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「寝ている今なら」
「……んん」
「きゃ!」
俺が意識を取り戻すと誰かが驚きの声を上げると同時にドスンという倒れる音が聞こえてきた。
気になって目を開けると一瞬日の光に目が眩む。
少し経つと目が慣れてきて声を上げた人物が見えてきた。
そこにいたのはひっくり返って尻餅をついている柚子姫だった。ひっくり返ったせいで着物がはだけて太ももの辺りまで素肌が露わになっていた。
柚子姫はすぐさま着物を直してまるでこっちが悪いかのごとく俺を睨み付けてくる。
なんで柚子姫がここにいるんだ? それに手に持っている筆はなんなんだろうか?
「痛っ!」
起き上がろうとすると全身に鋭い痛みが走る。
「ふふん。天罰ですね」
なぜか勝ち誇ったかのように微笑む柚子姫。
「あれっ? ここは……」
そこで俺は今さらながらここがおんぼろ長屋じゃないことに気が付く。
「ここはうちの屋敷です。あなたは一週間も昏睡状態だったんですよ」
と困惑する俺に柚子姫が説明してくれる。
「一週間……。まさかその間姫さんがめんどうを見てくれていたのか」
「いえ、下女が世話をしてわたしは世話なんて一切してませんよ」
柚子姫は何を言ってるのですかこの人はと言わんばかりに言う。
「そうか。じゃあ何で姫さんがここにいるんだ?」
世話をしないなら一国の姫が俺のところにやってきた理由がわからない。
「それに手に持ってる筆はなんなんだ?」
「……」
スッと目を逸らす柚子姫。
「まさか俺が寝ている間に顔にラクガキをしようとか考えてたのか?」
「そ、そんなことするわけないじゃないですか! わ、わわわたしは姫で大人の女ですよ! そんな子供染みたいたずらなんてしししません」
あからさまに動揺する柚子姫。案外わかりやすい性格だ。
しかしすぐに自分の失態に気が付いて咳払いをしてから初めて会った時の様な毅然とした態度を取る。
「んっん! それよりも姉上に感謝することですね」
「紫苑に……?」
なんで俺があいつに感謝する必要があるんだ? そもそも何で俺はこんな重症なんだ? どうも記憶が混濁しているみたいだ。
「ええ。大沼の屋敷で瀕死の重症を負っていたあなたを手当てするように指示したのは姉上ですから。姉上が助けなかったら今頃は死んでいたんですよ」
「大沼の屋敷……そうだ!」
思い出した。俺はまこちゃんを助けるために大沼の屋敷に潜入して結局……結局俺はまこちゃんを助けれなかったんだ。
「すぐにまこちゃんを――ぐっ!」
飛び起きようとすると再び激痛が俺を襲う。
「その身体で動こうなんて無茶です。まだしばらくは安静にしてないと駄目ですよ」
「それはできない。早くしないとまこちゃんが……」
「まこちゃん? 確かあなたと一緒に屋台をやっていたあの但馬の国の姫ですか」
「あれっ? まこちゃんが姫だって知ってたのか!」
「当然です。流民を受け入れるのだから間者ではないか身元を明らかにするのは当たり前のことです」
言われてみればその通りだ。でも腑に落ちないことがある。
「だったら何で流民として扱ってたんだ? 姫だって知ってたのならそれなりに対処できたんじゃないのか」
まこちゃんを国元へ帰せば但馬の国に恩を売ることだってできたはずだ。
「それは姉上が許しませんでした。わたしたちは但馬の国に恩を売る機会だと言ったのですがね。流民として受け入れるのだからあいつはただの流民だと言い張りましたから。姉上はあれで頑固ですから」
はぁとため息を吐く。
柚子姫の話を聞くと紫苑は意外にいいやつなのか?
いや、あいつのことだから蛇骨の国と但馬の国が同盟を結ばれると厄介だからそういう対応したかもしれない。
危ない危ない。危うく騙されるところだった。だが俺はもう騙されないからな。
「それで、あの彼女がどうかしたのです?」
「まこちゃんが蛇骨の国のまだらって野郎に誘拐されたんだよ! 同盟のために結婚させるとかなんとかほざきやがって。本人が望んでいない結婚をさせるなんて許せないことだろ」
「そうでしょうか?」
憤る俺に対して柚子姫は釈然としない顔をする。
「え?」
「だって一国の姫君の婚姻は人と人を結ぶのではなく国と国を結ぶものですから本人の意思なんて関係ないことです」
「じゃあ姫さんは国のために見ず知らずのやつや望んでいない相手と結婚しろって言われても納得できるのか?」
「はい」
と柚子姫は即答する。
「それが姉上のためになるのならわたしは喜んで嫁ぎます」
子供ながらの虚勢や意地とかではなく本心から答える柚子姫。
「……」
俺には理解できない。
時代が違うから? 価値観が違うから?
この世界では俺の考えが間違ってるのだろうか。
なら誰かのために自分を犠牲にするのが正しいのか?
それで本当に幸せになれるのか?
「ですが蛇骨の国と戦をしている間に蛇骨と但馬が同盟を結ぶのは厄介ですね」
「蛇骨の国と戦? どういうことだ」
俺が寝ている間に何があったんだ?
「まあ色々とあったんですよ。そのおかげで今は出陣の準備で忙しいですからね」
「そうかい。なら俺もうかうか休んでられないな。急いでまこちゃんを助けないと――な!」
俺は痛みを堪えて立ち上がる。幸い痛みさえ堪えれば動けなくはない。
「その身体で本当に行くのですか?」
「ああ」
「そうですか。まあこっちとしても但馬と同盟を結ばれると厄介なので止めはしませんけど」
「じゃあ世話になったな」
そう言って立ち去ろうとすると柚子姫に呼び止められる。
「言い忘れてましたが、蓮殿がそこの刀をあなたにと」
柚子姫が指差した方向には長さ八〇センチほどの打刀が立てかけられていた。
「蓮ちゃんが?」
「護身用にということらしいです。あとそんな格好で出歩かれたら困るので行くのならそこにある服に着替えといてくださいね」
と言って柚子姫は部屋を出ていってしまった。
言われてみれば俺の格好は上半身は包帯を巻いているだけで服を着ていなかった。
俺は柚子姫に感謝をしつつ着替える。
そしてふらふらとおぼつかない足取りで屋敷をあとにした。