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「姉なんだから譲りなさい」と母が言うので、婚約者も家も譲ることにしました

作者: さくらろ
掲載日:2026/09/26

「姉なんだから譲りなさい」


 夕食の皿が下げられた居間で、母はいつもの言葉を、いつもの調子で言った。紅茶に砂糖を落とすのと同じくらい、迷いのない声だった。


「お姉様、エドガー様をちょうだい」


 ミレイユが私の婚約者の腕に手を添えたまま、首をかしげる。十七になっても、欲しいものをねだるときの仕草は五つの頃と変わらない。


 エドガー様は、その手を振りほどかなかった。


「クラリス、怒らないで聞いてほしい。ミレイユの方が、僕を必要としてくれるんだ。君は僕がいなくても平気な顔をしているだろう」


 父は暖炉のそばの椅子で新聞を広げたまま、紙の端さえ動かさなかった。


 母は私の返事を待っていなかった。待つ必要がないと知っているからだ。この家で私が「いいえ」と言ったことは、記憶にある限り一度もない。


 私は膝の上で指を折った。声には出さず、数えるだけだ。


 六つのとき、祖母がくれた青い目の人形。ミレイユが熱を出して泣いたので、枕元に置いてあげなさいと言われ、それきり返ってこなかった。


 十の誕生日。ケーキの蝋燭を吹き消したのはミレイユだった。あの子は体が弱いのだから、楽しい思いをさせてあげて。私の名前が書かれた砂糖菓子の板は、翌朝、妹の皿の端に割れて残っていた。


 十四のとき、祖母の形見の櫛。鼈甲の櫛は今、ミレイユの髪に挿さっている。今夜も挿さっている。


 指が三本折れたところで、数えるのをやめた。あとは多すぎて、片手では足りない。


「聞いているの、クラリス」


「はい、お母様」


「ミレイユは小さい頃から体が弱くて、何も持っていないのよ。あなたは丈夫で、何でもできるでしょう。一つくらい譲ったって困らないわ」


 ミレイユの頬は健康そうに色づいていた。この二年、風邪ひとつ引いていない。それを口にしたことは一度もなかったし、今夜も言うつもりはなかった。


「政略なんだから、伯爵家の娘ならどちらでも同じだと父上も言っている。君だって、僕に特別な気持ちがあったわけじゃないだろう?」


 三年間、エドガー様が我が家へ来るたびに、私は帳簿を閉じて客間へ出た。彼が話すのは狩りと夜会と新しい上着のことで、堤の話を始めると決まって窓の外を眺めた。特別な気持ちがあったかどうか、確かめる暇もなかった。


 それでも、この人と家を守っていくのだと思っていた。明日の朝も帳簿を開き、秋には堤の修繕を終わらせ、十年後も二十年後も、この居間で譲り続けるのだと。


 今度は何を譲るのか。婚約者。それだけで済むと、母は本気で思っている。


 私は折っていた指を開いて、膝の上で重ねた。


「分かりました。譲ります」


 ミレイユが歓声を上げ、エドガー様がほっとしたように肩を下ろした。母は満足げにうなずいた。


「ただ」


 三人の顔がこちらを向いた。父の新聞が、初めて少しだけ下がった。


「この婚約は、ベルネ伯爵家の跡取りとエドガー様との婚約です。ロシュ侯爵家との契約書にそう書いてあります。ですから、婚約者をお譲りするなら、跡取りの座も一緒にお譲りしなければなりません」


 しんとした居間に、暖炉の薪のはぜる音がした。


「まあ」と母が言った。「最初からそう言えばいいのよ。あなたはいつも、言い方が回りくどいんだから」


「お姉様、いいの? 本当に全部?」


「ええ。全部」


「よかったわね、ミレイユ」母が目を細めた。「ほら、お姉様にお礼を言いなさい」


「ありがとう、お姉様。大好き」


 ミレイユが私に抱きついてきた。髪の櫛が頬に当たって、少し冷たかった。


 エドガー様は、私の顔を見なかった。紅茶を口に運び、ミレイユの肩越しに母へ会釈した。話がまとまったことを、この家でいちばん偉い人に報告するみたいに。


 父は新聞を元の高さに戻した。


◇


 翌日の午後、父の書斎に王宮の公証役が来た。


 呼んだのは私だ。朝いちばんに家令のベルトランへ頼み、町の出張所まで馬車を出してもらった。継承権の放棄は、本人と当主の署名に公証役の認証が揃わなければ、効力を持たない。十五で父の代わりに帳簿をつけるようになったとき、ベルトランに教わったことの一つだった。


「お嬢様、本当によろしいのですか」


 書類を並べながら、ベルトランが小声で聞いた。私が答える前に、母が扉を開けた。


「早く済ませてちょうだい。午後はミレイユの仕立て屋が来るのよ」


 公証役は灰色の髭の、口数の少ない人だった。二通の書面を机に広げ、一通目を読み上げる。クラリス・ベルネはベルネ伯爵家の継承権を放棄し、これを次女ミレイユ・ベルネに譲る。二通目は、ロシュ侯爵家との婚約契約にある「ベルネ伯爵家の跡取り」を、ミレイユ・ベルネと読み替える合意書だった。


 父はペンを受け取ると、読み上げが終わる前に署名した。


「お父様、まだ条項が」


「お前が用意したのなら間違いはないだろう」


 父はそう言って、インクが乾くのも待たずに書斎を出ていった。昔からそうだった。私が差し出す書類なら、父は何でも読まずに署名した。それを信頼と呼ぶのか、面倒から逃げていると呼ぶのか、私には長いあいだ分からなかった。


 私は、ゆうべ夜更けまでかかってまとめた綴りを机に置いた。指二本分の厚みがある。


「これが引き継ぎ書です。領地の帳簿、借入の返済計画、王宮への税の申告書の下書き。それから、二年前の水害で壊れた堤の修繕について」


 ミレイユは頁の端をつまんで持ち上げ、すぐに落とした。


「数字ばっかり。退屈」


「退屈でも、読んでちょうだい。とくに最後の頁。堤の修繕は王家の治水貸付で行っています。返済と完成報告の期限は、秋の収穫祭の翌日よ」


「はいはい」


「収穫祭の翌日よ、ミレイユ。金庫の積立金は、堤の残りの工事代と返済のためのお金。あれに手をつけずに払っていけば、工事は期日までに終わって、報告書を王宮へ出せる。そうなるように、全部揃えてあるから」


 同じことを二度言った。ミレイユは綴りを脇へ押しやり、エドガー様の袖を引いた。


「ねえ、署名ってどこにするの?」


 公証役が咳払いをして、合意書の後半を指で示した。


「念のため申し上げます。治水貸付の返済責任は、跡取りとその配偶者が負います。配偶者には婚約者を含みます。つまり、エドガー・ロシュ殿も――」


「細かいことはいいから」


 母が遮った。


「どうせ家令がやるんでしょう。そういう仕事のために雇っているのよ」


「お母様。期日に遅れれば、担保の森が王家に差し押さえられます。森は」


「だから、家令がやるって言っているでしょう。あなたはもう跡取りじゃないのよ、クラリス。口を出さないでちょうだい」


 署名はまだ半分しか済んでいないのだけれど、と思った。言わなかった。


 公証役は私を見た。私は何も言わなかった。条項は一度、読み上げられかけている。書面にも書いてある。読むかどうかは、署名する人が決めることだ。


 私は二通の書面を引き寄せ、一枚目から最後の条項まで読んだ。それから、継承権の放棄の欄に自分の名前を書いた。ペン先は、思っていたより震えなかった。


 エドガー様は合意書の冒頭にある「ベルネ伯爵家の跡取り」という文字を満足げに眺めて、流れるような字で名前を書いた。ミレイユは自分の名前の横に、小さな花の絵まで添えた。


「これでお姉様のもの、全部私のね」


「ええ。全部あなたのものよ」


 公証役が印を押した。乾いた音が、書斎に一度だけ響いた。


 引き継ぎ書は机の端に残っていた。誰も手を伸ばさないそれを、最後にベルトランが両手で受け取った。


「……確かに、お預かりいたします」


 その手は少し震えていた。私に帳簿の読み方を教えてくれたときと同じ、節の太い手だった。


 皆が出ていったあと、書斎には私とベルトランだけが残った。


「お嬢様。わたくしは家令です。旦那様と、跡取りの方のご命令に従います」


「知っているわ」


「跡取りの方に金庫を開けよと命じられれば、積立金であっても、わたくしにはお断りできません」


「それも、知っている」


 私は空になった机を眺めた。十五の春から毎晩座ってきた椅子が、急に他人のもののように見えた。


「だから、読んでもらえるように、できるだけ分かりやすく書いたの。それ以上のことは、もう私の仕事ではないわ」


◇


 荷物は、祖母の旅行鞄ひとつに収まった。


 革の角がすり切れた古い鞄だ。祖母が若い頃に使っていたもので、形見分けのとき誰も欲しがらなかったから、私のものになった。私の持ち物のうち、ミレイユが一度も欲しがらなかった数少ないものの一つでもある。


 着替えを三組。筆記具と、使い慣れた算盤。それから、紐でくくった書簡の束。


 ドレスは置いていくことにした。夜会用のものは、どうせ次の季節にはミレイユの体に合わせて仕立て直される。宝石箱も開けなかった。中に入っていた祖母の櫛は、もうそこにない。


 束をほどくと、見慣れた字が並んでいた。角ばっていて、行の終わりが少し右へ上がる字。ヴァルデン侯爵閣下からの書簡は、この二年で四十通を超えた。堤の土の配合、下流の水位、雨季の見回りの順番。書いてあるのは仕事のことだけで、私が返す手紙もそうだった。


 いちばん新しい一通の、最後の一行を指でなぞる。


 ――書記官を探している。あなたのような人を。


 読んだのはひと月前だった。返事に、その一行のことは書かなかった。私は跡取りで、婚約者がいて、ベルネの堤を離れられない人間だったから。


 机に紙を広げ、応募の手紙を書いた。


 一枚目は、書き出しが謝罪になっていた。突然のお願いで申し訳ありません、ご迷惑でしたら――。読み返して、破った。


 二枚目には、できることだけを書いた。帳簿、申告、治水の段取り。ベルネ伯爵家の継承権を放棄したこと。以後、実家の件は私個人とは関わりがないこと。最後に一行だけ、書き足した。


 ――あなたの書簡の最後の一行を、お受けしたく存じます。


 封をしてから、ふと祖母の声を思い出した。


「クラリス、あなたの欲しいものは何?」


 八つか九つの頃だった。祖母の膝の上で、そう聞かれた。私はしばらく考えて、何も答えられなかった。欲しいと言えば、それはいずれミレイユのものになる。口に出す前から、身体がそう覚えていた。


「そう。じゃあ、見つかったら一番に教えてちょうだいね」


 祖母はその冬に亡くなった。私はまだ、答えを教えていない。


 玄関へ下りると、母がいた。


「どこへ行くの、そんな鞄を持って」


「家もお譲りしましたので」


 母は眉をひそめ、何か言おうとして、結局言わなかった。ミレイユはまだ寝ているらしい。父は階段の上にいて、私と目が合うと、窓の外へ視線を逸らした。


 ベルトランだけが、門の外まで鞄を運んでくれた。


「お手紙は、わたくしが早馬で届けさせます」


「ありがとう、ベルトラン。……引き継ぎ書を、お願いね」


「命に代えましても」


「命はいらないわ。期限だけ、守ってちょうだい」


 彼は笑おうとして、うまく笑えなかった。


 乗合馬車の窓から、ベルネの屋敷が遠ざかっていく。鞄は膝の上で驚くほど軽かった。軽すぎて、どこかへ飛んでいってしまいそうで、私は取っ手を両手で握りしめていた。


◇


 ヴァルデン侯爵邸は、堤を見下ろす丘の上にあった。


 通された執務室は、机の上まで書類で埋まっていた。そのいちばん上に、私の応募の手紙が開いたまま置いてある。


「遠いところを、よく来てくださいました。ベルネ嬢」


 ルーカス・ヴァルデン侯爵閣下は、立ち上がって私を迎えた。背が高く、日に焼けた手をしている。二年前の水害の夜に一度会ったきりで、あとは字でしか知らない人だった。話し方も書簡の字と同じく、角ばっていて丁寧だった。


 閣下は椅子を勧めると、前置きなしに一枚の紙を差し出した。


「書記官の職です。俸給はこの額。部屋は東棟に用意しました。治水と領地の帳簿を見ていただきたい。休日は七日に一度」


 書かれている俸給は、ベルネの家令の倍に近かった。


「……多すぎます」


「前任者二人分の仕事を、あなたは一人でなさるでしょう。少ないくらいです」


 私は紙を膝に置き、一度だけ深く息を吸った。ここで黙ってうなずけば、きっと楽だ。けれど、黙ってうなずいて、譲って、それで収めることを、私はもう十九年も続けてきた。


「お受けする前に、条件を申し上げてもよろしいですか」


「どうぞ」


「一つ目。私を仕事として雇ってください。行き場のない娘を置いてやる、というおつもりなら、お断りします」


「承知しました」


「二つ目。実家の件には、口を出さないでください。私が自分で片をつけます」


「承知しました」


「三つ目。……同情で、ここに置かないでください」


 閣下は、少しだけ目を細めた。


「一つ目と三つ目は、同じことを言っているように聞こえますが」


「大事なことなので、二度申し上げました」


 今度ははっきりと、彼の口元がゆるんだ。


「では、三つとも承知しました」


 それから閣下は、窓の外の堤へ目を向けた。


「同情ではない理由を、一つだけ話しておきます。二年前の夜のことを覚えていますか」


 覚えていた。雨が横から叩きつけ、境の堤が切れた夜。私は泥の中で帳面を広げ、土嚢の数と人の数を書きつけていた。


「あなたは、自分の領地の畑より先に、下流の村へ土嚢を回すと決めた。あの村はベルネ領でもヴァルデン領でもない、王領の小さな村です。守っても、誰にも褒められない」


「村には、逃げ遅れたお年寄りが十一人いましたから」


「そうです。あなたは数えていた」閣下は静かに言った。「私はあのとき、自分の領地のことしか考えていなかった。翌朝、村が無事だったと聞いて、恥ずかしくなった。それからずっと、あなたの字を待っていました」


 私は返事ができなかった。四十通の書簡のどこにも、そんなことは書いていなかった。


「もう一つ」閣下は私に向き直った。「いずれ、別のことを申し込むつもりです。今ではない」


「……それは、条件に含まれますか」


「含まれません。あなたが断っても、書記官の職はそのままです」


 書記官としての日々は、思っていたよりずっと騒がしかった。


 朝の打ち合わせで、閣下は毎回私に意見を求めた。最初の三日、私はそのたびに「閣下のお考えのとおりに」と答え、四日目に「それでは答えになっていない」と言われた。五日目、堤の補強の順番について、私は閣下の案と違うことを言った。彼は地図を眺めてしばらく黙り、それから私の案を採った。


 食堂では、年配の女性書記官が、私の皿にだけ肉を一切れ多く載せた。


「あんた、細すぎるよ。数字ばっかり食べてきた顔してる」


「数字は、おいしくありませんでした」


「だろうね。ほら、冷めないうちに」


 スープを冷める前に飲み干したのは、いつ以来だろう。ベルネでは、食事の途中で帳簿のことを聞かれて席を立つのが常だった。


 夜は、堤のヴァルデン側から見たベルネ側の図面を広げた。ベルネの修繕が遅れても下流の村に水が回らないよう、こちらの水門を開け閉めする手順を組み直す。閣下はその図面を見て、一言だけ言った。


「実家の件に口を出すなと言ったのは、あなたでしたね」


「これは実家の件ではありません。村の件です」


「……なるほど」


 その夜から、私の机の上には、頼んでいない蝋燭の替えが毎晩一本ずつ置かれるようになった。


◇


 収穫祭まで十日を残した朝、ベルネ伯爵家に王宮からの通知が届いた。


 エドガーは居間でそれを開き、二度読み、三度目でようやく意味が分かった。治水貸付の返済と、堤の完成報告の期限について。期日までに履行されない場合は、担保であるベルネ家の森を差し押さえる。


「ミレイユ、積立金はどうなっている」


 ミレイユは鏡の前で、新しい夜会服の袖を合わせていた。淡い桃色の絹に、真珠がいくつも縫いつけてある。


「使ったわ。だってエドガー様、いいって言ったじゃない」


 言った。ひと月前、跡取りとして初めて出る夜会なのだから、みすぼらしい格好はさせられないと。金庫の一番下の段に手つかずの金があると聞いたときも、それが何の金なのかは確かめなかった。その翌週から、堤の職人たちは来なくなった。払う金が、もう金庫になかったからだ。


「ベルトラン! 引き継ぎ書を持ってこい」


 家令は、呼ばれるのを待っていたかのように、すぐに綴りを持って現れた。ひと月前の書斎で、誰も手を伸ばさなかった、指二本分の厚みの綴り。


 エドガーは初めてそれを開いた。


 開いてから、読み方が分からないことに気づいた。帳簿の欄の意味も、貸付と積立の違いも、彼は誰にも教わったことがなかった。婿入りすれば、クラリスが隣にいる。三年のあいだ、そう思っていた。


 それでも、一行ずつ指でたどりながら頁をめくった。


 一枚目に目次があった。二枚目から、月ごとの返済計画が並んでいた。その先には、王宮への税の申告書と、堤の完成報告書の下書き。数字はすべて埋まり、あとは署名と日付を入れるだけになっている。最後の頁には、見覚えのある几帳面な字で、こう書かれていた。


 ――積立金から残りの工事代を払い、収穫祭の翌日までに返済すること。積立金には、ほかの用途で手をつけないこと。これだけ守れば、森も村も守れます。


 エドガーは頁をめくる手を止めた。


「……これだけ、だったのか」


「さようでございます」


 ベルトランの声は、いつもどおり穏やかだった。


「お嬢様は、すべて用意していかれました。お読みになれば、済みました」


「……クラリスは、今どこにいる」


「ヴァルデン侯爵家で、書記官としてお勤めです。お発ちの朝、あちらへのお手紙を早馬で届けさせたのは、わたくしでございます」


 エドガーは綴りを閉じ、あの日の合意書の写しを引き寄せた。公証役の印の下に、自分の名前がある。その上の条項を、今度は最後まで読んだ。


 治水貸付の返済責任は、跡取りとその配偶者が負う。配偶者には婚約者を含む。


 自分の、流れるような字。あのとき読まなかった一行の中に、自分がいた。


 その日の午後、ロシュ侯爵家から手紙が届いた。父からで、書かれていたのは短い言葉だけだった。


 ――ベルネの娘ならどちらでも同じだと言ったのは、確かに私だ。だが、選んだのはお前だ。尻拭いはしない。


「エドガー様、どうしたの? 怖い顔」


 ミレイユが袖を揺らしながら覗き込んでくる。エドガーは綴りを彼女の前に置いた。


「これを、読んだか」


「読むわけないじゃない。だって、お姉様がやると思ってたんだもの」


 ミレイユは本当に不思議そうに言った。悪気のかけらもない声だった。


 エドガーは、ひと月前の居間を思い出していた。君は僕がいなくても平気な顔をしている、と彼は言った。平気な顔をした婚約者が、夜ごと何をしていたのか。この家へ通った三年のあいだ、一度も知ろうとしなかった。


「……ヴァルデンへ行く」


 扉が開いて、アデルが入ってきた。手には、王宮からの通知の写しが握られていた。


「エドガー様、ご覧になった? 森ですって。あの森は、わたくしがお嫁に来たときから――」


「義母上。積立金を夜会に回すと決めたとき、止めなかったのは僕です」


 エドガーの声は、自分で思っていたより低かった。アデルは瞬きをして、すぐに首を振った。


「そんなの、クラリスを呼び戻せばいいのよ。あの子なら何とかするわ。姉なんだから」


「そうよ。お姉様は家族なんだもの。きっと帰ってきてくれるわ」


 ミレイユの髪で、鼈甲の櫛が光っていた。


◇


 母とエドガー様がヴァルデン侯爵邸を訪ねてきたのは、収穫祭の五日前だった。


 応接間に通された母は、私を見るなり立ち上がった。


「クラリス。帰ってきなさい」


 挨拶も、元気にしていたかの一言もなかった。それがあまりに母らしくて、私は少しだけ笑いそうになった。


 閣下は部屋の隅の椅子に座っていた。今日は同席するだけで口は挟まない、と朝のうちに約束してもらってある。彼は黙って腕を組んでいた。


 母は、私の着ているものに目を留めた。飾りのない紺の仕事着に、インクよけの袖覆い。ベルネにいた頃、客の前でこんな格好をしていたら叱られただろう。


「なんて格好をしているの。伯爵家の娘が」


「書記官ですので。……お母様、ご用件をどうぞ」


「用件も何もないでしょう。家族なのよ。ミレイユには、あなたの仕事はできないの。あの子は体が弱いんだから」


「ミレイユはこの二年、風邪ひとつ引いていません」


 母が口をつぐんだ。私がそれを口にしたのは、生まれて初めてだった。


「……とにかく、王宮から通知が来ているの。森が取られるかもしれないのよ。あなたが戻って、全部やってくれれば」


「引き継ぎ書は、すべて置いてきました。返済計画も、申告書の下書きも。積立金を使わずに、期日に払えば済むように」


「その積立金を、ミレイユの夜会に使ってしまったのよ!」


 驚きはしなかった。そうなるかもしれない、と思わなかったと言えば嘘になる。けれど私は、それを止める立場をもう持っていない。譲ったのだから。


「譲りなさいと仰ったのは、お母様です」


 私は膝の上で手を重ねたまま、言った。


「私は、言われたとおりにいたしました。婚約者も、跡取りの座も、家も。全部お譲りしました。譲ったものを返していただくつもりはありませんし、取り返しに戻るつもりもありません」


「クラリス」


 エドガー様が身を乗り出した。ひと月会わないうちに、ずいぶん顔色が悪くなっていた。


「僕が悪かった。引き継ぎ書を読んだんだ。あれを全部、君が一人で……。君がいなくなって、やっと分かった。君は、僕がいなくても平気だっただろう。でも、僕は――」


「ええ」


 彼の言葉が終わるのを待たずに、私は言った。


「平気な顔をするのが、あの家での私の仕事でしたから」


 エドガー様は、口を開けたまま黙った。


 母の目が、私の重ねた手に落ちた。インクの染みが取れなくなった指先。十五の春から、毎晩帳簿をつけてきた手だ。母はそれを、見知らぬ人の手のように見つめていた。


「あなた、何が……」


 母はそこまで言って、唇を結んだ。その先を聞けば、答えが返ってくる。十九年間一度も聞かなかった問いの答えを、母はたぶん、受け止める自信がなかったのだと思う。


 私も、答えなかった。聞かれていない問いに答える必要はない。


「お断りします」


 はっきりと言った。


「私はここで、書記官として雇われています。ベルネには戻りません。それが、私の選んだことです」


「クラリス、わがままを言わないで。姉なんだから――」


 その続きを、私はもう聞かなくていいのだと思った。


 閣下が、椅子から立ち上がった。


「書記官は勤務中です。お引き取りを」


 低く、短い声だった。


 母はしばらく立ち尽くしていたが、エドガー様に腕を引かれて出ていった。扉が閉まる前に、一度だけ振り返った。唇が動いたが、声にはならないまま閉じた。


 応接間に静けさが戻った。私は膝の上の手を開いた。指先が、ひどく冷たくなっていた。


「……勤務中、でしたか」


「条件を守るのは、なかなか骨が折れました」


 閣下は腕組みをほどいて、少し困ったように言った。


「何度か、口を出しそうになった」


「知っています。三回、椅子の肘掛けを握っていらっしゃいました」


「数えていたんですか」


「数えるのは、癖なので」


 閣下が声を立てて笑った。私も笑った。冷たかった指先に、少しずつ血が戻ってくるのが分かった。


◇


 収穫祭の三日後、私は閣下と並んで、夕暮れの堤を歩いていた。


 ヴァルデン側の修繕は、期日どおりに終わっていた。境の向こう、ベルネ側の堤には手つかずの区間が残っている。それでも下流の村には、一滴の水も回っていない。私が組み直した水門の手順を、ヴァルデンの水門番と下流の村の人たちが、交代で守ってくれたからだ。


 川面が夕日を映して、金色に揺れていた。二年前の夜、泥と雨しか見えなかった同じ場所とは思えない。


「閣下」


「はい」


「祖母に、昔聞かれたことがあるんです。あなたの欲しいものは何、と」


 閣下は歩みをゆるめた。


「答えられませんでした。欲しいと言ったものは、いつかミレイユのものになると思っていたので。見つかったら一番に教えて、と言われて、そのまま祖母は亡くなりました」


 私は足を止めた。閣下も止まった。


「欲しいものを、欲しいと言ってもいいですか」


「どうぞ」


 短い返事だった。書簡の字と同じ、角ばった、けれど少しも急かさない声。


「あなたに、申し込んでいただきたいのです。いずれ、ではなく。今」


 言ってしまってから、耳まで熱くなった。十九年分言わずにきた言葉を、一度に使い切ってしまった気がした。


 閣下は、しばらく何も言わなかった。それから私の前に片膝をつき、私の右手を取った。日に焼けた、乾いた手だった。


「クラリス・ベルネ嬢。私と結婚していただけますか。書記官は辞めなくていい。あなたのことは、あなたが選んでください。私はそれを、いちばん近くで見ていたい」


「はい」


 今度は、すぐに答えられた。


 閣下は私の手の甲に、そっと唇を寄せた。


「……クラリス、と呼んでも?」


「はい。私も――ルーカス様、とお呼びしても」


「ずっと、そう呼ばれたかった」


 ルーカス様は立ち上がって、笑った。書簡の角ばった字からは想像もできない、少し子どもっぽい笑い方だった。


 おばあ様、見つかりました。一番に教えるのが、ずいぶん遅くなってしまいました。


 帰り道、ルーカス様は私の手を離さなかった。私も、離さなかった。堤の上を、二人分の影が長く伸びていく。屋敷の灯りが見えてきたところで、彼が言った。


「今夜も、蝋燭を一本置いておきます」


「……あれは、あなたでしたか」


「ほかに誰がいるんです」


「厨房の方かと。お礼を言いそびれていました」


「では、今言ってください」


「ありがとうございます、ルーカス様」


「どういたしまして。明日からは、二本にしましょうか」


「一本で足ります。夜更かしをしないと、約束しますから」


 ルーカス様は、それはどうだろう、という顔をした。二年分の書簡の返事に、私がいつも「夜分に失礼いたします」と書き添えていたことを、この人は知っているのだ。


 ベルネ伯爵家のその後は、ベルトランからの手紙で知った。期日までに返済が間に合わず、担保の森は王家に差し押さえられた。ロシュ侯爵家はエドガー様を呼び戻したという。母は、しばらく部屋から出てこないらしい。


 手紙の最後には、こう書き添えてあった。


 ――ミレイユお嬢様が、生まれて初めて帳簿をお開きになりました。一頁目で三度、わたくしをお呼びになりましたが、閉じはなさいませんでした。


 私はその手紙を、祖母の旅行鞄の内ポケットにしまった。鞄の中には書簡の束と、今日ルーカス様と交わした婚約の書面が入っている。


 今度の書面は、最後の一行まで、二人で読んでから署名した。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

譲ってばかりだったクラリスが、自分の欲しいものを口にできるまでのお話でした。

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