二
ベッドから上半身を起こし、青年は茶色の髪を掻きながら周囲を見渡す。すると、灰色の壁と天井、傷んだフローリングでできた質素な部屋にいるのが分かった。
さらに言うと、その空間にはベッドとクローゼットとデスクしか置かれてはいない。奥には洗面台、トイレ、バスルームが設備されているだけで、他には何もない。だが、それこそが青年の願っていたものであって、周囲を一通り見渡すと青年は一つ安堵の息を吐いた。
何故ならこの部屋こそが、自分が今居候させてもらっている部屋だから。この見馴れた光景を目にすると、あの悪夢のような惨劇から目覚めたのだと、青年は少しずつ実感できた。
ちゅんちゅんと、小鳥のさえずりが聞こえてくる。部屋の玄関のドアに目を向けると、その隙間から外の光が射し込んで来ているのが分かる。その事から、時間を確認せずとも、今が朝だと言うことは何となく想像ついた。
ふと、左胸の辺りに違和感を覚え、青年は自身の左胸に右手を添えた。すると、心臓が激しく鼓動を打っているのが、右手を通して伝わってきた。
――さっきの夢で、心が動揺したのか。無理もないなと、青年は鼻でため息をつく。そして、揺れた心をどのようにして落ち着かせようかと、青年は黙考した。
「……外にでも出るとするか」
そう呟くなり、青年はベッドから降りると、クローゼットを開けて上着を一枚取り出し、それを羽織り始めた。日に当たりながら、ぶらぶらと外をほっつき歩くことにしたのだ。それが、青年のいつものストレス発散法だった。落ち着きがないと言われても過言ではないが――まぁ決めたことだと、青年は上着のボタンを軽く留め、玄関に向かった。
速度を落とさずに、玄関に置いてある自分の靴に足を突っ込ませ、踵を整える。そして、玄関のドアノブを掴み――。
「ラース、大変だよ!」
不意に、何者かの手によってドアが勢い良く押し開かれた。ドアは見事に青年の顔面に直撃し、青年は痛みで顔を手で覆う。
激痛に耐えながら前方を確認してみると、玄関の前にはキャップ帽を被った小柄な少年が立っていた。
「……何しやがる、マルク」
その少年の姿を見るなり、青年は少年を怒鳴ることなく怒った。
「あっ……ごめん、ラース」
青年が痛がっているのに今頃気づくと、マルクと呼ばれた少年は謝罪の言葉と共に頭を下げた。そんな少年マルクを見て、青年は「朝っぱらから威勢のよさは一丁前だな……」と心の中で毒突いた。
「何だよ、こんな朝に」
大分痛みが治ったところで、青年は改めて、マルクに用件を尋ねる。
「え? あ……そうなんだよ! 大変なんだよ!」
「だ―か―ら―、何が大変だって言ってんの」
切迫した様子で、マルクが外の方を指差しながら叫ぶ。
「よそ者のオジサンが、街の酒場で暴れてるんだよ! ついには店の人にまで手を出して……」
青年は最初の二十文字位で言いたいことを理解し、深くため息をついた。
「つまり、また厄介事かよ。……悪いけど、今日は遠慮していいか? 何か目覚めが悪くて……」
「もうっ! そんなこと言わないでよ! この街で頼れるのはラース以外にいないんだよ!」
ラースと呼ばれた青年は、それを聞いて再び、深いため息をつく。
自分で蒔いた種なのだから、何も言い返せない。外を歩いているとき、誰かの喧嘩沙汰とか、バッグを落としたとか、何かしら困っている街の人を度々見かける。ラースはその都度、他人の世話を焼いてきたのだ。
今となっては、街の人達はラースのことを兄貴分のように慕い、そして頼り切るようになってしまっていた。今、こうして早朝から子供にまで助っ人を頼まれるようになってしまったのは、そのお節介の成れの果てだった。
「ほら、みんな何もできなくて困ってるんだから。早く行こう!」
マルクが一方的に、あたかも当然のように、ラースの腕を掴み取りながら促す。
「何もできないって……んなことはねーだろ」
「いいから! 早く!」
マルクはラースを部屋から強引に引っ張り出し、酒場の方へと急がせた。
ラースは少年マルクに引っ張られながら、石レンガの地面を駆け抜けた。――今頃、この辺をぶらついていたはずだったというのに。
この街は通りが広く造られているため、早朝でも簡単に日の光に照らされる。その仄かな光を浴びながら、この広々とした通りを歩くのが、ラースは好きだった。今日も小鳥達が街の朝を彩る中、散歩の時間を満喫していた……はずだったのに。
「ホンット、目覚めの悪い朝だな……」
今の状況となっては、ラースはただ落胆することしかできなかった。
「あった、あそこだよラース!」
マルクが視線の先を指差しながら叫ぶ。
「酒場の所くらい俺でも分かるっての……」
それに対し、ラースはため息混じりに悪態ついた。
着いてみると、酒場の前にはかなりの人垣ができていた。
恐らくこの先で、マルクの言うオジサンが暴れているのだろう――そうラースが考えていたとき、ふと、街の人の一人がラースの存在に気付く。
「あっ、ラースが来たぞ!」
その声を境に、街の人全員がラースの方を振り返る。
「ラース兄ちゃん!」
「ラース、助けてやってくれ!」
「ラースちゃん、お願い!」
振り返るや否や、街の人達は一斉に、ラースに助けを求め始めた。まるで正義のヒーローでもあるかのような扱いに、ラースは面食らってしまう。
「いっ……ちょっと、みんな止めろって! そんなガラじゃねぇし」
「何言ってんの! 今更そんなこと言わないの!」
しかしラースの意思とは対照的に、マルクはなおも当たり前のように、ラースの背中を強く叩いて強要する。
「ハァ……散々な散歩になったな」
心底深いため息を吐くと、ラースは渋々その人垣を掻き分けていった。
人垣の中に入ると、荒くれ者が酒場の店主の胸ぐらを掴んでいた。
「あぁ? 何だテメェ」
ラースの存在に気付くなり、荒くれ者がラースを睨みつける。
その荒くれ者の体は、ただ筋肉質という言葉に収まらないほどに、はち切れんばかりに溢れていた。男の身にまとうタンクトップからも胸の筋が見え、その筋肉の厚みが充分に伝わってくる。
――その鈍器のような拳で、おじさんを殴ったと言うのか?
大男に対する怒りが込み上がり、ラースもまたその大男を睨み返した。
「……フン」
一つ鼻で笑うと、大男はぼろぼろの酒場の店主をラースに向かって放り投げた。ラースがそれを真正面から受け止める。
「……大丈夫かよ? おじさん!」
店主の体はあざだらけで、とても自力で立っていられないような状態だった。
「ら、ラース……すまんな、迷惑かけて……」
「あんなのに絡まれちまって、アンタも色々と大変だな」
ラースの言葉を聞き、酒場の店主は鼻で笑った。
「せっかくこのバーゴ様がここのクソマジぃ酒を飲んでやってんのに、そのジジィ、ケチケチしてもう酒はないとか言い出したんだ」
バーゴと名乗る大男は、にやにやと不敵な笑みを浮かべながら語る。
「……誰か、おじさんを持っといてくれ」
ラースは大男から目を逸らさずに、酒場の店主を後ろの人だかりに預けた。
「バーゴっつったっけか? アンタ、自分の味覚の悪さを人のせいにすんじゃねーよ。名前すらセンスねぇってのに、自分のセンスを疑わないなんて、そのすっからかんの脳みそじゃ到底理解できそうにありませんってか?」
「ホォ……言ってくれんじゃねぇか」
大男のバーゴが、大きな足で地鳴らしをしながら、ラースの方に詰め寄る。目の前まで来ると、バーゴは上から見下ろす形でラースを更に睨み付けた。
ラース自身、がたいはわりと良い方なのだが、バーゴの図体はその比ではなく、そんなラースでさえ小さく見えるほどだ。
「生意気な奴だ……テメェもそこのジジィみてぇになりたいようだなぁ?」
バーゴが額に血管を浮かべながら、拳を鳴らす。その一方で、ラースはバーゴを見上げる形になっていたが、その目は完全にバーゴを見下していた。
「御託はいいから。それよりアンタ、さっさとこの街を出てけよ。さっきから、みんなうんざりしてっからさ」
青い、蔑んだ目を逸らすことなく、ラースはバーゴに言い放つ。
「ほざけガキが! 粉々にしてやんよ!」
そう叫ぶと、バーゴは右拳をラースの顔面に向かって振るった。
「ラース、危ない!」
街の人達から悲鳴が飛ぶ。しかし、当の本人は全く焦りを募らせなかった。
ラースは上半身を右に動かすことで、バーゴの拳を易々と受け流した。続けざまに左手でバーゴの右腕を、右手でバーゴの胸ぐらを掴むと、ラースは自分よりも二回りほど大きいバーゴを背負い投げで投げ飛ばした。バーゴの巨大な図体は宙に浮き、地面にしたたかに叩きつけられた。
「おおっ、さすがラースだ!」
街の人達から、今度は歓喜の声が飛んだ。
「……まだやんのか?」
ラースは手を叩きながら、地面に手を付けているバーゴに言った。
バーゴは、ラースの一撃がかなり効いているようだったが、内心は黙ってはいられなかった。今そこにいる青年に自分が圧倒されているという事実を、バーゴは頭の中で頑として否定する。
「なめるなクソガキィ!」
叫び声と共に立ち上がると、バーゴは再びラースに殴りかかった。それを見るなり、ラースは一つ大きな舌打ちをこぼし、拳を前に出して構えた。
「野郎……まだ懲りねえか!」
左足を強く踏み込ませ、ラースはバーゴの腹に深く右拳を入れてめり込ませた。
バーゴが腹を押さえて悶える隙を見逃さず、ラースはすぐさま体勢を整える。そして、前屈みになっているバーゴの顔面に回し蹴りを当てた。見事に決まり、巨大な図体は豪快に吹っ飛び、崩れ落ちた。
「もう気は済んだか? 二度と俺らの前に姿を現すな!」
地面に倒れ込んでいるバーゴに、ラースは指を差して叫んだ。
「くそっ……お、覚えてやがれ……!」
バーゴはラースから逃げるように、身体をふらつかせながら去って行った。
「やったやった! さすがラースだ!」
「ありがとうラース! 追い払ってくれて!」
「ラース兄ちゃんカッコいい!」
バーゴがいなくなると、今まで輪になっていた街の人達が一斉に、ラースのもとに集まってきた。
「あーもー! そんな毎回毎回寄ってかかんなくていいって!」
「いや、そういう僕らは毎回毎回ラースに助けてもらってるし」
ラースが叫ぶも、街の人達は言うことを聞いてくれそうにない。
「ラース、ちょっとは嬉しくないの?」
側にいるマルクの問いに対し、ラースは首を横に振った。
「いや、こういうのはほんとに勘弁だって。それに……」
「それに?」
ラースの表情が青ざめる。
「フェル婆さんが……」
ラースがそう口にしたときだった。
「コラァッ! ラース! アンタ、また暴れてたね!」
突如、響き渡る甲高い怒鳴り声。全員が声のする方を振り向くと、そこにはエプロンを着た老婆の姿が。
それを見たラースは、ため息をつきながら肩を落とした。
「……あーあー。また面倒なことになっちまったよ……」
その人物は顔に怒りを露にしながらこちらにやって来る。
「まぁまぁフェルマーさん、ラースは私達のために……」
「いいえ! そうやって甘やかすから、この子はまた同じことを繰り返すんです!」
街の人の一人がフォローするも、その人物の足が止まることはなかった。
「まぁ、口でどうこうなるような人じゃないよな……」
ぼそりと呟きながら、ラースはまた小さくため息を吐いた。
ラースも、このフェルマーという人物にだけは、あまり逆らうことができない。
フェルマーはこの街の宿屋を経営している人物で、ラース達が故郷からこの街に流れ着いた際、ラース達を快く受け入れ、無料で個室を提供してくれた人物でもある。つまり、ラース達にとってみれば、命の恩人なのだ。
ちなみに、『フェル婆さん』という呼び名は、ラース達が言いやすいからと勝手に省略したものである。
「まったく、人助けだからといっても殴ったり蹴ったりは駄目って言ったの、忘れたの? 朝の掃除もほったらかして……」
ラースのもとに来るなり、フェルマーがガミガミと説教を始める。そんなフェルマーに対し、ラースは取り敢えず落ち着かせようと試みた。
「まぁまぁ、フェル婆さん。もう歳なんだから。あんまりそうやって無茶すると体壊すぜ?」
額に血管を浮かべ、フェルマーはラースの脛辺りを蹴り飛ばした。
「いぃッた!」
「アンタがあたしを無茶させているんじゃないか! それに、そんなに歳をとっていません! あたしはまだまだ六十二よ!」
「六十二って、んなもん誰がどう考えたってババァ……」
フェルマーは、今度はラースの膝を横から蹴り飛ばした。
「あぐっ! 今、グギッて……」
「もう結構! アンタ今日朝食抜き! それと、今朝やってなかったフロントの掃除、あと皿洗い! きっちりやってもらいますからね。さあ来なさい!」
そう言い切ると、フェルマーはラースの耳を乱暴に摘まみ、宿屋の方へと引き返していった。
「痛い痛い痛い痛い! 止めろ! 引っ張るな! 自分で歩けるってー!」
宿屋の仕事をほったらかして、何かしら他人の世話を焼いて、フェルマーに毎度のごとく怒られる。その繰り返しが、彼――ラース・オルディオの日常だった。
いくら喚こうがフェルマーが手を離してくれることはないと悟り、ラースは抵抗を止めて肩を落とす。いつものようにため息をこぼしながら、ラースは徐々に近づいていく宿屋を見上げた。――くどくどと文句を並べるより、これからこなしていく仕事のことを考えている方が身のためだろう。この思考回路ももはや何回辿ったことか、ラースは思い返すのも億劫になった。
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