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Walk Hand in Hand  作者: 阿瀬 ままれ
第六章 人を殺さずして守れないもの
35/66

三※




 * * *




 城下町の大通りの道中にある噴水広場から左に曲がり、少し道なりに進んだ先に、一際高いビルがそびえ立っている。最先端の医療技術が導入された、アルテリア帝国が誇る世界有数の病院だ。負傷したバルドロス兵達がここで治療を受けていると聞きつけ、カーツ国王を乗せた馬車は病院の玄関前で静かに停止した。

 カーツ国王が馬車の窓から身を乗り出し、病院を見上げる。時刻は深夜を回り、窓の光がほとんど消えてしまっていたが、カーツ国王の意思が変わることはない。馬車を操縦させていたアルテリア兵に、軽傷のバルドロス兵を呼び戻すよう命令すると、カーツ国王は馬車の椅子にどかりと腰を下ろし、頬杖を突いてアルテリア兵が戻って来るのを待った。


 十分後、アルテリア兵が三十人ほどのバルドロス兵を連れて戻って来た。患者を引き連れるという無茶な要求に、何人かの医師が必死に呼び止めようとしていたが、外に出てカーツ国王の姿を目にすると、王の命令であることを悟り、制止を諦めて病院の中へとぼとぼと引き返していった。

 空一面に黒雲が漂っていたので、カーツ国王が馬車から降りることはしなかった。再び窓から顔を覗かせ、集まったバルドロス兵達を見渡してみると、まだクリード騎士団長と研究員の男の姿が見えないことに気付いた。

 バルドロス兵の一人に問い質すと、どうやらクリード騎士団長と研究員の男は受けた傷が深く、まだ意識を取り戻していないとのことだった。できるなら有能な二人を真っ先に連れ戻したかったが、それも叶わないことを知ると、カーツ国王は苛立って舌打ちをこぼしながら顔を引っ込めた。


「あの……カーツ殿。本日は天候も優れませんので、アルテリア城で一夜を明かした方が賢明かと……」


 窓の外からおずおずと物申すアルテリア兵に対し、カーツ国王は胸ぐらを掴んで怒鳴り声を上げた。


「貴様、忌々しいクロム・マクシードの城に、この我輩を長居させるつもりか? 無実の判決が下った以上、我輩がアルテリア帝国に滞在する理由などないわ」


 アルテリア兵が怯えた様子で首を振るのを目にするなり、カーツ国王は鼻を鳴らしてアルテリア兵を乱暴に突き放した。咳き込む暇も与えず、カーツ国王はアルテリア兵に再び馬車を走らせるよう命令し、戻ったバルドロス兵にはその周囲を警備するよう指示した。


 小雨が降りだし、もうじき土砂降りになりそうな夜空の下、馬車は再び走り出した。アルテリア兵のみならず、バルドロス兵達も無理に動いて傷口を広げるような真似はしたくなかったが、主であるカーツ国王の命令に逆らうことは許されなかった。

 そんな騎士達の不満などつゆ知らず、カーツ国王は馬車の中で一人、不敵な笑みを浮かべていた。帝国会議が何事もなく終わった今、カーツ国王は既に次の計画を練り始めていた。


 ――今回の戦争は決してただでは済まなかったが、バルドロス帝国が滅んだわけではない。『ディアナ』をバルドロス帝国の手中に収める計画の振り出しに戻ったまでのことだ。

 これから先、アルテリア帝国は総力を挙げて『ディアナ』を保護することだろう。研究員が作り上げた装置は破壊されて使えなくなってしまったが、まだ他に手はある。こういったときのために、予めアルテリア城にもバルドロス帝国の手先を何人か忍ばせていることを、クロム・マクシードはまだ知らないのだ。力任せな手に走らずとも、その手先と、魔法に長けている研究員の男を使えば、『ディアナ』を拉致する好機はいくらでも作ることができる。


「そして、『ディアナ』の力を手にしたその時こそが、貴様の滅ぶ番だ、クロム・マクシードよ……」


 底知れぬ野望を胸に抱きながら、カーツ国王は静かに呟いた。そんなカーツ国王の度肝を抜くほどの怒鳴り声が響き渡ったのは、それから間もなくのほどだった。


「カーツ・クルエル・バルドロス――!」


 降り出した雨の音を掻き消すほどの怒鳴り声は、カーツ国王のみならず、護衛の騎士達をも仰天させた。馬車を止め、声のした後方を一同が振り返ると、剣を腰につけた一人の青年が立っているのが見えた。


「あいつ、ラース・オルディオだ……!」


 バルドロス帝国の騎士達は、怒鳴り声を上げた青年を指差しながらざわつき始めた。バルドロス帝国が自ら指名手配したその男の顔を忘れるはずがなかった。


「どこの無礼者かと思えば。兄弟揃って往生際の悪い奴らよ……」


 馬車から降りることはせず、カーツ国王は窓から顔だけを出して、皮肉めいた笑みを浮かべながら青年に怒鳴り返した。


「何の用だ? 今更悪足掻きしようが、法の下の判決は既に下った。我輩を裁くことは不可能なのだ――分かったらとっとと失せるがよい!」


 カーツ国王の言葉を聞き、青年――ラース・オルディオは改めて認識した。この男を裁くには、命を絶つしか方法がないのだと。そして、最後の自問自答を始めた――誰かの命を奪うことが、本当に自分にできるのか?

 良心が罪という名の沼に浸っているようだった。今、剣を引き抜いて一歩でも前に進めば、底なしの沼に沈み込み、もう二度と後戻りができないような気がした。今ならまだ引き返せると、懸命にせき止める自分自身の声が脳裏に響き渡り、ラースは苦悩のあまりぎゅっと目を瞑った。

 だが、長い葛藤の末、ラースはその制止を振り払った。カーツ・クルエル・バルドロスをこのまま野放しにしておけば、より多くの命を奪われかねない。人々を守るには、誰かがこの男の息の根を止めるしかないのだ。そんな時に、罪がどうこうなどと言っていられるはずがないだろう?

 意を決し、ラースは静かに目を開いた。もう、底なし沼に足を踏み入れることに躊躇いはなかった。右手で腰の剣を引き抜き、冷酷な目をカーツ国王に向け、ラースはゆっくりと歩き始めた。


「な、何の真似だ、貴様……?」


 ラースから向けられた目を見て、カーツ国王もようやく、ラースのただならぬ様子を察した。カーツ国王が命令する前に、護衛のバルドロス兵達がすぐさまラースを囲った。


「貴様、国王様に盾突くつもりか! これ以上我々の邪魔をすれば、貴様は死刑どころでは済まさんぞ!」


 剣を突き付けて脅し文句を投げるバルドロス兵だったが、生半可な言葉一つでラースの決意が揺らぐことはなかった。


「それでもいい。誰かがあの男を殺さなければ、世界に平穏は訪れない。惨劇を止めるためなら、俺が打ち首に遭うくらい安いもんだ」


 動揺を隠し切れずにいるバルドロス兵に対し、ラースは脅すように言い放った。


「邪魔をするな。立ち塞がるなら、てめえらも一緒に殺してやる」


 ラースが剣を握り直し、バルドロス兵達にずんずんと歩み寄る。殺意に満ちた表情で剣を振り上げるラースに対し、バルドロス兵達はすぐに身構えることができなかった。

 十五年前の戦争から現在まで命を奪う側だったバルドロス兵達は、命を懸ける覚悟を一度も持ったことがなかった。故に、今まさに殺し合いが始まろうとしている現実をすぐに受け入れることができなかったのだ。


「ハッタリだ……そうだろ?」


 震えた声で呟くバルドロス兵だったが、ラースはそんな悠長な言葉に耳を貸さなかった。剣を振り払って力強く相手の剣を弾き飛ばし、そして、無防備になったバルドロス兵の脇腹を目掛けて剣を振り切った。


「ううううっ! うううーっ!」


 ぼとぼとと脇腹から(はらわた)がこぼれ落ち、バルドロス兵は痛々しい呻き声を上げながら転げ回った。降り注ぐ大雨の中、血と胃液がバルドロス兵の引き裂かれた脇腹からどっと溢れ出し、ラースや近くにいた兵の身体にびちゃびちゃと飛び散った。

 こびりついた血を拭うことなく、ラースは殺意に満ちた目を他のバルドロス兵に向ける。歯向かったら殺される恐怖に震え、バルドロス兵達はへっぴり腰になりながら後退りした。雨水と血で濡れた剣を一振りし、ラースは再びバルドロス兵達に歩みを進める。


「うわああああっ! 来るなああああっ!」


 怯え切った声を上げながら、数人のバルドロス兵は追い払うように剣をぶんぶん振り回した。自身の剣でバルドロス兵の剣をいなすと、ラースはよろめいた隙を逃さず、バルドロス兵達の両腕を次々に斬り落とした。

 鮮血がほとばしると共に、バルドロス兵達の悲鳴が辺りにこだました。斬り落とされた両腕が宙を舞い、地面に生々しく転げ回るのを目の当たりにし、まだ戦っていないバルドロス兵は恐怖のあまり立ち竦み、中には耐え切れず嘔吐する者もいた。


「何をしている! 早くその男を止めろ! 殺せ!」


 戦意を失いかけていたバルドロス兵達に追い打ちをかけるように、馬車の中からカーツ国王が怒声を飛ばした。


「貴様ら、我輩の命令を聞けぬというのか? 逆らえば我輩の手で貴様らを葬ってやるぞ!」


 すぐにでも逃げ出したかったが、いよいよ八方塞がりとなった。ラースに歯向かえば斬り殺される。逃げだせばカーツ国王に殺される。どちらに転んでも殺されてしまう絶望的な状況に、何人かの騎士は声にならない声を上げて発狂した。


 雨の勢いがさらに強くなっていったが、足元は飛散した鮮血で赤一色に染まったままだった。ラースが容赦なくバルドロス兵の腹を裂き、首を裂き、手足を斬り落としていき、その場は血飛沫に呑まれ阿鼻叫喚の渦と化す。そんな地獄絵図の中で、一人のバルドロス兵が呆然と立ち尽くしていた。

 彼は、十五年前にバルドロス帝国騎士団に配属しておらず、最近配属したばかりの新米兵だった。クレスと同じように、世界を良い方向に変えるんだという決意を胸に、騎士になることを望んだ。だが、配属先に選んだバルドロス帝国が、世界平和ではなく世界征服を目論んでいたことを、配属したばかりの頃の彼は知らなかった。

 国王や騎士団長にどんなに非道極まりない命令を受けても、逆らうことは許されない。苦汁をなめる思いで彼は命令に従った。できるだけ人道から外れないよう、自ら直接手を出さない城門の見張りを志願したりしたのは、彼なりの細やかな抵抗だった。直属の上司が城下町に住む女性になりふり構わずセクハラをし、それをいさめて上司の反感を買い暴力を振るわれても、彼が夢を諦めることはなかった。周囲の卑劣な言動を耐え抜いた先に、いつか必ず自分が信じた正義が訪れると信じていた。


 ふと、周囲の気配がほとんどなくなったことに気付き、新人の騎士は辺りを見渡した。直属の上司含め、他のバルドロス兵は全員、止めどなく血を流しながら地べたに倒れていた。あちこちに千切れた手足が転がり、腹や首を掻っ切られた何人かの兵は目を見開いたまま既に息絶えていた。

 そんな死傷した兵の山の上に、ラースは衣服を返り血で真っ赤にしながら立っていた。最後の一人となった新人の騎士に血塗れの剣を突き付け、狂気じみた目を向けながら早足で詰め寄ってくる。


「畜生……」


 ラースが剣を振り上げる刹那、新人の騎士は悔し涙を零しながら、唸るように呟いた。


「死んでも死にきれない……。まだ騎士として何も成し遂げてないのに……畜生!」


 叫び声を上げながら襲い掛かるも、新人の騎士の攻撃がラースに通用することはなかった。新人の騎士が振り払った剣を自身の剣で弾き飛ばすと、ラースは続けざまに新人の騎士の脳天目掛けて剣を振り下ろした。兜ごとパクリと開いた頭から血と脳味噌が溢れ出し、新人の騎士は膝から崩れ落ちる間もなく力尽きた。


 護衛のバルドロス兵を全員倒したところで、ラースはぜいぜいと息を切らしながら周囲を見渡した。元凶であるカーツ国王をこの手で殺めていない以上、まだ立ち止まるわけにはいかなかった。先程まで馬車に乗っていたことを思い出し、ラースはすぐ近くに止められている馬車の方へ小走りで向かった。

 馬車の扉をこじ開けたが、そこにカーツ国王の姿はなかった。周囲を見渡してみると、馬車の手綱から馬が切り離されており、その近くでアルテリア兵一人が喉元を刺し殺されて倒れていることに気付いた。

 おそらくは、先程までこのアルテリア兵に馬車を操縦させていたが、護衛のバルドロス兵達に勝算がないことを悟った途端、馬を強奪して一人だけ逃走したのだろう。急がなければと自分に言い聞かせ、ラースは城下町の正門へと走り出した。


 水溜まりを踏み締めるその足取りは重く。沼の深淵、後戻りのできない所へと沈んでいく。目的を果たした後、自分はどんな末路を迎えるのだろうとラースは想像しようとしたが、すぐにそれを止めた。――後ろめたく思うくらいなら、後先のことは考えない方がいいのだろう。バルドロス国王(あの男)を殺すために、躊躇いなどという感情は捨て去るべきだ。

 ラースは、リバームルで会った黒マントの男のことを思い出した。荒くれ者達を斬るとき、黒マントの男は容赦しなかった。情けをかけることはなかった。人を殺す決断をした今なら、あの男が言っていたことも理解できる――世界の平穏を取り戻すために、例え人殺しになろうと、バルドロス国王(あの男)だけは確実に仕留めなければならない。


 しばらく道なりに進んだところで、ラースはようやく城下町の正門に辿り着いた。馬を奪われたので、もしかしたら逃げ切られるかもしれないとラースは懸念していたが、正門の前にいるカーツ国王を目撃し、どうにか間に合ったことに安堵した。


「愚図愚図するな! さっさと門を開けろ!」


 カーツ国王は馬に跨ったまま、正門にいた見張り兵に怒号を飛ばしていた。見張り兵はカーツ国王が着ているローブにこびりついた血が気がかりな様子だったが、カーツ国王への口答えは許されなかった。見張り兵が紐で結ばれたローラーを回すことで門が上へと引き上げられ、正門は今まさにカーツ国王の逃げ道を開けようとしていた。

 カーツ国王も内心慌てていたのだろう、追手が気になり後ろを振り返ったところで、ようやくラースの存在に気付いた。これ以上は待てないと判断したのか、カーツ国王は顔中汗まみれにしながら馬から飛び降り、まだ胸の辺りしか開いていない正門を四つ這いになって無理やり突破した。


「門を閉めろ! その不届き者を捕らえろ!」


 立て続けに命令するので何事かと思ったが、大通りの方を振り向いてラースの姿を目の当たりにし、見張り兵は事態が只事ではないことを理解した。ラースの衣服や手にしている剣は、今や真っ赤なシャワーでも浴びたかのように血の色で染まっていた。その姿を見るだけでも、ラースが道中で何らかの殺傷を行ったことは容易に想像がついた。


「ラース殿、何があったのです! 返答次第では、あなたを今すぐにでも拘束します!」


 正門のローラーから手を放し、切迫した表情で問い詰める見張り兵に対し、ラースは正直に答えた。


「人を殺した。あの男を追っている途中、立ち塞がってきた護衛のバルドロス兵を斬り倒し、そのうちの何人かを殺した」


 息を呑む見張り兵に対し、ラースは言葉を続けた。


「後でどんな裁きを受けることになっても構わない。だけど、これ以上犠牲を増やさないためにも、あの男だけは絶対に殺さなければならない。そこを通してくれ」


 歩み寄ってくるラースに対し、見張り兵は恐怖心を覚えながらも、首を振って言った。


「できません。殺人犯のあなたを、これ以上野放しにするわけにはいきません!」

「通してくれ――!」


 もう一度懇願するように叫んだが、見張り兵は聞く耳を持たなかった。見張り兵が飛びかかって制止しようとしてきたので、ラースはそれを振り払い、見張り兵の顎に蹴りの一撃を見舞った。見張り兵はもんどりを打って転がり、気絶して動かなくなった。

 ラースがすぐさま正門の方に目を向けると、正門は徐々に引き下げられ、既に膝の辺りまで閉じかかっていた。また自分で門を引き上げるのもいいが、そうしている間にカーツ国王がどこに逃げるか分かったものではない。正門が閉じ切ってしまう前に、ラースはスライディングをして滑り込み、正門の僅かな隙間を通り抜けた。


 正門が閉じる振動と共に立ち上がると、ずぶ濡れの草原の中、カーツ国王はラースの目と鼻の先にいた。頼み綱だった馬を手放してしまったからか、ラースがまだ追ってきていることに気付くと、カーツ国王は蒼白な顔のまま愕然とした。


「く、来るな! 貴様、こんな真似が許されると思っているのか!」


 徐々に詰め寄ってくるラースに対し、カーツ国王は後退りをしながら叫び声を上げた。


「構わねえさ。こうでもしねえと、あんたの野望を止めることができないんだろ?」


 微塵も躊躇を見せないラースに、カーツ国王は恐怖のあまり尻餅をつきながら言った。


「待て! 我輩は国王なのだ――貴様に望みのものをくれてやろうではないか! 何が望みか、申してみよ!」


 ラースは口を閉ざしたまま、駆け出してカーツ国王との距離を一気に詰めた。慌ててカーツ国王が逃げ出そうとするも、一足早くラースに背中を蹴飛ばされ、カーツ国王は地面に思い切り叩きつけられてしまう。


「……俺が望むのは、皆が平穏に生きられる世界だ」


 呻き声をあげてうずくまるカーツ国王の首元に剣先を向けながら、ラースは静かに口を開く。


「理不尽に怯える必要のない……誰も傷つくことのない、優しい世界……。それを創るためにも……カーツ・クルエル・バルドロス、俺はあんたを殺す……!」

「止めろ!」


 カーツ国王が叫ぶも、ラースがそれを聞き入れることはない。敢然たる決意は無慈悲なる殺意へと変わり、悪を屠らんと牙を剥くその悍ましい形相に、カーツ国王は竦み上がり、とうとう逃げ出すことすらままならなくなる。

 後がない状況で、カーツ国王は懐に隠していたナイフを取り出し、不意にラースの喉元を目掛けて突き出した。しかし、先程馬車の近くでアルテリア兵の死体が転がっていたのを目撃していたラースにとって、その不意打ちは容易に予想がつくものだった。身を反らして攻撃を避けると、ラースは続けざまに剣を振り上げ、カーツ国王が両手で握っているナイフを指ごと弾き飛ばした。

 目論見に反する形で突如襲い掛かる激痛に、カーツ国王は言葉にならない叫び声を上げてのたうち回った。切れ口から血を撒き散らす両腕を蹴飛ばして跳ね除けると、ラースはカーツ国王の胸を踏みつけて逃げられないようにし、改めて首元に剣を突き付けた。


「お願いだ……殺さないで……」


 カーツ国王の心はとうに弱り切っていた。醜い髭面にいつもの傲慢さは抜け落ち、怯え切った表情でとめどなく涙を零しながら、震え声でラースに何度も懇願した。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……」


 ラースは目を閉じ、鼻で一息ついた。自らの決意を改めるように。何を言われても、やることはもう決まっている――。

 静かに目を開くと、ラースは突き付けていた剣をゆっくりと持ち上げ、そして、カーツ国王の首を力強く突き刺した。

 鮮血で視界が覆われても、ラースは一切瞬きをしなかった。カーツ国王がどれだけ悶え苦しもうとも、ラースは剣を突き刺す力を緩めようとしなかった。足をじたばたさせ、指のない手で必死に剣を引き離そうとカーツ国王はもがき続けたが、首を刺し貫かれてしまってはもう手遅れだった。次第にもがく体力もなくなり、ラースの剣から血塗れの手が力なく離れ、カーツ国王はとうとう目を見開いたまま微動だにしなくなった。


 抵抗が完全に止んだところで、ラースはカーツ国王が絶命したことを悟った。首から剣を引き抜いて足を退け、一切動かないカーツ国王の死体を見下ろすと、ラースはようやく目的の達成を実感した。

 ――これで、バルドロス帝国の野望は潰えた。悪の支配から、世界の人々を守ることができたんだ……。


「本当にそうか?」


 再び、脳裏から自分自身の声が聞こえてきた気がして、ラースははっと息を呑んだ。

 見上げれば、渦巻いた気味の悪い濁り空が、雷と共に土砂降りの雨を降らしていた。だが、いくら雨粒が肌を打とうが、体中にこびりついた鮮血が落ちることはなかった。沼のような血溜まりが流れ去ることはなかった。幾多もの返り血で染まり上がった両手を見つめながら、ラースは自身に問いかけた――自分がやったことは、本当に正義の行いだったのか?


「お前は何も救ってなんかいない。カーツ・クルエル・バ(この男)ルドロスと同じように、多くの人の命を奪っていっただけだ」


 脳裏に響く自分自身の声を頑なに否定しようと、ラースは両手で頭を抱えながら首を振った。しかし、いくら首を振っても、「違う」と何度も口にしても、その声を完全に否定することはできなかった。

 ――もし、自分の行いが正義のものだというなら、この張り裂けるような胸の痛みは何だ?

 煩悶するラースを我に返らせたのは、不意に聞こえた一人の仲間の呼び声だった。


「ラースさん……!」


 声のした正門の方を振り返ると、いつの間にか正門を潜り抜けてきたセラが立っていた。白のワンピースをずぶ濡れにし、それでも全速力で走ってきたのだろうか、サンダルを脱ぎ捨て、踏みつけた砂利と血で素足を汚しながら、ぜいぜいと肩で息をしていた。


「セラ――」


 すぐ誰かに追いつかれるはずはない、追って来れるにしても意識が戻った兄くらいだろうと高を括っていただけに、まさかセラが現れるとは思わず、ラースは唖然とした。

 しかし、側まで近寄ってきても、セラが次に口を開くことはなかった。目の前の無残な光景――カーツ国王の死に様に気を取られていたからだった。

 道中で転がっていたバルドロス兵の死体も当然目撃したことだろう。そして、血塗れになって剣を握るラースを目の当たりにして、これらの殺傷は全てラースの仕業なのだとセラは理解した。その瞬間、水浸しになってもなおはっきりと見えるほどの大粒の涙が、セラの瞳からぽろぽろと零れ落ちていった。その悲哀に満ちた表情を目にしたとき、ふと、ノアールの森でセラと交わした言葉がラースの頭をよぎった。


 ――ラースさん……大丈夫ですよね? 人を斬ったりなんか、しませんよね……?

 ――考えすぎだ。俺がそんな馬鹿げたこと、するわけないだろ?


「ごめん……」


 口から自然と出た言葉だった。それと同時に、今もなお感じる胸の痛みの正体を理解した。

 心から信頼してくれた仲間達を裏切ったこと。自分が人を殺したという悲しみを仲間達に背負わせたこと。

 死罪になっても構わないと無下にした自分の命が自分だけのものではないことを、ラースは今になって思い知った。きっと、自分が殺した者達にも同じことが言えただろう。

 法だけでは収まりきらない罪の重さを理解した途端、ラースもまた涙が止まらなくなった。

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