「姉なんだから譲りなさい」と母が言うので、婚約者も家も譲ることにしました
「姉なんだから譲りなさい」
夕食の皿が下げられた居間で、母はいつもの言葉を、いつもの調子で言った。紅茶に砂糖を落とすのと同じくらい、迷いのない声だった。
「お姉様、エドガー様をちょうだい」
ミレイユが私の婚約者の腕に手を添えたまま、首をかしげる。十七になっても、欲しいものをねだるときの仕草は五つの頃と変わらない。
エドガー様は、その手を振りほどかなかった。
「クラリス、怒らないで聞いてほしい。ミレイユの方が、僕を必要としてくれるんだ。君は僕がいなくても平気な顔をしているだろう」
父は暖炉のそばの椅子で新聞を広げたまま、紙の端さえ動かさなかった。
母は私の返事を待っていなかった。待つ必要がないと知っているからだ。この家で私が「いいえ」と言ったことは、記憶にある限り一度もない。
私は膝の上で指を折った。声には出さず、数えるだけだ。
六つのとき、祖母がくれた青い目の人形。ミレイユが熱を出して泣いたので、枕元に置いてあげなさいと言われ、それきり返ってこなかった。
十の誕生日。ケーキの蝋燭を吹き消したのはミレイユだった。あの子は体が弱いのだから、楽しい思いをさせてあげて。私の名前が書かれた砂糖菓子の板は、翌朝、妹の皿の端に割れて残っていた。
十四のとき、祖母の形見の櫛。鼈甲の櫛は今、ミレイユの髪に挿さっている。今夜も挿さっている。
指が三本折れたところで、数えるのをやめた。あとは多すぎて、片手では足りない。
「聞いているの、クラリス」
「はい、お母様」
「ミレイユは小さい頃から体が弱くて、何も持っていないのよ。あなたは丈夫で、何でもできるでしょう。一つくらい譲ったって困らないわ」
ミレイユの頬は健康そうに色づいていた。この二年、風邪ひとつ引いていない。それを口にしたことは一度もなかったし、今夜も言うつもりはなかった。
「政略なんだから、伯爵家の娘ならどちらでも同じだと父上も言っている。君だって、僕に特別な気持ちがあったわけじゃないだろう?」
三年間、エドガー様が我が家へ来るたびに、私は帳簿を閉じて客間へ出た。彼が話すのは狩りと夜会と新しい上着のことで、堤の話を始めると決まって窓の外を眺めた。特別な気持ちがあったかどうか、確かめる暇もなかった。
それでも、この人と家を守っていくのだと思っていた。明日の朝も帳簿を開き、秋には堤の修繕を終わらせ、十年後も二十年後も、この居間で譲り続けるのだと。
今度は何を譲るのか。婚約者。それだけで済むと、母は本気で思っている。
私は折っていた指を開いて、膝の上で重ねた。
「分かりました。譲ります」
ミレイユが歓声を上げ、エドガー様がほっとしたように肩を下ろした。母は満足げにうなずいた。
「ただ」
三人の顔がこちらを向いた。父の新聞が、初めて少しだけ下がった。
「この婚約は、ベルネ伯爵家の跡取りとエドガー様との婚約です。ロシュ侯爵家との契約書にそう書いてあります。ですから、婚約者をお譲りするなら、跡取りの座も一緒にお譲りしなければなりません」
しんとした居間に、暖炉の薪のはぜる音がした。
「まあ」と母が言った。「最初からそう言えばいいのよ。あなたはいつも、言い方が回りくどいんだから」
「お姉様、いいの? 本当に全部?」
「ええ。全部」
「よかったわね、ミレイユ」母が目を細めた。「ほら、お姉様にお礼を言いなさい」
「ありがとう、お姉様。大好き」
ミレイユが私に抱きついてきた。髪の櫛が頬に当たって、少し冷たかった。
エドガー様は、私の顔を見なかった。紅茶を口に運び、ミレイユの肩越しに母へ会釈した。話がまとまったことを、この家でいちばん偉い人に報告するみたいに。
父は新聞を元の高さに戻した。
◇
翌日の午後、父の書斎に王宮の公証役が来た。
呼んだのは私だ。朝いちばんに家令のベルトランへ頼み、町の出張所まで馬車を出してもらった。継承権の放棄は、本人と当主の署名に公証役の認証が揃わなければ、効力を持たない。十五で父の代わりに帳簿をつけるようになったとき、ベルトランに教わったことの一つだった。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
書類を並べながら、ベルトランが小声で聞いた。私が答える前に、母が扉を開けた。
「早く済ませてちょうだい。午後はミレイユの仕立て屋が来るのよ」
公証役は灰色の髭の、口数の少ない人だった。二通の書面を机に広げ、一通目を読み上げる。クラリス・ベルネはベルネ伯爵家の継承権を放棄し、これを次女ミレイユ・ベルネに譲る。二通目は、ロシュ侯爵家との婚約契約にある「ベルネ伯爵家の跡取り」を、ミレイユ・ベルネと読み替える合意書だった。
父はペンを受け取ると、読み上げが終わる前に署名した。
「お父様、まだ条項が」
「お前が用意したのなら間違いはないだろう」
父はそう言って、インクが乾くのも待たずに書斎を出ていった。昔からそうだった。私が差し出す書類なら、父は何でも読まずに署名した。それを信頼と呼ぶのか、面倒から逃げていると呼ぶのか、私には長いあいだ分からなかった。
私は、ゆうべ夜更けまでかかってまとめた綴りを机に置いた。指二本分の厚みがある。
「これが引き継ぎ書です。領地の帳簿、借入の返済計画、王宮への税の申告書の下書き。それから、二年前の水害で壊れた堤の修繕について」
ミレイユは頁の端をつまんで持ち上げ、すぐに落とした。
「数字ばっかり。退屈」
「退屈でも、読んでちょうだい。とくに最後の頁。堤の修繕は王家の治水貸付で行っています。返済と完成報告の期限は、秋の収穫祭の翌日よ」
「はいはい」
「収穫祭の翌日よ、ミレイユ。金庫の積立金は、堤の残りの工事代と返済のためのお金。あれに手をつけずに払っていけば、工事は期日までに終わって、報告書を王宮へ出せる。そうなるように、全部揃えてあるから」
同じことを二度言った。ミレイユは綴りを脇へ押しやり、エドガー様の袖を引いた。
「ねえ、署名ってどこにするの?」
公証役が咳払いをして、合意書の後半を指で示した。
「念のため申し上げます。治水貸付の返済責任は、跡取りとその配偶者が負います。配偶者には婚約者を含みます。つまり、エドガー・ロシュ殿も――」
「細かいことはいいから」
母が遮った。
「どうせ家令がやるんでしょう。そういう仕事のために雇っているのよ」
「お母様。期日に遅れれば、担保の森が王家に差し押さえられます。森は」
「だから、家令がやるって言っているでしょう。あなたはもう跡取りじゃないのよ、クラリス。口を出さないでちょうだい」
署名はまだ半分しか済んでいないのだけれど、と思った。言わなかった。
公証役は私を見た。私は何も言わなかった。条項は一度、読み上げられかけている。書面にも書いてある。読むかどうかは、署名する人が決めることだ。
私は二通の書面を引き寄せ、一枚目から最後の条項まで読んだ。それから、継承権の放棄の欄に自分の名前を書いた。ペン先は、思っていたより震えなかった。
エドガー様は合意書の冒頭にある「ベルネ伯爵家の跡取り」という文字を満足げに眺めて、流れるような字で名前を書いた。ミレイユは自分の名前の横に、小さな花の絵まで添えた。
「これでお姉様のもの、全部私のね」
「ええ。全部あなたのものよ」
公証役が印を押した。乾いた音が、書斎に一度だけ響いた。
引き継ぎ書は机の端に残っていた。誰も手を伸ばさないそれを、最後にベルトランが両手で受け取った。
「……確かに、お預かりいたします」
その手は少し震えていた。私に帳簿の読み方を教えてくれたときと同じ、節の太い手だった。
皆が出ていったあと、書斎には私とベルトランだけが残った。
「お嬢様。わたくしは家令です。旦那様と、跡取りの方のご命令に従います」
「知っているわ」
「跡取りの方に金庫を開けよと命じられれば、積立金であっても、わたくしにはお断りできません」
「それも、知っている」
私は空になった机を眺めた。十五の春から毎晩座ってきた椅子が、急に他人のもののように見えた。
「だから、読んでもらえるように、できるだけ分かりやすく書いたの。それ以上のことは、もう私の仕事ではないわ」
◇
荷物は、祖母の旅行鞄ひとつに収まった。
革の角がすり切れた古い鞄だ。祖母が若い頃に使っていたもので、形見分けのとき誰も欲しがらなかったから、私のものになった。私の持ち物のうち、ミレイユが一度も欲しがらなかった数少ないものの一つでもある。
着替えを三組。筆記具と、使い慣れた算盤。それから、紐でくくった書簡の束。
ドレスは置いていくことにした。夜会用のものは、どうせ次の季節にはミレイユの体に合わせて仕立て直される。宝石箱も開けなかった。中に入っていた祖母の櫛は、もうそこにない。
束をほどくと、見慣れた字が並んでいた。角ばっていて、行の終わりが少し右へ上がる字。ヴァルデン侯爵閣下からの書簡は、この二年で四十通を超えた。堤の土の配合、下流の水位、雨季の見回りの順番。書いてあるのは仕事のことだけで、私が返す手紙もそうだった。
いちばん新しい一通の、最後の一行を指でなぞる。
――書記官を探している。あなたのような人を。
読んだのはひと月前だった。返事に、その一行のことは書かなかった。私は跡取りで、婚約者がいて、ベルネの堤を離れられない人間だったから。
机に紙を広げ、応募の手紙を書いた。
一枚目は、書き出しが謝罪になっていた。突然のお願いで申し訳ありません、ご迷惑でしたら――。読み返して、破った。
二枚目には、できることだけを書いた。帳簿、申告、治水の段取り。ベルネ伯爵家の継承権を放棄したこと。以後、実家の件は私個人とは関わりがないこと。最後に一行だけ、書き足した。
――あなたの書簡の最後の一行を、お受けしたく存じます。
封をしてから、ふと祖母の声を思い出した。
「クラリス、あなたの欲しいものは何?」
八つか九つの頃だった。祖母の膝の上で、そう聞かれた。私はしばらく考えて、何も答えられなかった。欲しいと言えば、それはいずれミレイユのものになる。口に出す前から、身体がそう覚えていた。
「そう。じゃあ、見つかったら一番に教えてちょうだいね」
祖母はその冬に亡くなった。私はまだ、答えを教えていない。
玄関へ下りると、母がいた。
「どこへ行くの、そんな鞄を持って」
「家もお譲りしましたので」
母は眉をひそめ、何か言おうとして、結局言わなかった。ミレイユはまだ寝ているらしい。父は階段の上にいて、私と目が合うと、窓の外へ視線を逸らした。
ベルトランだけが、門の外まで鞄を運んでくれた。
「お手紙は、わたくしが早馬で届けさせます」
「ありがとう、ベルトラン。……引き継ぎ書を、お願いね」
「命に代えましても」
「命はいらないわ。期限だけ、守ってちょうだい」
彼は笑おうとして、うまく笑えなかった。
乗合馬車の窓から、ベルネの屋敷が遠ざかっていく。鞄は膝の上で驚くほど軽かった。軽すぎて、どこかへ飛んでいってしまいそうで、私は取っ手を両手で握りしめていた。
◇
ヴァルデン侯爵邸は、堤を見下ろす丘の上にあった。
通された執務室は、机の上まで書類で埋まっていた。そのいちばん上に、私の応募の手紙が開いたまま置いてある。
「遠いところを、よく来てくださいました。ベルネ嬢」
ルーカス・ヴァルデン侯爵閣下は、立ち上がって私を迎えた。背が高く、日に焼けた手をしている。二年前の水害の夜に一度会ったきりで、あとは字でしか知らない人だった。話し方も書簡の字と同じく、角ばっていて丁寧だった。
閣下は椅子を勧めると、前置きなしに一枚の紙を差し出した。
「書記官の職です。俸給はこの額。部屋は東棟に用意しました。治水と領地の帳簿を見ていただきたい。休日は七日に一度」
書かれている俸給は、ベルネの家令の倍に近かった。
「……多すぎます」
「前任者二人分の仕事を、あなたは一人でなさるでしょう。少ないくらいです」
私は紙を膝に置き、一度だけ深く息を吸った。ここで黙ってうなずけば、きっと楽だ。けれど、黙ってうなずいて、譲って、それで収めることを、私はもう十九年も続けてきた。
「お受けする前に、条件を申し上げてもよろしいですか」
「どうぞ」
「一つ目。私を仕事として雇ってください。行き場のない娘を置いてやる、というおつもりなら、お断りします」
「承知しました」
「二つ目。実家の件には、口を出さないでください。私が自分で片をつけます」
「承知しました」
「三つ目。……同情で、ここに置かないでください」
閣下は、少しだけ目を細めた。
「一つ目と三つ目は、同じことを言っているように聞こえますが」
「大事なことなので、二度申し上げました」
今度ははっきりと、彼の口元がゆるんだ。
「では、三つとも承知しました」
それから閣下は、窓の外の堤へ目を向けた。
「同情ではない理由を、一つだけ話しておきます。二年前の夜のことを覚えていますか」
覚えていた。雨が横から叩きつけ、境の堤が切れた夜。私は泥の中で帳面を広げ、土嚢の数と人の数を書きつけていた。
「あなたは、自分の領地の畑より先に、下流の村へ土嚢を回すと決めた。あの村はベルネ領でもヴァルデン領でもない、王領の小さな村です。守っても、誰にも褒められない」
「村には、逃げ遅れたお年寄りが十一人いましたから」
「そうです。あなたは数えていた」閣下は静かに言った。「私はあのとき、自分の領地のことしか考えていなかった。翌朝、村が無事だったと聞いて、恥ずかしくなった。それからずっと、あなたの字を待っていました」
私は返事ができなかった。四十通の書簡のどこにも、そんなことは書いていなかった。
「もう一つ」閣下は私に向き直った。「いずれ、別のことを申し込むつもりです。今ではない」
「……それは、条件に含まれますか」
「含まれません。あなたが断っても、書記官の職はそのままです」
書記官としての日々は、思っていたよりずっと騒がしかった。
朝の打ち合わせで、閣下は毎回私に意見を求めた。最初の三日、私はそのたびに「閣下のお考えのとおりに」と答え、四日目に「それでは答えになっていない」と言われた。五日目、堤の補強の順番について、私は閣下の案と違うことを言った。彼は地図を眺めてしばらく黙り、それから私の案を採った。
食堂では、年配の女性書記官が、私の皿にだけ肉を一切れ多く載せた。
「あんた、細すぎるよ。数字ばっかり食べてきた顔してる」
「数字は、おいしくありませんでした」
「だろうね。ほら、冷めないうちに」
スープを冷める前に飲み干したのは、いつ以来だろう。ベルネでは、食事の途中で帳簿のことを聞かれて席を立つのが常だった。
夜は、堤のヴァルデン側から見たベルネ側の図面を広げた。ベルネの修繕が遅れても下流の村に水が回らないよう、こちらの水門を開け閉めする手順を組み直す。閣下はその図面を見て、一言だけ言った。
「実家の件に口を出すなと言ったのは、あなたでしたね」
「これは実家の件ではありません。村の件です」
「……なるほど」
その夜から、私の机の上には、頼んでいない蝋燭の替えが毎晩一本ずつ置かれるようになった。
◇
収穫祭まで十日を残した朝、ベルネ伯爵家に王宮からの通知が届いた。
エドガーは居間でそれを開き、二度読み、三度目でようやく意味が分かった。治水貸付の返済と、堤の完成報告の期限について。期日までに履行されない場合は、担保であるベルネ家の森を差し押さえる。
「ミレイユ、積立金はどうなっている」
ミレイユは鏡の前で、新しい夜会服の袖を合わせていた。淡い桃色の絹に、真珠がいくつも縫いつけてある。
「使ったわ。だってエドガー様、いいって言ったじゃない」
言った。ひと月前、跡取りとして初めて出る夜会なのだから、みすぼらしい格好はさせられないと。金庫の一番下の段に手つかずの金があると聞いたときも、それが何の金なのかは確かめなかった。その翌週から、堤の職人たちは来なくなった。払う金が、もう金庫になかったからだ。
「ベルトラン! 引き継ぎ書を持ってこい」
家令は、呼ばれるのを待っていたかのように、すぐに綴りを持って現れた。ひと月前の書斎で、誰も手を伸ばさなかった、指二本分の厚みの綴り。
エドガーは初めてそれを開いた。
開いてから、読み方が分からないことに気づいた。帳簿の欄の意味も、貸付と積立の違いも、彼は誰にも教わったことがなかった。婿入りすれば、クラリスが隣にいる。三年のあいだ、そう思っていた。
それでも、一行ずつ指でたどりながら頁をめくった。
一枚目に目次があった。二枚目から、月ごとの返済計画が並んでいた。その先には、王宮への税の申告書と、堤の完成報告書の下書き。数字はすべて埋まり、あとは署名と日付を入れるだけになっている。最後の頁には、見覚えのある几帳面な字で、こう書かれていた。
――積立金から残りの工事代を払い、収穫祭の翌日までに返済すること。積立金には、ほかの用途で手をつけないこと。これだけ守れば、森も村も守れます。
エドガーは頁をめくる手を止めた。
「……これだけ、だったのか」
「さようでございます」
ベルトランの声は、いつもどおり穏やかだった。
「お嬢様は、すべて用意していかれました。お読みになれば、済みました」
「……クラリスは、今どこにいる」
「ヴァルデン侯爵家で、書記官としてお勤めです。お発ちの朝、あちらへのお手紙を早馬で届けさせたのは、わたくしでございます」
エドガーは綴りを閉じ、あの日の合意書の写しを引き寄せた。公証役の印の下に、自分の名前がある。その上の条項を、今度は最後まで読んだ。
治水貸付の返済責任は、跡取りとその配偶者が負う。配偶者には婚約者を含む。
自分の、流れるような字。あのとき読まなかった一行の中に、自分がいた。
その日の午後、ロシュ侯爵家から手紙が届いた。父からで、書かれていたのは短い言葉だけだった。
――ベルネの娘ならどちらでも同じだと言ったのは、確かに私だ。だが、選んだのはお前だ。尻拭いはしない。
「エドガー様、どうしたの? 怖い顔」
ミレイユが袖を揺らしながら覗き込んでくる。エドガーは綴りを彼女の前に置いた。
「これを、読んだか」
「読むわけないじゃない。だって、お姉様がやると思ってたんだもの」
ミレイユは本当に不思議そうに言った。悪気のかけらもない声だった。
エドガーは、ひと月前の居間を思い出していた。君は僕がいなくても平気な顔をしている、と彼は言った。平気な顔をした婚約者が、夜ごと何をしていたのか。この家へ通った三年のあいだ、一度も知ろうとしなかった。
「……ヴァルデンへ行く」
扉が開いて、アデルが入ってきた。手には、王宮からの通知の写しが握られていた。
「エドガー様、ご覧になった? 森ですって。あの森は、わたくしがお嫁に来たときから――」
「義母上。積立金を夜会に回すと決めたとき、止めなかったのは僕です」
エドガーの声は、自分で思っていたより低かった。アデルは瞬きをして、すぐに首を振った。
「そんなの、クラリスを呼び戻せばいいのよ。あの子なら何とかするわ。姉なんだから」
「そうよ。お姉様は家族なんだもの。きっと帰ってきてくれるわ」
ミレイユの髪で、鼈甲の櫛が光っていた。
◇
母とエドガー様がヴァルデン侯爵邸を訪ねてきたのは、収穫祭の五日前だった。
応接間に通された母は、私を見るなり立ち上がった。
「クラリス。帰ってきなさい」
挨拶も、元気にしていたかの一言もなかった。それがあまりに母らしくて、私は少しだけ笑いそうになった。
閣下は部屋の隅の椅子に座っていた。今日は同席するだけで口は挟まない、と朝のうちに約束してもらってある。彼は黙って腕を組んでいた。
母は、私の着ているものに目を留めた。飾りのない紺の仕事着に、インクよけの袖覆い。ベルネにいた頃、客の前でこんな格好をしていたら叱られただろう。
「なんて格好をしているの。伯爵家の娘が」
「書記官ですので。……お母様、ご用件をどうぞ」
「用件も何もないでしょう。家族なのよ。ミレイユには、あなたの仕事はできないの。あの子は体が弱いんだから」
「ミレイユはこの二年、風邪ひとつ引いていません」
母が口をつぐんだ。私がそれを口にしたのは、生まれて初めてだった。
「……とにかく、王宮から通知が来ているの。森が取られるかもしれないのよ。あなたが戻って、全部やってくれれば」
「引き継ぎ書は、すべて置いてきました。返済計画も、申告書の下書きも。積立金を使わずに、期日に払えば済むように」
「その積立金を、ミレイユの夜会に使ってしまったのよ!」
驚きはしなかった。そうなるかもしれない、と思わなかったと言えば嘘になる。けれど私は、それを止める立場をもう持っていない。譲ったのだから。
「譲りなさいと仰ったのは、お母様です」
私は膝の上で手を重ねたまま、言った。
「私は、言われたとおりにいたしました。婚約者も、跡取りの座も、家も。全部お譲りしました。譲ったものを返していただくつもりはありませんし、取り返しに戻るつもりもありません」
「クラリス」
エドガー様が身を乗り出した。ひと月会わないうちに、ずいぶん顔色が悪くなっていた。
「僕が悪かった。引き継ぎ書を読んだんだ。あれを全部、君が一人で……。君がいなくなって、やっと分かった。君は、僕がいなくても平気だっただろう。でも、僕は――」
「ええ」
彼の言葉が終わるのを待たずに、私は言った。
「平気な顔をするのが、あの家での私の仕事でしたから」
エドガー様は、口を開けたまま黙った。
母の目が、私の重ねた手に落ちた。インクの染みが取れなくなった指先。十五の春から、毎晩帳簿をつけてきた手だ。母はそれを、見知らぬ人の手のように見つめていた。
「あなた、何が……」
母はそこまで言って、唇を結んだ。その先を聞けば、答えが返ってくる。十九年間一度も聞かなかった問いの答えを、母はたぶん、受け止める自信がなかったのだと思う。
私も、答えなかった。聞かれていない問いに答える必要はない。
「お断りします」
はっきりと言った。
「私はここで、書記官として雇われています。ベルネには戻りません。それが、私の選んだことです」
「クラリス、わがままを言わないで。姉なんだから――」
その続きを、私はもう聞かなくていいのだと思った。
閣下が、椅子から立ち上がった。
「書記官は勤務中です。お引き取りを」
低く、短い声だった。
母はしばらく立ち尽くしていたが、エドガー様に腕を引かれて出ていった。扉が閉まる前に、一度だけ振り返った。唇が動いたが、声にはならないまま閉じた。
応接間に静けさが戻った。私は膝の上の手を開いた。指先が、ひどく冷たくなっていた。
「……勤務中、でしたか」
「条件を守るのは、なかなか骨が折れました」
閣下は腕組みをほどいて、少し困ったように言った。
「何度か、口を出しそうになった」
「知っています。三回、椅子の肘掛けを握っていらっしゃいました」
「数えていたんですか」
「数えるのは、癖なので」
閣下が声を立てて笑った。私も笑った。冷たかった指先に、少しずつ血が戻ってくるのが分かった。
◇
収穫祭の三日後、私は閣下と並んで、夕暮れの堤を歩いていた。
ヴァルデン側の修繕は、期日どおりに終わっていた。境の向こう、ベルネ側の堤には手つかずの区間が残っている。それでも下流の村には、一滴の水も回っていない。私が組み直した水門の手順を、ヴァルデンの水門番と下流の村の人たちが、交代で守ってくれたからだ。
川面が夕日を映して、金色に揺れていた。二年前の夜、泥と雨しか見えなかった同じ場所とは思えない。
「閣下」
「はい」
「祖母に、昔聞かれたことがあるんです。あなたの欲しいものは何、と」
閣下は歩みをゆるめた。
「答えられませんでした。欲しいと言ったものは、いつかミレイユのものになると思っていたので。見つかったら一番に教えて、と言われて、そのまま祖母は亡くなりました」
私は足を止めた。閣下も止まった。
「欲しいものを、欲しいと言ってもいいですか」
「どうぞ」
短い返事だった。書簡の字と同じ、角ばった、けれど少しも急かさない声。
「あなたに、申し込んでいただきたいのです。いずれ、ではなく。今」
言ってしまってから、耳まで熱くなった。十九年分言わずにきた言葉を、一度に使い切ってしまった気がした。
閣下は、しばらく何も言わなかった。それから私の前に片膝をつき、私の右手を取った。日に焼けた、乾いた手だった。
「クラリス・ベルネ嬢。私と結婚していただけますか。書記官は辞めなくていい。あなたのことは、あなたが選んでください。私はそれを、いちばん近くで見ていたい」
「はい」
今度は、すぐに答えられた。
閣下は私の手の甲に、そっと唇を寄せた。
「……クラリス、と呼んでも?」
「はい。私も――ルーカス様、とお呼びしても」
「ずっと、そう呼ばれたかった」
ルーカス様は立ち上がって、笑った。書簡の角ばった字からは想像もできない、少し子どもっぽい笑い方だった。
おばあ様、見つかりました。一番に教えるのが、ずいぶん遅くなってしまいました。
帰り道、ルーカス様は私の手を離さなかった。私も、離さなかった。堤の上を、二人分の影が長く伸びていく。屋敷の灯りが見えてきたところで、彼が言った。
「今夜も、蝋燭を一本置いておきます」
「……あれは、あなたでしたか」
「ほかに誰がいるんです」
「厨房の方かと。お礼を言いそびれていました」
「では、今言ってください」
「ありがとうございます、ルーカス様」
「どういたしまして。明日からは、二本にしましょうか」
「一本で足ります。夜更かしをしないと、約束しますから」
ルーカス様は、それはどうだろう、という顔をした。二年分の書簡の返事に、私がいつも「夜分に失礼いたします」と書き添えていたことを、この人は知っているのだ。
ベルネ伯爵家のその後は、ベルトランからの手紙で知った。期日までに返済が間に合わず、担保の森は王家に差し押さえられた。ロシュ侯爵家はエドガー様を呼び戻したという。母は、しばらく部屋から出てこないらしい。
手紙の最後には、こう書き添えてあった。
――ミレイユお嬢様が、生まれて初めて帳簿をお開きになりました。一頁目で三度、わたくしをお呼びになりましたが、閉じはなさいませんでした。
私はその手紙を、祖母の旅行鞄の内ポケットにしまった。鞄の中には書簡の束と、今日ルーカス様と交わした婚約の書面が入っている。
今度の書面は、最後の一行まで、二人で読んでから署名した。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
譲ってばかりだったクラリスが、自分の欲しいものを口にできるまでのお話でした。
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