六
大きなため息が低い天井に向けられ、虚しく反響する。あの事件の後、ラースは自室に戻り、ベッドの上でずっと横たわっていた。ベッドに辿り着いてからというもの、日が紅く染まり始めた今に至るまで、ラースがその場を動くことはなかった。
――あの男が助けに来てくれなかったら、今頃どうなっていただろうか。少なくとも、自分はなぶり殺しに遭っていたはずだとラースは失笑する。同時に、改めてあの男に対する感謝の念が込み上がる。あの男のおかげで、何事もなく事態は収束したのだ。
あれから、かの手下達は、男に受けた傷を癒すため、街の医療所へと運ばれた。野蛮人を助ける義理はないといえばないが、そこに理由はいらないはずである。
それに、あれだけ実力の差を見せつけられたのだ。ましてや、親玉なる二人も、男の魔法によって、どこかに飛んでいってしまった。 逆らう気など、到底起こす気にはなれないだろう。
それよりも、ラースが困ったのはその直後だった。あの事件の後、ラース達の所に、早々にフェルマーが駆けつけてきたのだ。
事情を知らないフェルマーは、ラースの手にしていた剣と、傷ついた大男達を見るなり、「アンタ、人殺しにまで堕ちたのかい?」と大きくラースに騒ぎ立てた。
結局はマルクが誤解を解いてくれたのだが、それまでに一時間もの時間を要している。その時の状況を思い出し、ラースは「全く、早とちりな婆さんだ」と苦笑いしながら、鼻でため息をついた。
ラースの発したため息が、また空間内に浸透し、消失する。ラースの表情からも、一瞬込み上げた笑いが失せていく。
フェルマーの一件も困ったことは困ったのだが、今のラースにとって、そんなことはもうどうでもよかった。ラースが思い悩んでいたのは、そんな些細なことではない。ラースの脳裏には、あの男の別れ際に告げた言葉が、今なお強く焼き付いていた。
――自分が人殺しなのは百も承知だ。
――それでも。それを分かっててもなお。私は剣を振る。……そうでもしないと守れないものがあるからだ。
――正直……剣を振る理由なんて私にも明確には分からない。それでも私は、守るべきもののために戦う。それが……私が今、剣を振る理由だ。
「……ラース? いるならちゃんと返事をしなさい!」
不意に、聞き慣れたつんざくような声が、ラースの耳に入ってきた。その声で我に返り、ラースの思考は一旦停止する。
「……何だよ。ちゃんと聞こえてるっての」
「ディナー、もうできたから。アンタも手短に済ませて、仕事手伝いなさい!」
そうラースに伝え、フェルマーはギシギシと音を立てて階段を降りていった。
――ここでずっと考えていても仕方ない、やることをやりながらでも考えるか。そう自分に言い聞かせ、ラースもすぐに部屋を後にした。
しかし、その後の晩御飯を食べているときも、宿屋の仕事を手伝っているときも、自分が剣を振る理由の答えは結局分からずじまいだった。
再び大きなため息をつきながら、ベッドの上に仰向けで横たわる。そして、壁に立てかけている自分の剣を、横目で見つめた。
「ハァ……今日はお前に悩まされてばっかりだ」
そう呟き、ラースが剣に背を向けるように寝返る。
「剣を振る理由……」
ラースは再度、男の言葉を思い返した。
――アイツは人殺しになってでも剣を振るって言っていた。守るべきもののためにって。『守るべきもの』って何だ? 自分が人殺しになってでも守りたいほど、大切なものなのか? そうまでしないと守れないって、一体どういうことだ? ますます意味が分からない……。
「そう言えば、アイツ……」
ふと、ラースはマルクに言われた言葉を思い出した。
――ラースの言った『剣を振る理由』なんだけど……クレス兄ちゃんの『騎士になる理由』と同じだったりしない?
――どちらも言葉は違うけど……その理由は『救う』っていう点で似たようなものになるんじゃないかなって……。
「兄貴……」
ラースは、兄の姿を見越して、天井を見上げた。
――兄貴。今、何してる? 騎士になったのか? どこに仕えたんだ? 騎士になったのなら、やっぱり兄貴も剣を振っているのか? どんな想いで剣を振っている?
そうして考えているうちに、ラースの頭にある考えが浮かんだ。
――本当に肝心なのは、剣を振る『理由』なんかじゃない。自分が『何のために』剣を振るかだ。あの男は、守るべきもののため。兄は、法を良い方向に変えるため。そして……自分は、何のために剣を振っているのか?
すぐに、ラースは首を振った。――そこまで悩むことでもないはずだ。あの男も、兄も、そして自分も、『救う』という点で想いは同じなのだ。だが、それが人を斬る理由になるのかどうかと問われると、ラースは肯定することができなかった。
「アイツの言う、『そうでもしないと守れないもの』ってなんだろう? 俺は、何のために剣を振るんだろう? 何のために剣があるんだろう?」
ラースにある感情が芽生える。
――知りたい。何のために剣があるのか。人を殺さずして守れないものとは何か。それとも、剣はただ人を斬り殺すためだけの道具に過ぎないのだろうか?
ここでずっと、そのことで考えにふけっていても、おそらく答えは一生分からないままだろう。ならばどうするか――ラースは悩むことなく思い至った。世界に視野を広げよう、と。今、ここでその答えを見出せないというのなら、自らの手で見つけ出すしかない――。
その手で握り締める拳は、とても熱く。力強く、たぎり。頭の中をさ迷い続けていた感情は、もう吐息として漏れることはない。
青年の、剣に対する疑念が、執着心が、自身を世界へと駆り立てた瞬間だった。
* * *
その日の深夜、ラースは自分の所持金や衣類、地図などを最小限にまとめていた。すぐにでも旅立つつもりだったのだ。
まとめた荷物をバッグの中に詰め込み、それを背負う。そして、壁に立てかけている剣を拾い、腰に装着する。
「これでよし、と。あとは……」
そう呟くなり、ラースは部屋の隅にあるデスクに歩み寄った。デスクの上には、一枚の紙が置いてあった。
それを手にしてから、ラースは自分の部屋を後にした。
二階から外を見渡すと、空は墨を塗ったように黒く染まり、街は昼の頃とは段違いに静まり返っていた。
足音を立てないように、ゆっくりと宿屋の階段を降りていく。無事に下まで辿り着くと、ラースは早速、先ほど手にした紙を取り出した。そして、それをフロントの扉の前に置き、その上に石を文鎮代わりに乗せた。
「フェル婆さん、我儘を言ってごめん。行ってくるよ」
我が家を見上げながら別れを告げると、ラースは背を向けて歩み出した。
ここに長くいると、いずれ誰かに見つかってしまう――そう思ったラースは、自分の足を速めた。
真夜中のそよ風は肌寒く、長く外に留まろうという気にはとてもなれない。だが、人目を避けて街を出るには、このくらいの時間から行動する必要があった。
「……何のために剣があるのか知りたい、か」
旅に出る理由を口にすると、ラースは思わず失笑した。――こんな馬鹿馬鹿しい理由で街を離れると言って、誰も納得するはずがない。見つかったら止められてしまうのは目に見えていた。街の皆には勝手だと思われるかもしれないが……。
「……悪い、皆。俺、何のために剣があるのか、本気で知りたいんだ」
そう小声で告げ、ラースは再び歩み出した。
しかしその行動は、ある人物によってあえなく止められてしまう。
「ラース!」
突然の呼び声に、ラースは体が硬直した。まさか、こんなにも早く、誰かに見つかってしまうとは思わなかった。
ラースが恐る恐る声のした後方を振り返ると、視線の先には、ラースを呼び止めた声の主が立っていた。
「マルク……」
その人物――マルクを見つめながら、ラースは呟いた。急いで駆け付けてきたのか、マルクは膝に手をつきながら息を切らしていた。
「……どうして分かったんだ?」
そう問うと、マルクは息を荒らげながら答えた。
「今日の……ラースは……ずっと変だった。だから……ラースのことが、ちょっと心配だったんだ……」
ラースは無言のまま、マルクの言葉に耳を傾けた。
「僕……今日のラースに……あの時のクレス兄ちゃんと同じ違和感を感じたんだ……」
マルクの言葉に、ラースは一瞬目を丸くする。
「だから……もしかしたら、ラースはクレス兄ちゃんみたいに、僕達に何も言わないで、この街を出て行っちゃうんじゃないかって……そう思って……」
――そして、予感が的中したってわけか。
鼻で軽くため息をついてから、ラースは言葉を返した。
「……あぁ、その通りだマルク。俺は、この街を出て行くって、そう決めた」
ようやく息が整ったマルクが、ラースに詰め寄った。
「……ねぇ、どうしてラースはこの街を出て行くの? 理由くらい……」
「こいつだ」
ラースは瞬時に腰に着けている物を抜き、それをマルクに突き付けた。
それはただ、旅に出る理由を示すだけでなく、「引き留めてほしくない」という想いから出た行動でもあった。
「もしかして……今日の昼に言ってた?」
「ああ」
マルクの問いにうなずくと、ラースは剣を突き付けるのを止めて、右手を降ろした。
「あの男が言ってたんだ。自分が人殺しだと分かっていてもなお、剣を振るって。そうでもしないと守れないものがあるって。……俺は、知りたいんだ。そうでもしないと守れないものって何なのか。そして、俺自身が何のために剣を振るのか。その答えをな」
「ラース……」
ラースの言葉を聞き、マルクはうつむきながら黙り込んでしまった。
「……止めるか? 俺を」
「えっ?」
ラースが自嘲するかのように鼻で笑いながら言う。
「俺は……兄貴とは違う。ただの自己満足のために行くようなもんだ。そんな理由で、こんな勝手なこと、許されるはずなんて……」
マルクは少し考え込んだが、やがて、すぐに首を横に振った。
「……そんなことないよ。ラースがどんな選択をしようが、それを僕達が止める権利なんてないんだ」
マルクの予想外な返答に、ラースは目を見開いた。
「だからさ。ラースは安心して行くといいよ。街の人達には、僕が伝えとくから」
「マルク……」
昔と比べて随分と様変わりしたマルクを、ラースは微笑ましく思った。
「……変わったな、マルク。俺なんかと違って、何だか頼もしくなった」
笑みをそのままに、ラースはマルクを褒めた。しかしそれを聞いて、マルクは急に表情を曇らせてしまった。
「マルク……?」
マルクは、ぶんぶんと首を横に振り、震えた声で返事を返した。
「そんなことない……そんなことないよ……。僕はずっとラースに迷惑ばっかりかけて……」
マルクの目元から何かが零れ落ちる。よく見るとそれは水滴で、地面にポツポツと当たっては浸透していく。
ここで、ラースはマルクが泣いていることに気付き、戸惑いの目をマルクに向けた。
「でも……ラースはそんな僕にずっと優しくしてくれた……。だから……もうラースと会えなくなっちゃうって思うと……僕……」
言葉が詰まり、マルクは抑えていた悲しみの声を上げ、涙を流した。そんなマルクを見て、ラースはその場で立ち尽くしてしまった。
涙を堪えてまで気を遣わせてしまっていたのに、そんなマルクに我儘を押し通そうと剣を突き付けた自分は、どれほど愚かだったことだろう。ラースは自分のみっともなさを思い知った。本当に馬鹿なことをしたと痛感した。
気付けば、ラースは剣を取り落として片膝をつき、自身の胸にマルクを抱き寄せていた。自らの行いを恥じるように、心からマルクに謝罪の意を示すように、強く、強く。
「ごめんな、マルク。俺……」
「ラース……」
「俺……本当に悪いことしてるって思ってる。だけど……」
ラースは、心の中でも、マルクに何度も謝り続けた。マルクや街の皆に迷惑をかけることになると分かっていても、それでも旅に出ることを許してもらいたかった。
「マルク……」
ラースは、マルクの肩に手を置き、目を合わせた。
「俺……必ずここに戻って来るから。だから……」
「本当に……必ず……?」
潤んだ目で見つめながら問うマルクに対し、揺るぎのない目でうなずいてみせる。
「だから……それまで、俺のことを待っていてほしいんだ。どんなに遠くに行こうが、俺の帰る場所は……ここしかねぇから」
ラースの瞳には、どこか切なさが含まれている反面、「必ず帰ってくる」という強い意志が宿っていた。そんなラースの意志を、マルクは自身の瞳を通して汲み取った。不思議と悲しみの感情は薄れ、マルクの目から溢れ出ていた涙はぱたりと止まってしまった。
「……分かったよ、ラース」
マルクは、涙で汚れた顔を腕で拭った。
「僕、待ってるから……。だからラースも、必ず帰ってきてよね!」
「ああ……約束だ」
そう言うと、ラースは右手の小指を突き出した。指切りげんまん――約束を交わし、誓いを守る印だった。
「……うん! 約束だよラース!」
応えるように、マルクも小指を突き出す。そして、二人はそれぞれの小指を交えた。二人の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
――しばらく、お別れになるのは寂しいけど。それでも、俺は必ずここに帰ってくるから。涙なんかいらないよな。
そっと絡ませていた小指を離すと、ラースはその場でスッと立ち上がって言った。
「……じゃあ俺、悪いけどもう行くよ。これ以上長くいると、面倒なことになっちまうから」
「まだ誰も起きてないよ?」
「うちの宿屋の人は忙しくて、寝る時間が短いんだよ」
だから急がねーと、と呟きながら、ラースは先ほど手放した剣を拾い上げた。
「……じゃあな、マルク。約束、忘れないでくれよ」
剣を鞘に納め切ったところで、ラースが改めて、マルクの方を振り向いて言う。
「うん。……ラースこそ、ちゃんと約束守ってよね」
あぁ、と力強くうなずくと、ラースはマルクに背を向けて歩み出した。それから、決して振り返ることのなく、ラースは前を見続け、足を進めていった。
マルクは、しばらくその場を動くことなく、遠ざかっていくラースの後ろ姿を見つめていた。
ラースがいなくなったという事実。それだけで、また少し込み上げてくるものがある。だが、ラースは「必ず帰る」と約束してくれた。それだけでもう十分だった。他に何がいるというのだろうか――。
再び前を向くと、すでにラースの姿は見えなくなってしまっていた。マルクは目に溜まり出したものを抑えた。
「ラース。僕、ずっと待ってるから。だから、ラースも必ず……」
そう呟いて、マルクがその場を引き返そうとしたとき――マルクの振り向いた先に、人影らしきものが見えた。
その人影は、マルクの方に向かって走って来ている。誰だろうと思い、マルクは目を凝らした。すると、程なくして、その人影の正体がフェルマーであることに気付いた。
マルクは、先ほどラースが言っていたことを思い出した。――きっと、フェルマーさんは今頃起き始めたのだろう。そして、すぐ異変に気付いたに違いない。そう思ったからか、マルクはフェルマーが現れたことにさほど驚きはしなかった。
「マルクちゃん……ラースは……?」
マルクの前で足を止めるなり、フェルマーは肩で息をしながら尋ねた。マルクは再び、先ほどまでラースがいた方を向いて答えた。
「ラースはもう行きましたよ。絶対に帰ってくるって……そう言ってました」
しかし、フェルマーはマルクの言葉を最後まで聞くことなく、急にマルクにしがみついた。あまりにも唐突な行動に、マルクは目を丸くする。
「あの子を……あの子を止めないと……! あの子が……」
困惑しきった顔でそれだけを言うと、フェルマーは力が抜け落ちたかのように、へなへなと崩れ落ちてしまった。
「フェルマーさん……? どういうことですか……?」
ただ事ではないと思い、マルクは切迫した様子で尋ねた。するとマルクは、フェルマーの手元に一枚の紙があることに気が付いた。
その紙を手にし、広げてみる。書いてある内容に目を通し、マルクは思わず息を呑んだ。
『フェル婆さんへ
急にこんな形で悪いけど、俺の話を聞いて欲しい。
今朝、俺が話していた男を覚えているか? 今日、外で人を斬ったのはそいつだ。
こんな俺でも、人殺しには絶対になりたくない。だから、その男に聞いたんだ。
「何で人を斬ることができるんだ」って。
そしたらそいつ、
「自分が人殺しなのは百も承知だ。
だが、それでも私は剣を振る。そうでもしないと守れないものがあるから。
私は、守るべきものの為に剣を振る」
そう言ったんだ。
剣は、人を傷つける武器だ。
だから正直、その男の言っていたことは理解できない。
守ると言ったって、結局は人を斬るのだから。
だけど俺、剣はそれだけのための道具じゃないと思うんだ。
だから知りたいんだ。
人を殺さずして守れないものって何か。
そして、自分は何のために剣を振るのか。
その答えは、ここで一人で考え込んでいても、おそらく一生分からない。
だから俺、世界を旅して答えを見つけたいんだ。
リバームルに来たときから、みんなには本当に迷惑かけたけど。
本当に申し訳ないけど。
このことを、俺の最後の我儘として聞き入れてほしい。
そして……
この旅が終わったとき、俺は今までの俺じゃなくなってるかもしれない。
それでも、もう一度俺を受け入れてほしいんだ。
今の俺の帰る場所は、ここしかないから。
この旅は、俺にとって、とても過酷なものになると思う。
何故なら、俺は……
人を殺してしまうかもしれない。』
* * *
――これからどうしようか? 道なりに歩を進めながら、ラースはそう自問した。
旅に出ると決めたとはいえ、具体的にどうやって答えを見つけるかまでは考えていない。自分の無計画さ故に放浪の旅となってしまうことに、ラースは自嘲気味に鼻で笑う。
ふと、ラースは足を止めて後ろを振り返った。すると、すでに遠退いたリバームルの外観が目に映った。
こうして、遠くからあの街を眺めたのはいつ以来だろうか。星空を背景にして眺めるこの景色を、ラースは懐かしく感じた。
ぴゅう、と冷たい風が通り過ぎ、平坦な草原が波のように揺れた。――そろそろフェル婆さんも起きる頃だ。そして、すぐ手紙の存在を知るだろう。推し量ると同時に、ラースは顔を曇らせた。
――この旅で、俺は、人を殺してしまうかもしれない。
そう思いながら、ラースは腰に着けた剣を抜いて見つめる。
そしてラースは、今度は別のことを自らに問うた。自分は人を殺すことができるのか、と。
ラースは、黒マントの男が助けてくれたときのことを思い出した。荒くれ者達を斬るとき、彼は容赦しなかった。情けをかけることはなかった。鬼のような形相で切り刻んでいったのを、ラースは鮮明に覚えている。
自分は、あれと同じことができるのだろうか?
もう一度、剣に目を向けてみる。すると、剣を握る右手が震えていることに、ラースは気付いた。――人を殺せるかどうかなんて、すでに分かりきっていることだ。
震えている手をもう一方の手で押さえながら、ラースは自分に言い聞かせた。
「俺は……人を斬り殺したりなんかしない。人殺しになってたまるもんか……!」
――単に、怖気付いているだけなのかもしれない。自分が小心者なだけなのかもしれない。
だがそれでも、人殺しを拒むこの想いを蔑ろにするつもりなどない。誰に何と思われようと、絶対に人を斬り殺す目的で剣を抜いたりはしない――。
手に握っている物をゆっくりと鞘に納めながら、ラースは静かに決心した。
「……さてと。もうそろそろ行くか」
顔を上げてそう呟くと、ラースは再びリバームルに背を向けた。
求めている答えを見つけるために、具体的に何をすれば良いのか考えていない。しかし、それでもラースは、前へ進むことにためらいはしなかった。
立ち止まっていても、あの男の言った言葉の意味を知ることはできない。自ら答えを見つけるしか方法はないという考えが、ラースの心を急き立たせた。そして、願わくば血を見ることなく答えを見つけることができればと、ラースは淡い期待を抱いた。
だが、そのような楽観的な考え方がまかり通るほど、世の中は都合良くできてはいない。ラースの母のように理不尽に命を落とす善もいれば、欲望のままに殺戮を繰り返す悪も必ず存在するのである。そんな救いようのない悪と、ラースは旅をしていく中で対峙することとなる。そして、黒マントの男が口にした言葉の意味を反芻する。
正しいと信じた決断が間違っていることがある。時には道を踏み外す決断にもなり得ると、旅路の中で思い知らされることになろうとは、今のラースは思いもしなかったことだろう。それを知る由もなく――微風の吹く静かな夜空の中、ラースは果てしない旅路を歩み始めた。この物語の幕開けとも言える、彼の最初の一歩だった。
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