第一景 ブリュッセル 五月八日
「わたしは、悔い改めに導くために、あななたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」(マタイによる福音書、第三節十一節)
星空を突くように尖塔を伸ばして、市庁舎が静かに大広場に佇んでいる。月明かりに照らされ柔らかな金色に輝くその雄姿を見る人の影は、今の時間は殆どない。荘厳かつ緻密なゴシック建築に囲まれたこの広場を支配しているのは、無音と、平穏と、硝煙の臭いだけだった。祭りの日を終えたブリュッセルの街は、静謐な時の流れにまどろんでいた。
大広場からほど遠くない場所に、鉄筋コンクリートの無個性な建物があった。駅舎だ。看板には、味気ない字体で「Bruselo」とある。あらゆる装飾を取り払い、機能性のみを重視した異様なこの現代建築にも、祭りの後の気だるい空気がとぐろを巻いていた。ガス灯の形をした電灯から、一つひとつ明かりが消えていく。冷たいホームの上に響くのは、二人分の靴の乾いた音だけ。闇の中に、蛍光色で書かれた「Polico」の文字が、陽炎のように揺らめいている。
二人の鉄道警察が、営業の終わったブリュッセル駅の最終点検をしていた。ホームには燃えかすやビール瓶が転がっていて、片付けるのにひと手間を要した。このホームの点検さえ済ませれば、仮眠室の柔らかいベッドに身体を横たえることができる。二人が最後の電灯に向かったときだ。前方のベンチの上で何かが蠢いた。
一人が懐中電灯で照らすと、ベンチの上で無精ひげの男がむくりと身体を起こし、強い光に手を翳した。片方の手にはコニャックが握られている。もう一人の警察は思わず鼻をつまんだ。
「おっさん、何でこんなところで寝ているんだ? 最終、逃したのか?」
男は乱れた髪の間からうつろな目を覗かせて答えた。
「いや、そうでは……ありません」
「じゃあ、ここで何をしているんだ?」
警察にそう問われて、男は徐ろに黄ばんだ歯を見せて、莞爾として笑った。
「……救世主を、待っているのです」
警察は闇の中で顔を見合わせ、お互いに肩をすくめる。
「おっさん、パスポート見せてくれるか? それともあれか、『かがみぐさ』か?」
「おい、この有様見て一般旅行者だと思うか? おっさん、ちょっと左肩見せてくれないか?」
ぼんやりと二人を見上げる男の袖を、警察は臭気に顔を歪めながらめくり、懐中電灯で照らした。
「ん?」警察は不満げな声をもらす。「……印がない。『かがみぐさ』じゃないな」
もう一人の警察は、念入りにハンカチで手を拭きながら言った。「ならおっさん、パス……」
同僚が人差指を立てて、彼の言葉を封じた。二人は無精ひげの男に背を向け、線路の先を怪訝な顔で睨んだ。耳鳴りではない。確かに、列車の警笛が聞こえる。無表情な単音が、途切れることなく鳴り続けている。
「おい、今の時間、通過列車の予定は?」
「ない。夜行列車はこの駅には停車しないからな」
「何だろう。遅延列車か?」
二人が言葉を交わす間に、闇の中に現れた二つの前照灯が、警笛の音量に合わせて次第に大きくなってきた。二人が唖然と立ち尽くす中、けたたましい警笛とともに、十連の客車を牽引した漆黒の電気機関車が、明かりのないブリュッセル駅へ低速で入構してきた。車体に浮かぶのは、二人の背中にあるのと同じ「Polico」の文字。
「なあ、おかしくないか……?」
「運転士に事情を訊いてみるか」
二人は、無精ひげの男に職質をかけていたことを忘れ、急ぎ足で階段を駆け上がり、列車の入場してきたホームへ向かった。その直後のことだ。夜空を彩った花火よりもずっと鮮やかな閃光が彼らの足元を襲った。黄色い光のひらめき。耳を聾する轟音。陸橋の橋桁は崩れ落ち、機関車の側壁が舞い上がり、二人の悲鳴は爆音でかき消された。後には白煙が、静寂に入った鋭い傷跡を覆い隠すように立ち上っていった。




