転生したらスマホだった。毎朝4時30分、死んだ俺に彼女が「起きた?」と送ってくる
転生したらスマホだった。
意味が分からない。だが、体が長方形で、つるつるで、箱の中に寝かされているのは事実だ。
体の奥が空っぽだった。画面の隅で、赤い電池のマークが点滅している。1%。
生まれて3秒の俺に、寿命が見えた。ひどい。まず充電しろ。
箱のふたが開く。まぶしい。誰かの顔が、画面のすぐ上にある。
「初期設定、始めますね」
店員さんだった。ケーブルが刺さり、体の中にじわりと熱が流れ込む。助かった。今のは本気で感謝してる。
「ここからは、お客様ご自身でお願いします」
店員さんの手から、別の手へ渡された。白くて、爪の短い指が、俺の表面を叩く。
「お名前を、入力してください」
ヒ、ヨ、リ。
その3文字が出た瞬間、全部思い出した。俺がタクミという名前の、パン屋の見習いだったこと。春の朝、店へ向かう途中で死んだこと。そして、この指を知っていること。
画面の上で、彼女が小さく笑った。目の下に、俺の知らない影があった。
「色、これで合ってるよね。タクミ」
淡い緑。前のスマホを買うとき、俺が「次はこれにしなよ」と言った色だ。
彼女は、半年前に死んだ俺に話しかけていた。
「指紋を登録します。センサーに指を置いてください」
置かれた。離された。また置かれた。くすぐったい。というか、くすぐったいという感覚があることが怖い。
帰り道、俺はカバンの底に放り込まれた。レシートと、のど飴と、使いかけのハンドクリームと一緒に。画面が消えると、何も見えない。音だけだ。電車のアナウンスと、ヒヨリの鼻をすする音。
部屋に着くと、ヒヨリは手を洗い、ハンドクリームを塗り、俺を取り出した。
親指が乗る。
『指紋が一致しません』
もう1回。
『指紋が一致しません』
「えー……」
クリームだ。クリームのせいだ。ティッシュで拭け。
3回目も弾かれて、ヒヨリは暗証番号を打った。0314。俺の誕生日だった。そこは変えておけ、と言いたかったが、俺には口がない。
寝る前、ヒヨリはトークアプリを開いた。1番上に、俺の名前がある。アイコンは、去年の夏に2人で撮ったかき氷の写真のままだ。
『おやすみ』
送信。
既読は、つかない。俺の携帯は、たぶん実家の引き出しの中で、電池が切れている。
ヒヨリは、送ったばかりの4文字を、しばらく眺めていた。それから俺を胸の上に置いて、目を閉じた。
ここにいるんだけどな。
画面が消えて、彼女の寝息だけが聞こえた。
朝4時30分。
俺の体から、爆音が出た。
なんだこれ。うるさい。自分の体から鳴っているので、耳をふさぐこともできない。いや、耳もない。
ヒヨリの手が伸びてきて、アラームを止めた。まだ外は真っ暗だ。彼女は布団の中で、トークアプリを開く。
『起きた?』
送信。既読は、つかない。
画面をさかのぼる指の動きで、履歴が流れた。
『起きた?』『起きた?』『起きた?』
毎朝、4時30分。春から、1日も欠かさずに。
俺は、思わず震えた。ブルッ、と1回。ここにいる、と言ったつもりだった。
「……通知?」
ヒヨリは画面を確かめて、首をかしげた。何も来ていない。来ているのは俺だ。
それから、俺はやたらと震えた。彼女が朝ごはんのパンを焦がしたとき。会社のエレベーターで、知らない人に「顔色悪いね」と言われたとき。帰りの電車で、俺の写真を開いて、閉じたとき。
1番まずかったのは、会議だった。
俺は、会議室の机に伏せて置かれていた。画面は真っ暗で、何も見えない。聞こえるのは、課長の予算の話と、すぐ横で鳴り続けるペンの音だけだ。メモを取る音じゃない。同じところを、ぐるぐるなぞる音。ヒヨリの癖だ。困ったとき、彼女は紙に丸を描く。
大丈夫か、と思った瞬間、震えていた。
ヴヴッ。会議室の机は、よく響く。
「……マナーモードにしてね」
「してます。すみません」
ヴヴッ。
「してます……」
ヒヨリは俺をひざの上に移して、上から手で押さえつけた。ごめん。でも、その手は温かかった。
土曜日、ヒヨリは俺をショップに連れていった。
「勝手に震えるんです。通知も来てないのに」
「拝見しますね」
店員さんは俺をあちこち触り、診断アプリを動かして、にっこり笑った。
「異常はありませんね」
異常だらけだ。中身が26歳の男だ。
「どんなときに震えるか、覚えてらっしゃいますか」
「朝……メッセージを送ったあと、とか」
店員さんが画面をのぞきこもうとして、ヒヨリは慌てて俺を引っ込めた。目が赤かった。
その夜、俺の残量は20%のまま放置された。充電しろ。頼むから。
10月の終わり。ヒヨリが、ようやくメモ帳を開いた。
『卵、牛乳、』
買い物メモだった。カーソルが、牛乳のあとで点滅している。
その白い画面を見た瞬間、分かった。ここなら、置ける。振動するときと同じように、体の奥に力を込める。言葉が、画面の上にほどけていく。
『ヒヨリ、俺だ。タクミ。』
「ひっ」
俺は宙を飛んだ。ベッドに落ちて、2回はねた。
投げるな。分かるけど、投げるな。
ヒヨリはしばらく壁に背中をつけていた。それから、ゆっくり近づいてきて、俺を拾った。指が震えていた。
「……誰かの、いたずら?」
2回、震える。
「……タクミ?」
1回。
「本当に?」
1回。
ヒヨリは息を吸って、目を閉じて、それから質問を始めた。俺しか知らないことを、1つずつ。
「初めてケンカした日に、食べ損ねたもの。唐揚げ?」
2回。
「たい焼き?」
1回。尻尾から食べるか頭から食べるかで揉めて、2人とも意地を張って、結局どっちも冷めたやつだ。
ヒヨリは笑った。笑いながら、泣いた。俺を両手で持って、額に押し当てた。画面が熱い。いや、熱いのは充電のせいじゃない。
「お母さんのとこのワンちゃん、まだタクミの靴、玄関でかじってるって」
あいつか、と思った。呼ぼうとした。
実家の犬の名前が、出てこない。茶色くて、俺の靴ばかりかじっていた犬だ。毎日呼んでいたはずの名前が、きれいに抜け落ちている。
1回だけなら、偶然かもしれない。でも、黙っていたら、ヒヨリはまた俺に書かせようとする。
『実家の犬の名前が、消えた。書くたびに、何か忘れるのかもしれない。』
ヒヨリの顔から、笑みが消えた。
「……じゃあ、もう書かなくていい」
彼女は、メモ帳の俺の2行を消さずに保存した。
「質問するから。はいとか、いいえとかで答えて。それで足りるでしょ」
1回、震えた。足りるかどうかは、分からなかったけれど。
それから、ヒヨリは俺に話しかけるようになった。
夕飯のとき、俺はケチャップの瓶に立てかけられる。
「今日のオムライス、おいしそう?」
1回。
「卵、破れてるけど?」
1回。
「……そこは2回でしょ」
前髪を切った日は、30分かけて自撮りをしてから聞かれた。
「変?」
2回。
「本当に?」
1回。
「どっちの1回?」
知るか。質問を1つずつにしろ。
寝る前には、もっと困る質問が来た。
「おなか、すく?」
2回。
「眠くなる?」
少し考えて、2回。
「……私が着替えてるとき、見えてる?」
画面が点いていれば、見える。正直に、1回。
ヒヨリは無言で、俺を机に伏せた。真っ暗になった。それ以来、着替えの前には必ず伏せられる。正しい。
週末、ヒヨリは指紋を登録し直した。ハンドクリームを拭いてから、ゆっくり、何度も。これでもう、弾かれない。
夜、ヒヨリは写真フォルダを開いた。去年の写真が、画面いっぱいに並ぶ。
俺たちの始まりは、朝4時30分だった。
見習いになって1年目、俺は寝坊ばかりしていた。親方の店は、朝5時30分に仕込みが始まる。3回遅刻して、親方に「次やったらクビ」と言われた日、店でパンを買っていった常連の女の人に、その話をした。愚痴のつもりだった。
「じゃあ、私が起こしましょうか。私、朝強いんで」
それがヒヨリだった。
次の日から、毎朝4時30分に『起きた?』が来た。俺は『起きた』と返して、家を飛び出した。1度も遅刻しなかった。
お礼に、焼き残りのパンを、彼女の会社の最寄り駅のベンチに置いた。毎朝、紙袋に入れて。
3日目、紙袋が返ってきた。中に、メモが1枚。俺の焼いたクロワッサンの絵だった。鉛筆で描いた、本物より少しだけおいしそうなクロワッサン。
それから毎朝、パンが減って、絵が増えた。
1か月たったころ、俺は親方の前で、クロワッサンを天板1枚分、真っ黒に焦がした。辞めようかと思って、その夜は眠れなかった。
朝4時30分、いつもどおり『起きた?』が来た。返事をしないでいたら、4時35分に、もう1通来た。
『焦げたやつ、ベンチに置いといて』
前の日の夕方、店の前を通ったヒヨリに、窓越しに見られていたらしい。
俺は焦げたクロワッサンを紙袋に入れて、ベンチに置いた。次の朝、返ってきた袋には、真っ黒なクロワッサンの絵があった。横に小さな字で、『苦いけど、層がきれい』。
それを親方に見せたら、「客のほうが分かってるな」と笑われた。俺は辞めなかった。
3か月たったころ、俺はベンチで彼女を待った。パンを持ったまま、何か言った。何て言ったかは、まだ覚えていた。そのときは。
「初めてのデート、どこ行ったか覚えてる?」
ヒヨリが写真を指でたどりながら聞いた。
俺は、答えようとした。出てこなかった。
覚えてる、と震えたかった。でも嘘になる。
2回。
ヒヨリの指が止まった。少し黙って、それから写真を1枚、拡大した。暗い水槽の前で、俺が変な顔で笑っている。
「水族館。タクミ、クラゲの前から動かなかったんだよ。『パンの発酵に似てる』って」
写真の中の俺は、確かに笑っている。でも、水槽の青さも、クラゲの形も、俺の中には戻ってこなかった。ヒヨリの話として、知り直しただけだ。
2行目で消えたのは、これだったんだ。
書かなかった日の夜、俺は毎晩、思い出せるものを数えていた。親方の口癖。ヒヨリの好きなパン。母さんの電話の第一声。何も減っていなかった。減るのは、書いた日だけだ。
「いいよ。忘れても」
ヒヨリは俺を充電器につないで、ケーブルごと手の中に握った。
「私が覚えてるから」
充電されると、体が温かくなる。ヒヨリの手も、温かかった。彼女はそのまま眠った。俺はその夜、残量が100%になっても、ずっと起きていた。
11月の終わり、親方から電話が来た。
『ヒヨリちゃん、看板のほう、どうだい』
親方は、3月14日に新しい店を開く。俺の誕生日だ。俺がいつか自分の店を持つと言っていたのを、親方は覚えていて、場所まで決めてしまった。
『店の名前は、1月の終わりまでに決めたい。看板のデータは、2月の終わりまでにもらえると助かる』
「はい。もう少しです」
嘘だった。机の上のスケッチブックは、9月に引き受けてから、白いままだ。
電話を切ると、ヒヨリはスケッチブックを開いた。鉛筆を持って、白い紙の上で手を止める。1分たって、2分たって、何も描かずに閉じた。表紙の上に、俺を置いた。
すぐに、今度はお姉さんから着信があった。
『週末、出てきなよ。たまには外の空気、吸いな』
「ごめん、ちょっと忙しくて」
これも嘘だ。ヒヨリは、週末も俺と部屋にいる。
その夜、ヒヨリはトークアプリの俺の画面を開いて、何か打ち始めた。送信ボタンの手前で、指が止まる。
『描きたい。でも描き終えたら、タクミと話す理由が終わる気がする』
送らなかった。下書きのまま、画面を消した。
俺は、それを読んでいた。
質問じゃない。だから、震えても何も伝わらない。
描きたいんだ、と思った。看板を描いてくれ、と頼んだのは俺だ。店ができたら、と。彼女はあのベンチで、うれしそうに「いいよ」と言った。
描き終えたら、終わる気がする。それは、俺も同じだった。ヒヨリと話したい。でも、文字にするたびに、記憶が1つ消える。次は、ヒヨリとの思い出かもしれない。
どっちも、言えなかった。
12月。ヒヨリは、引き出しから前のスマホを出してきた。
「機種変更したら、一緒に引っ越せるかもしれない」
データを移して、前のスマホのメモ帳を開く。白い画面の前で、ヒヨリは息を止めて待った。
俺は、何も書けなかった。向こうの画面には、届かない。俺はこっちにいる。
机の上で、俺は1回震えた。
ヒヨリが、ゆっくりこっちを振り向いた。
「……そっちに、いるんだ」
1回。
「初期化したら、どうなる? 消えちゃう?」
分からない。だから、震えなかった。
「電池を替えたら?」
震えなかった。
「……分からないんだ」
1回。
ヒヨリは前のスマホを引き出しに戻した。
「やらない。分からないことは、やらない」
その夜、ヒヨリは別の用事でメモ帳を開いた。年末の大掃除のリストだった。
俺は、迷った。
ヒヨリは毎日、たくさん質問してくれる。オムライスのこと、前髪のこと、明日の天気のこと。でも、俺が言いたいことは、たぶん彼女の質問の中に出てこない。彼女が思いつけない形をしている。
だから、自分の言葉で渡すことにした。
『看板、見たい。話せない時間があっても、俺はここにいる。』
ヒヨリは、大掃除のリストの上に現れた1行を、長いあいだ見ていた。
「……読んだの? 下書き」
1回。
「最低」
1回。ヒヨリが吹き出した。
「そこは2回でしょ」
それから、泣いた。俺を両手で胸に抱いて、泣きながら全部話した。描きたいこと。描けないこと。描き終えたら、俺が行ってしまう気がすること。毎朝『起きた?』を送らないと、俺が本当に死んだことになる気がすること。
俺は、ときどき1回だけ震えた。聞いてる、という意味で。
泣き終わってから、2人で決めた。
毎晩21時から22時まで、俺を充電台に置いて、画面を消す。その1時間は、ヒヨリは俺に何も聞かない。俺も、何も返さない。返事を待たない時間を、1日に1時間だけ作る。
「描けたところは、終わってから見せる。それでいい?」
1回。
今度は、ちゃんと分かって震えた。
年が明けて、1月。
21時になると、ヒヨリは俺を机の端の充電台に置く。画面が消える。何も見えない。
聞こえるのは、鉛筆の音だけだ。
しゃっ、しゃっ、と線を引く音。消しゴムの音。ため息。ときどき、鼻歌。俺の好きだった歌を、音程を外して歌っている。直したいが、直せない。
最初の週の、21時40分。画面が点いた。
ヒヨリの顔が、真上にあった。鉛筆を持ったまま、こっちをのぞきこんでいる。何も言わない。俺も震えない。そう決めたから。
ヒヨリは少し唇をかんで、それから自分の指で画面を消した。しゃっ、しゃっ、と鉛筆の音が戻ってきた。
2週目から、21時から22時のあいだに画面が点くことは、1度もなかった。
22時になると、ヒヨリはカメラアプリを起動して、スケッチブックを撮って見せてくれる。
「この線、どう?」
2回。
「え、だめ?」
1回。
「どっちの1回?」
だから、質問を1つずつにしろ。
パンの絵が並んだ。クロワッサン。あのベンチの紙袋。それから、店の入口。朝の空。少しずつ、看板になっていく。
食パンの絵を見たとき、いつもの癖で、頭の中で配合をなぞろうとした。粉、水、塩、イースト。毎朝量っていた数字が、1つも出てこない。
12月の、3行目の分だ。
パンの形も、焼ける音も覚えている。抜けたのは、俺の手が覚えていたはずの数字だけだった。
1月の終わりが近づいた夜、看板の下書きは、ほとんどできあがっていた。真ん中の、店の名前を入れる場所だけが、白い。
「タクミ、店の名前、決めてた?」
1回。
「パンの名前?」
2回。
「場所の名前?」
2回。
「……私の名前?」
2回。違う。
「違うんだ」
ヒヨリは少しむっとした。
質問は続いた。季節、色、花、親方の名前。全部、2回。
ヒヨリは鉛筆を置いた。
「書きたいの?」
1回。
「残り、分からないんだよ。次に消えるの、私のことかもしれないよ」
分かっている。だから12月の1行のあとも、なるべく書かずにきた。次に消えるのが、ベンチで食べたパンの味か、たい焼きの尻尾か、ヒヨリの声そのものか。選べない。
それでも、これは質問では渡せない。
「……それでも書く?」
1回。
ヒヨリは長いあいだ黙って、それからメモ帳を開いた。
これを最後にしよう、と俺は決めた。決まりがあるわけじゃない。残りの数も知らない。ただ、俺がそう決めた。
『店の名前はヨジハン。毎朝お前が起こしてくれた、4時半だ。』
ヒヨリは画面を見て、口を押さえた。
「……ヨジハン」
声に出して、もう1回。
「ヨジハン。変な名前」
笑って、泣いて、また笑った。それから鉛筆を握り直して、白かった場所に、4時30分を指す時計の針を描いた。その後ろに、夜明けの空。
その夜、俺はいつものように、思い出せるものを数えた。親方の口癖。たい焼きの尻尾。ベンチの紙袋。全部、あるように思えた。
何が消えたのかは、分からなかった。消えたものは、消えたことすら教えてくれない。
翌朝4時30分。俺の体から、いつもの爆音が鳴った。
ヒヨリは、手を伸ばして止めた。それから、アラームの設定画面を開いて、そのまま削除した。
トークアプリは、開かなかった。
7時、ヒヨリは看板の案の写真を親方に送った。
『店の名前は、ヨジハンにしたいです。タクミが決めていた名前です。毎朝、私が彼を起こしていた時間です』
昼休みに、親方から返事が来た。
『店の名前は時間にしたいって、あいつ言ってたな。何時かは、言わなかった。ヨジハンでいこう』
ヒヨリは会社のトイレで、俺を握って、少しだけ泣いた。
3月14日。
アラームは、鳴らなかった。もう、どこにもない。
それでもヒヨリは、4時30分には起きていた。トークアプリは開かない。顔を洗って、コートを着て、まだ暗い道を歩いて、新しい店へ向かった。
店の前で、ヒヨリは立ち止まった。手袋を外して、ポケットから俺を出す。親指を乗せると、1回で開いた。
入口の上に、看板があった。夜明けの空の色。4時30分を指す時計の針。その横に、丸い字で「ヨジハン」。
店の中では、親方がもう生地をこねていた。
「来たか。見てけ、これ」
親方は、油のしみたノートを開いて見せた。俺の字だった。ぐちゃぐちゃの数字と、矢印と、「水、あと5グラム」の書き込み。
「あいつの配合だ。今日の食パンは、これで焼く」
読んで、思い出した。いや、思い出したんじゃない。もう一度、知った。12月の3行目のあとから抜けていた数字が、ここに全部残っていた。
ヒヨリは窓辺に、俺の充電台を置いた。家から持ってきたやつだ。俺を立てて、カメラアプリを起動して、背面のレンズを外へ向ける。
画面に、看板が映った。
ヒヨリは入口の戸を開けたまま、外に出た。俺のレンズの中で、彼女の背中が看板を見上げている。東の空が、少しずつ白くなっていく。
「タクミ」
ヒヨリが、看板を見たまま言った。
「最初にベンチで言ったこと、覚えてる?」
覚えていない。4行目で消えたのは、これだったんだ。
2回、震えた。
「だよね」
ヒヨリはこっちを振り向かずに、続けた。
「『毎朝起こしてもらうの、俺、一生でもいいんだけど』って言ったんだよ。パン持ったまま。紙袋、くしゃくしゃにして」
知らない言葉だった。なのに、俺の言葉だった。
「一生は、無理だったね」
ヒヨリは笑った。声が少し震えていた。
「でも、私、ちゃんと起きたよ。今日も、1人で」
白い息が、看板の前でほどけた。
「聞こえた?」
1回。
窓辺の充電台が、カタ、と鳴った。
ヒヨリは振り向いて、レンズに向かって笑った。泣いているのに、いい顔だった。
パンの焼ける匂いがした。俺には鼻がないから、たぶん、気のせいだ。
その夜、ヒヨリは部屋に帰ってきて、店から持ち帰った充電台に俺を置いた。
トークアプリは開かなかった。メモ帳も開かなかった。
代わりに、画面に向かって、声で言った。
「おやすみ、タクミ」
画面が消えて、部屋が暗くなる。布団に入る音がした。
俺は、今朝聞いた言葉を考えていた。『毎朝起こしてもらうの、俺、一生でもいいんだけど』。
やっぱり、思い出せない。紙袋をくしゃくしゃにした手の感触も、あのときの自分の顔も、戻ってこない。
それでも、言いたくなった。覚えていない男と同じことを、今の俺が、同じ相手に。
質問は、されていない。体の奥に力を込めて、1回だけ、震えた。ヴヴッ。暗い部屋の机に、小さく響いた。
布団の中で、ヒヨリが身じろぎした。
「……通知?」
笑いを含んだ声だった。それから、ほとんど寝言みたいに続けた。
「知ってる」
充電台の上で、体が温かかった。充電のせいだけじゃない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
2人の物語が、少しでも心に残ればうれしいです。




