一
数時間の時が流れた。朝日が地平線から顔を出し、一日の始まりを告げようとしていた頃、とある小さな村の中にそびえ立つ大樹もまた、温かい日光を全身に浴びせ、朝の訪れを肌で感じていた。
ネムヘブル――リバームルの街より南に位置する村だ。その中心では、雲にも届く勢いで伸びる、村の象徴とも言える大樹が根を張っている。だがそれ以外には、周囲に民家が点在しているだけで、他には何もない小さな田舎村である。
大樹の影が大きく西に傾く中、ネムヘブルでは、一人の女の子がログハウスへと足を運んでいた。そこが自分の家というわけでは決してない。しかし、その家に訪れることに、女の子は何のためらいもしなかった。それほどまでに、女の子が心を開くことのできる人物が、その家には住んでいた。
「セラお姉ちゃ~ん! 起きてる~?」
家の前に辿り着くなり、女の子は大きく息を吸い、声を張り上げてその人物を呼んだ。女の子の声は家中に響き渡り、奥のベッドでまだ眠りについている少女の耳に届いた。
「ん……?」
女の子の呼び声にぴくりと反応し、やがて、少女は目を擦りながら上半身を起こした。
「急いでよ~! もうみんな集まってるんだよ~?」
再び、外の方から女の子の声が。それを聞いて、少女は虚ろな目を、壁にかけてある時計の方に向ける。
そして、少女は驚きのあまり、重い瞼を開かせた。
「大変!」
叫ぶや否や、少女は慌てた様子で、すぐにベッドから身を乗り出し、寝間着の格好のまま玄関へと向かった。玄関のドアを開けてみると、先ほどの声の主である女の子が、すぐそこに立っていた。
「ほら、見て!」
少女が来るなり、その女の子は大樹の根元を指差して示した。
見ると、女の子が言った通り、大樹の根元にはすでに多くの子供達が集まっていた。そのことを知り、少女の焦りはさらに募る。
「す、すみません、ニーナ……ちょっとだけ待ってください!」
そう言って、少女は大急ぎで部屋へと戻って行った。さすがに、寝間着の姿で外に出るわけにはいかない。
部屋のクローゼットを開けて白いワンピースを一着取り出し、着替える。脱いだパジャマを簡単に畳んでベッドの上に置き、急ぎ足で部屋を出て玄関へ向かう。サンダルを履き、玄関のドアノブを掴もうとしたとき、ふとあることを思い出し、少女は手を止めて後ろを振り返った。
「……肝心な物を忘れるところでした」
少女の向けた視線の先には、壁に立てかけられた一冊の絵本があった。絵本を手に取り、少女はすぐに玄関を後にした。
「遅くなってごめんなさい!」
大樹の根元に着くなり、少女は子供達に深々と頭を下げた。
「あはは。セラお姉ちゃん、髪ボサボサだよ~?」
子供達からは、笑い声と共に拍手が沸き起こった。子供達に言われたことを気にしてか、セラと呼ばれた少女は、頬を赤らめながら髪を少しだけ整えた。
「お姉ちゃん、今日は何のお話なの?」
先ほどセラを呼びに来てくれた女の子――ニーナが、子供達と一緒に地べたに座りながら、セラに尋ねた。ニーナがいつもセラに聞いていることだった。
「あ、ハイ! 今日はですね……」
セラは子供達の前に座り込み、手にしている絵本の表紙を見せた。
「今日のお話は、『三匹の子豚』っていうお話です」
「子豚~?」
「ハイ! 子豚です。三匹の」
子供達は、セラの持って来た絵本に興味深々だった。そんな子供達の反応を見て、何だか嬉しくなり、セラの顔から自然と笑みが溢れる。
コホンと一つ咳払いをすると、セラは絵本を開き、早速子供達に読み聞かせを始めた。お茶目でおっちょこちょいな子豚の兄弟、獰猛な狼との攻防、そしてそれらのシーンを引き立てるセラの感情豊かな音読に、子供達は次第に心を奪われていく。
「……こうして子豚達は無事、仲良く平和に暮らすことができましたとさ。めでたしめでたし」
セラが絵本を最後まで読み上げると、子供達から再び拍手が沸き起こった。
「ねぇお姉ちゃん、その後狼はどうなったの?」
「狼は、子豚達を食べるのを諦めて、どこかに逃げていったみたいですよ」
「ふ~ん……」
その場はしばらくの間、絵本の話で盛り上がった。
「狼、悪いヤツだったねぇ」
「強すぎだよね、息でお家吹き飛ばしちゃうなんて」
「アタシ達のお家も木でできてるから、すぐに吹き飛ばされちゃうね」
「僕、レンガのお家に住みたかったなぁ」
子供達が話に熱中しているのを見て、セラはくすりと笑みをこぼした。
この何もない小さな村で、セラが始めた絵本の読み聞かせ。それはいつしか、この村に住む子供達の楽しみとなっていた。そして、セラもまた、子供達の無邪気な笑顔を見るのを楽しみにしていた。
「お姉ちゃん、明日はどんなお話にするの?」
「それはまだ決めてませんよー」
――本当は、明後日に読む本まで決めてあるのだけど。
口元だけで密かに笑いながら、セラは絵本をパタンと閉じて立ち上がった。
「みんな、今日のお話はこれでおしまい。また明日、別のお話を持ってきますからね」
「え~? お姉ちゃん、もう帰っちゃうの?」
「お姉ちゃん、今日は一緒に遊ぼうよ」
子供達が一斉にセラを囲い、駄々をこね始める。子供達のわがままを断りきれずに、困惑するセラを見かね、ニーナは子供達をセラから突き放し、叱った。
「ちょっとみんな! セラお姉ちゃんはさっき起きたばかりなんだから、朝ごはんもまだ食べていないんだよ? 無理言わないの!」
ニーナの言葉が、セラの胸に突き刺さる……。気を遣ってくれているのは嬉しいのだが、自分が寝坊したことを間接的に話されるのは、少し悲しい。
「じゃあ後で遊ぼうよ、お姉ちゃん」
「あ……はい! 後でなら」
子供達の言葉に、セラは大きくうなずいてみせた。子供達は「バイバイ」とセラに手を振った後、村の広場の方へ走って行った。
「お姉ちゃん、かぁ……」
子供達と接しているうちに、いつしか「セラお姉ちゃん」と、そう呼ばれるようになった。それは、セラが子供達と親しい仲になれた証でもあった。そしてセラ自身も、子供達と過ごす時間を、心の底から楽しいと思えていた。
――こんな日々が、いつまでもずっと続いたら良いのに……。そう思ったとき、たった今、子供達と交わした約束を思い出し、セラは我に返った。
「……いつまでも待たせてしまったら、みんなに申し訳ないですね。早くしなくちゃ」
そう呟き、セラも家に戻ろうとしたときだった。
「オイ、そこのアンタ!」
少し驚いた後、セラは声のした後方を振り返った。するとそこには、背中にバッグを担ぎ、腰に剣を着けた男が立っていた。ぱっと見ただけでも、男がこの村の住人でないことは容易に判断できた。
「あ、あの……私ですか……?」
自分に指を差しながら、おどおどとセラは尋ねる。
「そう、アンタ」
対する男の反応は素っ気なかった。
「この村の宿屋ってどこにあるんだ?」
「や、宿屋ですか?」
「ああ。一、二日ほど泊まりたいんだが……」
「えっと……その……」
セラは返答に困ってしまった。宿屋など、よそから来た者を迎えるような施設は、ネムヘブルにはなかったのだ。
「まさか……ないのか? 宿」
セラが答える前に、男が先に言い当てた。
「は、はい……」
セラの返答に、男は「マジかよ」とぼやいてため息をついた。
「ごめんなさい……その、お役に立てなくて」
「いや、別にアンタが悪いって言ってるわけじゃねぇんだけどな……」
どうしたものかと呟きながら、男は頭を抱えた。
このままだと、この人に申し訳ない――。気の毒に思ったセラは、男に一つ提案をした。
「あの……宿はないんですけど、私の家になら、空いている部屋が一つか二つかはありますよ」
「……はあ?」
セラの提案に、男は思わず間の抜けた返事をしてしまう。
「ちょっと狭いかもしれないですけど。……だめ、ですか?」
セラの言葉に、男は首を横に振った。
「いや、そういうわけじゃねえけど……アンタが迷惑だろ?」
それを聞いて、今度はセラが首を横に振る。
「い、いえ! 私は別に問題ありません!」
「しかしなあ……」
男は腕組みして考え込んだが、少しして他に良案がないのを悟ると、すまなそうに口を開いた。
「それじゃあ、アンタの部屋……借りることにするよ」
「は、はい!」
男の返事を聞き、セラの顔に再び笑顔が戻る。男は「悪いな」と詫びながら後頭部を掻いた。
「じゃあ早速だが、荷物を部屋に運んでいいか?」
「もちろんです! あ、そうだ。まだ朝ごはんを食べていないなら、作りましょうか?」
「本当か? サンキュー……えっと」
男はセラの名前が分からずに、言葉を詰まらせてしまう。
「あ……私、セラ・マリノアと言います。あなたは?」
「俺はラース。ラース・オルディオだ。よろしくな、セラ」
そう言うと、ラースと名乗った男はセラに手を差し出し、握手を求めた。
「はい! よろしくお願いしますね!」
セラも満面の笑みで、差し出された手を握り返した。
「ラースさん。朝ごはんで何か食べたいものはありますか?」
「ん、そうだな……」
たわいないおしゃべりを交わしながら、二人はセラの家へと足を運んでいった。大樹が手を振るように枝葉を揺らし、二人が家の中に入っていくのを後ろから見届けた。
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