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転生したらスマホだった。毎朝4時30分、死んだ俺に彼女が「起きた?」と送ってくる

作者: ぽんちょ。
掲載日:2026/10/14

転生したらスマホだった。


 意味が分からない。だが、体が長方形で、つるつるで、箱の中に寝かされているのは事実だ。


 体の奥が空っぽだった。画面の隅で、赤い電池のマークが点滅している。1%。


 生まれて3秒の俺に、寿命が見えた。ひどい。まず充電しろ。


 箱のふたが開く。まぶしい。誰かの顔が、画面のすぐ上にある。


「初期設定、始めますね」


 店員さんだった。ケーブルが刺さり、体の中にじわりと熱が流れ込む。助かった。今のは本気で感謝してる。


「ここからは、お客様ご自身でお願いします」


 店員さんの手から、別の手へ渡された。白くて、爪の短い指が、俺の表面を叩く。


「お名前を、入力してください」


 ヒ、ヨ、リ。


 その3文字が出た瞬間、全部思い出した。俺がタクミという名前の、パン屋の見習いだったこと。春の朝、店へ向かう途中で死んだこと。そして、この指を知っていること。


 画面の上で、彼女が小さく笑った。目の下に、俺の知らない影があった。


「色、これで合ってるよね。タクミ」


 淡い緑。前のスマホを買うとき、俺が「次はこれにしなよ」と言った色だ。


 彼女は、半年前に死んだ俺に話しかけていた。



    



「指紋を登録します。センサーに指を置いてください」


 置かれた。離された。また置かれた。くすぐったい。というか、くすぐったいという感覚があることが怖い。


 帰り道、俺はカバンの底に放り込まれた。レシートと、のど飴と、使いかけのハンドクリームと一緒に。画面が消えると、何も見えない。音だけだ。電車のアナウンスと、ヒヨリの鼻をすする音。


 部屋に着くと、ヒヨリは手を洗い、ハンドクリームを塗り、俺を取り出した。


 親指が乗る。


『指紋が一致しません』


 もう1回。


『指紋が一致しません』


「えー……」


 クリームだ。クリームのせいだ。ティッシュで拭け。


 3回目も弾かれて、ヒヨリは暗証番号を打った。0314。俺の誕生日だった。そこは変えておけ、と言いたかったが、俺には口がない。


 寝る前、ヒヨリはトークアプリを開いた。1番上に、俺の名前がある。アイコンは、去年の夏に2人で撮ったかき氷の写真のままだ。


『おやすみ』


 送信。


 既読は、つかない。俺の携帯は、たぶん実家の引き出しの中で、電池が切れている。


 ヒヨリは、送ったばかりの4文字を、しばらく眺めていた。それから俺を胸の上に置いて、目を閉じた。


 ここにいるんだけどな。


 画面が消えて、彼女の寝息だけが聞こえた。



    



 朝4時30分。


 俺の体から、爆音が出た。


 なんだこれ。うるさい。自分の体から鳴っているので、耳をふさぐこともできない。いや、耳もない。


 ヒヨリの手が伸びてきて、アラームを止めた。まだ外は真っ暗だ。彼女は布団の中で、トークアプリを開く。


『起きた?』


 送信。既読は、つかない。


 画面をさかのぼる指の動きで、履歴が流れた。


『起きた?』『起きた?』『起きた?』


 毎朝、4時30分。春から、1日も欠かさずに。


 俺は、思わず震えた。ブルッ、と1回。ここにいる、と言ったつもりだった。


「……通知?」


 ヒヨリは画面を確かめて、首をかしげた。何も来ていない。来ているのは俺だ。


 それから、俺はやたらと震えた。彼女が朝ごはんのパンを焦がしたとき。会社のエレベーターで、知らない人に「顔色悪いね」と言われたとき。帰りの電車で、俺の写真を開いて、閉じたとき。


 1番まずかったのは、会議だった。


 俺は、会議室の机に伏せて置かれていた。画面は真っ暗で、何も見えない。聞こえるのは、課長の予算の話と、すぐ横で鳴り続けるペンの音だけだ。メモを取る音じゃない。同じところを、ぐるぐるなぞる音。ヒヨリの癖だ。困ったとき、彼女は紙に丸を描く。


 大丈夫か、と思った瞬間、震えていた。


 ヴヴッ。会議室の机は、よく響く。


「……マナーモードにしてね」


「してます。すみません」


 ヴヴッ。


「してます……」


 ヒヨリは俺をひざの上に移して、上から手で押さえつけた。ごめん。でも、その手は温かかった。


 土曜日、ヒヨリは俺をショップに連れていった。


「勝手に震えるんです。通知も来てないのに」


「拝見しますね」


 店員さんは俺をあちこち触り、診断アプリを動かして、にっこり笑った。


「異常はありませんね」


 異常だらけだ。中身が26歳の男だ。


「どんなときに震えるか、覚えてらっしゃいますか」


「朝……メッセージを送ったあと、とか」


 店員さんが画面をのぞきこもうとして、ヒヨリは慌てて俺を引っ込めた。目が赤かった。


 その夜、俺の残量は20%のまま放置された。充電しろ。頼むから。



    



 10月の終わり。ヒヨリが、ようやくメモ帳を開いた。


『卵、牛乳、』


 買い物メモだった。カーソルが、牛乳のあとで点滅している。


 その白い画面を見た瞬間、分かった。ここなら、置ける。振動するときと同じように、体の奥に力を込める。言葉が、画面の上にほどけていく。


『ヒヨリ、俺だ。タクミ。』


「ひっ」


 俺は宙を飛んだ。ベッドに落ちて、2回はねた。


 投げるな。分かるけど、投げるな。


 ヒヨリはしばらく壁に背中をつけていた。それから、ゆっくり近づいてきて、俺を拾った。指が震えていた。


「……誰かの、いたずら?」


 2回、震える。


「……タクミ?」


 1回。


「本当に?」


 1回。


 ヒヨリは息を吸って、目を閉じて、それから質問を始めた。俺しか知らないことを、1つずつ。


「初めてケンカした日に、食べ損ねたもの。唐揚げ?」


 2回。


「たい焼き?」


 1回。尻尾から食べるか頭から食べるかで揉めて、2人とも意地を張って、結局どっちも冷めたやつだ。


 ヒヨリは笑った。笑いながら、泣いた。俺を両手で持って、額に押し当てた。画面が熱い。いや、熱いのは充電のせいじゃない。


「お母さんのとこのワンちゃん、まだタクミの靴、玄関でかじってるって」


 あいつか、と思った。呼ぼうとした。


 実家の犬の名前が、出てこない。茶色くて、俺の靴ばかりかじっていた犬だ。毎日呼んでいたはずの名前が、きれいに抜け落ちている。


 1回だけなら、偶然かもしれない。でも、黙っていたら、ヒヨリはまた俺に書かせようとする。


『実家の犬の名前が、消えた。書くたびに、何か忘れるのかもしれない。』


 ヒヨリの顔から、笑みが消えた。


「……じゃあ、もう書かなくていい」


 彼女は、メモ帳の俺の2行を消さずに保存した。


「質問するから。はいとか、いいえとかで答えて。それで足りるでしょ」


 1回、震えた。足りるかどうかは、分からなかったけれど。



    



 それから、ヒヨリは俺に話しかけるようになった。


 夕飯のとき、俺はケチャップの瓶に立てかけられる。


「今日のオムライス、おいしそう?」


 1回。


「卵、破れてるけど?」


 1回。


「……そこは2回でしょ」


 前髪を切った日は、30分かけて自撮りをしてから聞かれた。


「変?」


 2回。


「本当に?」


 1回。


「どっちの1回?」


 知るか。質問を1つずつにしろ。


 寝る前には、もっと困る質問が来た。


「おなか、すく?」


 2回。


「眠くなる?」


 少し考えて、2回。


「……私が着替えてるとき、見えてる?」


 画面が点いていれば、見える。正直に、1回。


 ヒヨリは無言で、俺を机に伏せた。真っ暗になった。それ以来、着替えの前には必ず伏せられる。正しい。


 週末、ヒヨリは指紋を登録し直した。ハンドクリームを拭いてから、ゆっくり、何度も。これでもう、弾かれない。


 夜、ヒヨリは写真フォルダを開いた。去年の写真が、画面いっぱいに並ぶ。


 俺たちの始まりは、朝4時30分だった。


 見習いになって1年目、俺は寝坊ばかりしていた。親方の店は、朝5時30分に仕込みが始まる。3回遅刻して、親方に「次やったらクビ」と言われた日、店でパンを買っていった常連の女の人に、その話をした。愚痴のつもりだった。


「じゃあ、私が起こしましょうか。私、朝強いんで」


 それがヒヨリだった。


 次の日から、毎朝4時30分に『起きた?』が来た。俺は『起きた』と返して、家を飛び出した。1度も遅刻しなかった。


 お礼に、焼き残りのパンを、彼女の会社の最寄り駅のベンチに置いた。毎朝、紙袋に入れて。


 3日目、紙袋が返ってきた。中に、メモが1枚。俺の焼いたクロワッサンの絵だった。鉛筆で描いた、本物より少しだけおいしそうなクロワッサン。


 それから毎朝、パンが減って、絵が増えた。


 1か月たったころ、俺は親方の前で、クロワッサンを天板1枚分、真っ黒に焦がした。辞めようかと思って、その夜は眠れなかった。


 朝4時30分、いつもどおり『起きた?』が来た。返事をしないでいたら、4時35分に、もう1通来た。


『焦げたやつ、ベンチに置いといて』


 前の日の夕方、店の前を通ったヒヨリに、窓越しに見られていたらしい。


 俺は焦げたクロワッサンを紙袋に入れて、ベンチに置いた。次の朝、返ってきた袋には、真っ黒なクロワッサンの絵があった。横に小さな字で、『苦いけど、層がきれい』。


 それを親方に見せたら、「客のほうが分かってるな」と笑われた。俺は辞めなかった。


 3か月たったころ、俺はベンチで彼女を待った。パンを持ったまま、何か言った。何て言ったかは、まだ覚えていた。そのときは。


「初めてのデート、どこ行ったか覚えてる?」


 ヒヨリが写真を指でたどりながら聞いた。


 俺は、答えようとした。出てこなかった。


 覚えてる、と震えたかった。でも嘘になる。


 2回。


 ヒヨリの指が止まった。少し黙って、それから写真を1枚、拡大した。暗い水槽の前で、俺が変な顔で笑っている。


「水族館。タクミ、クラゲの前から動かなかったんだよ。『パンの発酵に似てる』って」


 写真の中の俺は、確かに笑っている。でも、水槽の青さも、クラゲの形も、俺の中には戻ってこなかった。ヒヨリの話として、知り直しただけだ。


 2行目で消えたのは、これだったんだ。


 書かなかった日の夜、俺は毎晩、思い出せるものを数えていた。親方の口癖。ヒヨリの好きなパン。母さんの電話の第一声。何も減っていなかった。減るのは、書いた日だけだ。


「いいよ。忘れても」


 ヒヨリは俺を充電器につないで、ケーブルごと手の中に握った。


「私が覚えてるから」


 充電されると、体が温かくなる。ヒヨリの手も、温かかった。彼女はそのまま眠った。俺はその夜、残量が100%になっても、ずっと起きていた。



    



 11月の終わり、親方から電話が来た。


『ヒヨリちゃん、看板のほう、どうだい』


 親方は、3月14日に新しい店を開く。俺の誕生日だ。俺がいつか自分の店を持つと言っていたのを、親方は覚えていて、場所まで決めてしまった。


『店の名前は、1月の終わりまでに決めたい。看板のデータは、2月の終わりまでにもらえると助かる』


「はい。もう少しです」


 嘘だった。机の上のスケッチブックは、9月に引き受けてから、白いままだ。


 電話を切ると、ヒヨリはスケッチブックを開いた。鉛筆を持って、白い紙の上で手を止める。1分たって、2分たって、何も描かずに閉じた。表紙の上に、俺を置いた。


 すぐに、今度はお姉さんから着信があった。


『週末、出てきなよ。たまには外の空気、吸いな』


「ごめん、ちょっと忙しくて」


 これも嘘だ。ヒヨリは、週末も俺と部屋にいる。


 その夜、ヒヨリはトークアプリの俺の画面を開いて、何か打ち始めた。送信ボタンの手前で、指が止まる。


『描きたい。でも描き終えたら、タクミと話す理由が終わる気がする』


 送らなかった。下書きのまま、画面を消した。


 俺は、それを読んでいた。


 質問じゃない。だから、震えても何も伝わらない。


 描きたいんだ、と思った。看板を描いてくれ、と頼んだのは俺だ。店ができたら、と。彼女はあのベンチで、うれしそうに「いいよ」と言った。


 描き終えたら、終わる気がする。それは、俺も同じだった。ヒヨリと話したい。でも、文字にするたびに、記憶が1つ消える。次は、ヒヨリとの思い出かもしれない。


 どっちも、言えなかった。



    



 12月。ヒヨリは、引き出しから前のスマホを出してきた。


「機種変更したら、一緒に引っ越せるかもしれない」


 データを移して、前のスマホのメモ帳を開く。白い画面の前で、ヒヨリは息を止めて待った。


 俺は、何も書けなかった。向こうの画面には、届かない。俺はこっちにいる。


 机の上で、俺は1回震えた。


 ヒヨリが、ゆっくりこっちを振り向いた。


「……そっちに、いるんだ」


 1回。


「初期化したら、どうなる? 消えちゃう?」


 分からない。だから、震えなかった。


「電池を替えたら?」


 震えなかった。


「……分からないんだ」


 1回。


 ヒヨリは前のスマホを引き出しに戻した。


「やらない。分からないことは、やらない」


 その夜、ヒヨリは別の用事でメモ帳を開いた。年末の大掃除のリストだった。


 俺は、迷った。


 ヒヨリは毎日、たくさん質問してくれる。オムライスのこと、前髪のこと、明日の天気のこと。でも、俺が言いたいことは、たぶん彼女の質問の中に出てこない。彼女が思いつけない形をしている。


 だから、自分の言葉で渡すことにした。


『看板、見たい。話せない時間があっても、俺はここにいる。』


 ヒヨリは、大掃除のリストの上に現れた1行を、長いあいだ見ていた。


「……読んだの? 下書き」


 1回。


「最低」


 1回。ヒヨリが吹き出した。


「そこは2回でしょ」


 それから、泣いた。俺を両手で胸に抱いて、泣きながら全部話した。描きたいこと。描けないこと。描き終えたら、俺が行ってしまう気がすること。毎朝『起きた?』を送らないと、俺が本当に死んだことになる気がすること。


 俺は、ときどき1回だけ震えた。聞いてる、という意味で。


 泣き終わってから、2人で決めた。


 毎晩21時から22時まで、俺を充電台に置いて、画面を消す。その1時間は、ヒヨリは俺に何も聞かない。俺も、何も返さない。返事を待たない時間を、1日に1時間だけ作る。


「描けたところは、終わってから見せる。それでいい?」


 1回。


 今度は、ちゃんと分かって震えた。



    



 年が明けて、1月。


 21時になると、ヒヨリは俺を机の端の充電台に置く。画面が消える。何も見えない。


 聞こえるのは、鉛筆の音だけだ。


 しゃっ、しゃっ、と線を引く音。消しゴムの音。ため息。ときどき、鼻歌。俺の好きだった歌を、音程を外して歌っている。直したいが、直せない。


 最初の週の、21時40分。画面が点いた。


 ヒヨリの顔が、真上にあった。鉛筆を持ったまま、こっちをのぞきこんでいる。何も言わない。俺も震えない。そう決めたから。


 ヒヨリは少し唇をかんで、それから自分の指で画面を消した。しゃっ、しゃっ、と鉛筆の音が戻ってきた。


 2週目から、21時から22時のあいだに画面が点くことは、1度もなかった。


 22時になると、ヒヨリはカメラアプリを起動して、スケッチブックを撮って見せてくれる。


「この線、どう?」


 2回。


「え、だめ?」


 1回。


「どっちの1回?」


 だから、質問を1つずつにしろ。


 パンの絵が並んだ。クロワッサン。あのベンチの紙袋。それから、店の入口。朝の空。少しずつ、看板になっていく。


 食パンの絵を見たとき、いつもの癖で、頭の中で配合をなぞろうとした。粉、水、塩、イースト。毎朝量っていた数字が、1つも出てこない。


 12月の、3行目の分だ。


 パンの形も、焼ける音も覚えている。抜けたのは、俺の手が覚えていたはずの数字だけだった。


 1月の終わりが近づいた夜、看板の下書きは、ほとんどできあがっていた。真ん中の、店の名前を入れる場所だけが、白い。


「タクミ、店の名前、決めてた?」


 1回。


「パンの名前?」


 2回。


「場所の名前?」


 2回。


「……私の名前?」


 2回。違う。


「違うんだ」


 ヒヨリは少しむっとした。


 質問は続いた。季節、色、花、親方の名前。全部、2回。


 ヒヨリは鉛筆を置いた。


「書きたいの?」


 1回。


「残り、分からないんだよ。次に消えるの、私のことかもしれないよ」


 分かっている。だから12月の1行のあとも、なるべく書かずにきた。次に消えるのが、ベンチで食べたパンの味か、たい焼きの尻尾か、ヒヨリの声そのものか。選べない。


 それでも、これは質問では渡せない。


「……それでも書く?」


 1回。


 ヒヨリは長いあいだ黙って、それからメモ帳を開いた。


 これを最後にしよう、と俺は決めた。決まりがあるわけじゃない。残りの数も知らない。ただ、俺がそう決めた。


『店の名前はヨジハン。毎朝お前が起こしてくれた、4時半だ。』


 ヒヨリは画面を見て、口を押さえた。


「……ヨジハン」


 声に出して、もう1回。


「ヨジハン。変な名前」


 笑って、泣いて、また笑った。それから鉛筆を握り直して、白かった場所に、4時30分を指す時計の針を描いた。その後ろに、夜明けの空。


 その夜、俺はいつものように、思い出せるものを数えた。親方の口癖。たい焼きの尻尾。ベンチの紙袋。全部、あるように思えた。


 何が消えたのかは、分からなかった。消えたものは、消えたことすら教えてくれない。


 翌朝4時30分。俺の体から、いつもの爆音が鳴った。


 ヒヨリは、手を伸ばして止めた。それから、アラームの設定画面を開いて、そのまま削除した。


 トークアプリは、開かなかった。


 7時、ヒヨリは看板の案の写真を親方に送った。


『店の名前は、ヨジハンにしたいです。タクミが決めていた名前です。毎朝、私が彼を起こしていた時間です』


 昼休みに、親方から返事が来た。


『店の名前は時間にしたいって、あいつ言ってたな。何時かは、言わなかった。ヨジハンでいこう』


 ヒヨリは会社のトイレで、俺を握って、少しだけ泣いた。



    



 3月14日。


 アラームは、鳴らなかった。もう、どこにもない。


 それでもヒヨリは、4時30分には起きていた。トークアプリは開かない。顔を洗って、コートを着て、まだ暗い道を歩いて、新しい店へ向かった。


 店の前で、ヒヨリは立ち止まった。手袋を外して、ポケットから俺を出す。親指を乗せると、1回で開いた。


 入口の上に、看板があった。夜明けの空の色。4時30分を指す時計の針。その横に、丸い字で「ヨジハン」。


 店の中では、親方がもう生地をこねていた。


「来たか。見てけ、これ」


 親方は、油のしみたノートを開いて見せた。俺の字だった。ぐちゃぐちゃの数字と、矢印と、「水、あと5グラム」の書き込み。


「あいつの配合だ。今日の食パンは、これで焼く」


 読んで、思い出した。いや、思い出したんじゃない。もう一度、知った。12月の3行目のあとから抜けていた数字が、ここに全部残っていた。


 ヒヨリは窓辺に、俺の充電台を置いた。家から持ってきたやつだ。俺を立てて、カメラアプリを起動して、背面のレンズを外へ向ける。


 画面に、看板が映った。


 ヒヨリは入口の戸を開けたまま、外に出た。俺のレンズの中で、彼女の背中が看板を見上げている。東の空が、少しずつ白くなっていく。


「タクミ」


 ヒヨリが、看板を見たまま言った。


「最初にベンチで言ったこと、覚えてる?」


 覚えていない。4行目で消えたのは、これだったんだ。


 2回、震えた。


「だよね」


 ヒヨリはこっちを振り向かずに、続けた。


「『毎朝起こしてもらうの、俺、一生でもいいんだけど』って言ったんだよ。パン持ったまま。紙袋、くしゃくしゃにして」


 知らない言葉だった。なのに、俺の言葉だった。


「一生は、無理だったね」


 ヒヨリは笑った。声が少し震えていた。


「でも、私、ちゃんと起きたよ。今日も、1人で」


 白い息が、看板の前でほどけた。


「聞こえた?」


 1回。


 窓辺の充電台が、カタ、と鳴った。


 ヒヨリは振り向いて、レンズに向かって笑った。泣いているのに、いい顔だった。


 パンの焼ける匂いがした。俺には鼻がないから、たぶん、気のせいだ。



    



 その夜、ヒヨリは部屋に帰ってきて、店から持ち帰った充電台に俺を置いた。


 トークアプリは開かなかった。メモ帳も開かなかった。


 代わりに、画面に向かって、声で言った。


「おやすみ、タクミ」


 画面が消えて、部屋が暗くなる。布団に入る音がした。


 俺は、今朝聞いた言葉を考えていた。『毎朝起こしてもらうの、俺、一生でもいいんだけど』。


 やっぱり、思い出せない。紙袋をくしゃくしゃにした手の感触も、あのときの自分の顔も、戻ってこない。


 それでも、言いたくなった。覚えていない男と同じことを、今の俺が、同じ相手に。


 質問は、されていない。体の奥に力を込めて、1回だけ、震えた。ヴヴッ。暗い部屋の机に、小さく響いた。


 布団の中で、ヒヨリが身じろぎした。


「……通知?」


 笑いを含んだ声だった。それから、ほとんど寝言みたいに続けた。


「知ってる」


 充電台の上で、体が温かかった。充電のせいだけじゃない。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

2人の物語が、少しでも心に残ればうれしいです。

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