おとぎ話はハッピーエンドで終わるものだ。
壊れものにする様に頬にそっと触れて、顔を近付けて。もう少しで唇が触れる手前、よりもう少し前、鼻がぶつかりそうになって角度を変えるあたりで止める。
照明を絞った中、一条のスポットライトに照らされ眠る君。覆い被さるおれ。
――白雪姫の役だなんて感激です! 私頑張って演じますね!
君の無垢な笑顔が胸をえぐる。
多数決で他薦で決めた事だが、何て役をもらってしまったんだろう。めまいがする。気が遠くなりそうだった。
観客が今まさにおれ達二人に注目する山場だ、と気を抜けば君の頬を撫でてしまいそうな手を叱りつける。撫でたら社会的に終わる。
早く終われ。早く。
――三十秒はそのままで。
ひどい台本だ。顔を上げるきっかけにBGMを流すので、無音の中このままじっとしてろと言われてる。頑張れおれの腹筋と忍耐力。撫でたらダメ、キスなんてもってのほか。
おれは花の褥に身を横たえ、胸前で指を組んで目を閉じる君の顔をつくづくと眺めた。
目の前、伏せたまぶたが青い。アイシャドーで。ルージュも赤過ぎる。
派手な舞台化粧が初めての化粧だと言う君には、それが全く似合ってなかった。
作り物の長くてふっさふさのまつげも、間近で見ると笑えるくらい。可笑しい。
会場が暗い中照明を浴びて演じる役者が遠くの観客から見て映える化粧は、間近で見るとびっくりする出来なのだ。
君のなめらかな頬は温かくやわらかい。
触れるだけ。撫でたらアウト。頭の中で呟き続ける。
いつもリップでオレンジ色をしてるけど、今はキツい赤で縁取られた唇。小さくてぷっくりしてる。
ドーランって苦いんだよな、多分。自分の顔にぬりたくりはしても、口はちょっと避けてるから判らない。何にしろ化粧だからまずそうだ。苦味は自然界においては毒に通じる、らしい。
白雪姫が食べたリンゴもきっと苦かったのだろう。それとも姫や王子を誘うほど甘い毒だったのか。
君にキスしたら、甘いんだろうか。苦いんだろうか。
――王子さまのキスって女の子の憧れですよね~。
小さい頃の話ですけど、と君と他の部員は話していた。
……おれからのキスなんて、喜ばないだろうけど。
気付けば君の頬をするりと撫でて、顔を近付けていた。
清涼感あふれるBGMが心に刺さる。おまわりさんおれはここです! 誰でもいい、誰かおれを罰して!
よく見ると涙目のおれとちょっと顔の赤い白雪姫を、しかし観客は気付かなかった様だ。
カーテンコールで二人でつないだ手が赤かった事も、見えはしなかっただろう。赤いのは手の平だからな……。
体験入部前の部活紹介を兼ねた新歓レクリエーションは、表向き無事終わった。
急遽講堂に場所が変更になり、照明やら立ち位置決めやらという準備を一からやり直してバタバタした割には上々だ。
ただ、主役二人の心の内を抜かしてだが。
*
「ごめん!」
この後体験入部があるので、キャスト達は衣装のまま勧誘に向かうのだが、取り敢えず姫をさらって来た。どんより曇った空の下、冷たく湿った風吹きすさぶ屋上にだ。
今のおれの心境まんまだよ。まさに嵐の前って雰囲気だ。
運動部や文化部の勧誘で賑わいがここまで届くのがありがたい。無音とか怖すぎる。
「あの、先輩……ええと、キス、シーン、のこと……ですよね、それって」
君のしどろもどろな声に、腰から折った上体を戻さず頭だけで頷く。
「あの時、口に何か当たって……ちゅって」
耳をふさぎたい。逃げ出したい。
「あれ、先輩の手、ですよね……?」
「……そうです……」
人魚姫みたく泡になって消えたい。
取り敢えず、キスの瞬間彼女と自分の口の間に手を挟むだけの理性のカケラはあったようだ。自分の手の甲にリップ音付きでキスしちゃうくらいにはクラッシュした理性だったけどな!
泡になって消えたい。恥ずか死ぬ。
今回は部活紹介という事で尺が無くダイジェスト版だった為、その手を拭う暇がなくカーテンコールだったからつないだ彼女の手も移ったドーランで汚してしまった。
今も握った拳の内側は赤い。それが心を刺す。
真っ赤な嘘、という言葉がある。赤は明らかとか全くって意味があるんだとか。
お芝居の上での恋人役なのだから、あのキスは随分と大きな嘘だ。
「私、先輩と手の平越しにキスしちゃったんですね」
恥ずかしいな、と言う君の声は羞恥に染まっている。だが嫌悪はない。
笑っている様な響きがあって、うかがうように顔を上げると彼女はそっと微笑んでいた。
「王子さまは白雪姫に一目で恋に落ち、彼女に口付けさせて下さいと申し出ます。ダイジェスト版ではカットされてますけど、台本ではキスの前にセリフがありますよね」
彼女は右手を少し持ち上げた。
台本では、王子はひざまずいて姫の右手を取るのだ。
おれは誘われるままドキドキしながら彼女の手を取る。彼女はこの手を拭っただろうか。だとしたらまた赤く汚してしまった。
振り払われないので、台本と順番は前後するが、ひざまずき、頭を垂れる。
「『このように美しい方には初めて出会った。生きている間であればあなたに愛を請うていただろうに。せめて、口付けをする栄誉を賜ろう』」
キスしてもいいって事なのかなとかドキドキする気持ちを抑えて精一杯演技する。
王子さま。おれは今王子さま、と念じる。
「お芝居じゃなくても、私がお姫様じゃない普通の女の子でも、愛を請うてくれますか?」
のろのろと顔を上げると、大好きな子がはにかんだ笑みを浮かべている。
マジで? ねえ、マジで? 何なのこの展開。
ドッキリカメラか。カメラはどこだ公開処刑か。公開処刑が待ってるのか。
おまわりさんおれはここだ!
「……君が好きだ」
ギュッと握った手を、花の様に笑う君が握り返した。
「私もです、先輩。ねえ、知らないでしょう? 演劇部のみんなが、先輩の片想いに気付いてた事」
え、何、やっぱりドッキリカメラ? 公開処刑?
「私の片想いにも気付いてて、だから今回の演目はサプライズだったんですよ」
え。驚くおれに君の目がいたずらっぽく笑う。
「先輩がキスしてくれなかったら、私から行こうかなって思ったんですけど。先輩と手の平越しでもキス出来て良かったです」
聞いてない。何だ、両思いだったのか。しかも全員にバレてたのか! そんなサプライズまでセッティングされるほどじれったかったのか。
恥ずか死ねる。
「先輩演技上手いですけど、結構バレバレだったみたいです」
私は気付かなかったんですけど、と落ち込むおれの頭を嬉しげに彼女の空いた手が撫でる。
「ねえ先輩。続き、しましょうか」
続き? 顔を上げると、真っ赤な顔をした君がうろうろ視線をさまよわせながら頷く。
「みんなの筋書きでは、三十秒の間に先輩が痺れを切らしてキスをするか、耐え抜いたところで私からキスをする筈だったんです。手の平越しじゃなくて」
キュッと握った手を上に引っ張られるから、ひざまずいたままだったおれは立ち上がる。
ギュッと目をつぶる君に、マジで良いのとか訊かないよ?
顔を近付ける。耳まで真っ赤なかお、震えるまつげ、噛んだ唇。触れた手の平から熱と震えが伝わる。
鼻がぶつかる距離で、彼女が息を止めてる事に気付く。
ああ、無理だ。
ヘタレな自分をののしって、おれはかおを離し、彼女の頬に唇を寄せてから抱きしめる。
びく、と一瞬大きく震えた君が可愛い。愛しい。
「……先輩?」
羞恥に染まった声が心を揺さぶる。もったいない事したなあと思う。思うけど。
「ごめん、時間ちょうだい。おれにはまだキスは早かった」
ゆっくり、な。まだ時間はあるから。
その呟きに彼女が腕の中でもじもじと震えた。女の子って男の理性を何だと思ってるの。サンドバッグじゃないんだぜ。砂の城よりもろいんだぜ。
何とか色々をやり過ごし、新入生獲得に戻ったおれを誰か誉めて。
さて。付き合う事になったおれと彼女だが、翌日白雪姫と王子の屋上逢瀬という校内新聞の号外が掲示板に載って、しばらく校内では二人になるのを自粛せざるをえなくなるのだが……そんな事はこの時は知らなかった。
望遠レンズとか体験入部に必要なのか新聞部。何故そんなもので屋上を見た。ゴシップ記者なのか。
そんなわけでちゃんとしたキスは大分後になったけど、好きな子と両思いになれておれはとても幸せです。