目だと思った。
けれど凄く後悔した。
お姉さんと同じ煙草は、私とお姉さんを絶対に深く結びつける。二人の秘密ができる。なによりも間接キスができる。
お姉さんと一緒でいたいのに、私は反射で否定してしまった。
「うんうん、偉い偉い」
そんな風に、孝樹がされていたみたいに優しく撫でられて、私はそれで幸せだと思ってしまったのです。
「……うん、そろそろ私も辞めるか」
「……えっ」
突然のことに顔を上げると、お姉さんもまた夏の空を見ていた。
「いや、辞めるっていうか、ちゃんと前を向いて生きる、みたいなね。ここでこうして待つだけじゃ駄目だわ」
「そう……ですか」
「ありがとうね、姫乃ちゃん」
お姉さんは、私達とのやりとりで何かに気付いたようでした。それはただ待つだけでなく、自分から動いて何かすべきだと気づいたようでした。
けれど、それは私との別れを意味するものです。
「あの……また会えますか?」
「……さあねぇ。お互い長生きすれば、また会えるんじゃない? 私も地元この辺りだし」
「あの! 坂木、ですから。その、何か、あったら……」
名字が分かれば、表札を見て、なんてありえない話だけど、それでも私はそんな標をお姉さんに残したかったのです。そうまでして会える可能性を生み出したかったのです。
「ああ、坂木姫乃ちゃん、ね。覚えとく」
そんな言葉にどれだけの価値があって、どれだけ信頼できるかなんて、考えるほどのことでもない。
だけど私はその時、その言葉に安心しきっていました。
「じゃあ、えっと、姫乃ちゃん。友達は大切に」
「はい。……あの、またね」
「……またね」
お姉さんは最後まで笑って、手を振ってくれました。
それからお姉さんと会ったことはありません。
私も孝樹も大学生になり、就職先を探しながら卒論に手を付けているほどで、あの時は遠い昔のことのようです。
孝樹にとっては、そんな忘れた記憶の一つですが私にとってはいまだに鮮明な、初恋の思い出。
「孝樹また煙草吸って……私、嫌いだって言わなかった?」
「いや、なんつーかさ、昔煙草吸ってるめっちゃかっこいい人いたんだって。その人を尊敬してんの」
「馬鹿馬鹿し」
「まずいはまずいけどさ、匂いは良いだろ? 甘くて」
「…………嫌い。体に悪いし」
本当に、嫌いなんだ。