「棚卸しなど、女の帳面ごっこだ」——国王を迎えた侯爵家は、出してはいけない皿を並べた
王の視察は、翌朝十時に始まる。
ベアトリーチェ・ランベルクは燭台を手に、厨房から客間へと続く廊下を一歩ずつ確かめていた。床の継ぎ目、壁の掛け布の位置、給仕台の銀器の向き。目が慣れた夜の廊下でも、指が自然に動いてわずかなずれを正す。
備忘帳に書いてある。今夜の最終確認事項は二十七項目。残り三つ。
厨房の扉を開けると、料理長のオット老人が振り向いた。白いエプロンに粉をつけたまま、こちらへ顔を向ける。
「明日の朝食のパン、仕込みは済みましたか」
「もちろんでございます、ベアトリーチェ様。ご心配なく」
「ありがとうございます。国王陛下は麦の外皮入りをお好みです。アルモンド入りのものは使用人向けにのみお使いください」
「心得ております」
オット老人は微笑んだ。一年前にこの屋敷に赴任してきたとき、厨房は混乱の極みだった。鍋の置き場も、発注の周期も、料理人の担当割りも、何一つ統一されていなかった。それがいまは違う。棚には明日の仕込みの食材が順番に並び、各人が何をいつやるかを把握している。
廊下に戻ると、フィリップ・ヴァルナー公爵が壁際に立っていた。ろうそくの灯りの中で腕を組み、こちらを見ている。三十代後半、鋭い目をしているが、口元だけが柔らかい。
「まだ起きていたのか」
「あと二項目です」とベアトリーチェは答えた。「明日のことは、すべてここにあります」
手の中の備忘帳をわずかに持ち上げると、公爵はかすかに笑った。
「信頼している」
「光栄です」
公爵は足音を立てずに廊下を去った。ベアトリーチェは帳面に視線を戻す。残り二項目。
六年前のことを、彼女はまだ時々夢に見た。
ベアトリーチェ・ランベルクがヘルムート侯爵家の婚約者となったのは、二十歳のときだった。
相手はランツ・フォン・ヘルムート。侯爵家の長男で、七歳年上。無口で、表情が読みにくかった。悪い人ではないと最初は思っていた。だが彼女が屋敷で役に立とうとするほど、ランツの目は別の場所を向いていった。
それでもベアトリーチェは仕事をやめなかった。
年末の棚卸しは、彼女の担当だった。地下倉庫と食料庫、薬品庫と衣料室。四か所、百三十二品目。冬の朝、燭台を手に石段を降りると、地下特有の湿った冷気が頬を打った。古い木の扉を開けるたびに、積み重なった匂いが押し寄せてくる。チーズの酸み、薬草の乾いた香り、麻袋の繊維のにおい。
一つ一つを手で確かめながら、使用量を計算し、翌年の発注量を算出する。二日かかる作業を一日半で終わらせた。
数字が特別得意なわけではない。ただ、抜け落ちがどこにあるかを体が知っていた。棚の重さ、積み方の微妙なずれ、去年と今年で香りの濃さが違う瓶。記憶が指に宿っている感覚だった。棚卸しを終えるたびに、この屋敷のことを自分が一番よく知っているのだという奇妙な安堵があった。
ランツはいちどもその作業を見に来なかった。報告書を読んでいる素振りもなかった。それでもベアトリーチェは翌年の発注書を書いた。書かなければ、誰も書かなかったから。
夏の農繁期には、使用人の配置換えを仕切った。農地作業に取られる人手と、屋敷に残す人員のバランスを一枚の表に書き出す。料理、洗濯、馬の世話、来客対応の優先順位。誰が何を苦手としていて、誰と誰が組むと機嫌よく動くか——そういうことも、すべて備忘帳に書き込んだ。
ある夏、来客の鶏料理を担当していた若い使用人が熱を出して倒れた。ベアトリーチェは備忘帳を開き、適切な人員を見つけて段取りを伝えた。客が席につく前に、料理は食卓に届いた。
「ランベルク様の段取り通りにやれば狂わない」
使用人たちが口にするようになったのは、そのころからだった。ベアトリーチェはその言葉を、素直に嬉しいと思っていた。
帳簿は月末に合わせていた。家令のベルクマンが持ってくる数字を照合し、食費・修繕費・人件費を整理する。ベルクマンは四十代の中肉の男で、眼鏡をかけ、礼儀正しく、決して慌てなかった。
二年目の秋、列の数字がずれたことがある。七百ターレルの差。
「この差はどこから来ていますか」
声を落として問うたベアトリーチェに、ベルクマンは眼鏡の奥の目を細めて答えた。「転記ミスです。お恥ずかしい」
そう言ったが、その目はどこかを見ていた。ベアトリーチェは腑に落ちなかった。ただ、言い争いにするつもりはなかった。帳簿の奥の欄に記号で書き留めた。差異が発生した時期。項目。金額。それだけを、誰にも解読できない記号で。ランツには報告しなかった。証拠が揃ってからにしようと思っていた。そして証拠が揃う前に、六年が過ぎた。
翌月の帳簿でまた差異が出た。再翌月も。四年目に気づいたときには、累計がずいぶんな額になっていた。それでも彼女は証拠を積んだ。記号で書き続けた。いつかランツに見せようと、ずっと思っていた。
六年間、ベアトリーチェはそうして働いた。
ランツが変わったのは、六年目の終わりごろだった。社交界の夜会のたびにマルガリータ・シュトッツという子爵令嬢の名が出るようになり、やがて彼の口から直接聞かされた。晴れた午後に、日当たりのよい窓際で。
「屋敷管理など女の暇仕事だろう。お前のような地味な女では、社交界で役に立たない」
ベアトリーチェは返事をしなかった。六年で、そういう言葉の受け流し方だけは上手くなっていた。
一週間後、ベルクマンがやってきた。
「婚約は解消されます。備忘帳はすべて、屋敷の財産として保管いたします」
六冊の帳面を差し出しながら、ベアトリーチェはベルクマンを見た。眼鏡の奥の目が、どこかを見ていた。六年分の記録を、この男はどう使う気なのだろう。マルガリータに渡すのだろう。だが記号の意味がわかるのは自分だけだ。それだけは、渡せない。
ベアトリーチェは帳面を渡した。
「六年分は、ここにあります」
静かに言った。声が揺れないように気をつけながら。
ベルクマンは帳面を受け取り、一礼してそのまま去った。廊下に残された朝の光が、床の木目をなぞっていた。ベアトリーチェはその光の中に一人立ち、しばらく動かなかった。
職を探して三か月が過ぎたころ、伝手を通じてヴァルナー公爵邸の下働きに雇われた。
屋敷は混乱していた。先代からの慣習と現在の使用人のやり方が噛み合わず、毎日の食事が時間通りに出ない。来客があれば給仕が慌てふためき、備品の発注は何か月も滞ったままだった。棚の奥には去年の食料が積まれ、腐りかけているものもあった。
ベアトリーチェはまず備忘帳を作ることから始めた。屋敷の間取りと使用人の担当を書き込み、動線を整理した。食材の在庫と消費量を把握し、発注の周期を決めた。使用人一人ひとりに話しかけながら得意不得意を確かめ、組み合わせを考えた。
三か月で、屋敷は別物になっていた。使用人たちも、最初は戸惑っていたが、やがてそれぞれ自分の仕事を把握して動くようになった。食事が時間通りに出るようになった。来客の前に使用人が慌てなくなった。小さなことだが、それがすべての基礎だとベアトリーチェは知っていた。
フィリップ・ヴァルナー公爵が最初に声をかけてきたのは、秋の終わりだった。廊下で帳面を確認していたベアトリーチェに、彼は足を止めた。
「なんの帳面だ」
「屋敷の備忘帳です。来月の薪の発注量を計算しておりました」
「……ずいぶん細かい」
「抜け落ちると困ることが多いので」
公爵は少し間を置いて、「名前は」と聞いた。
「ベアトリーチェ・ランベルクと申します」
「ランベルク伯爵家の」
彼女は黙った。有名な話ではないが、公爵ほどの地位なら知っているはずだ。ヘルムート家に婚約者を捨てられた、ランベルク家の娘。
フィリップは何も言わなかった。「よい仕事をしている」とだけ言って、歩き去った。
王の視察が決まったのは、冬の初めだった。王都の主要な貴族家を回る恒例の年末視察。ヘルムート侯爵家もリストに入っているとのことだった。
使用人たちが色めき立つ中、ベアトリーチェは翌月のスケジュールを帳面に書き込んでいた。胸の奥が少し痛んだ。ランツたちが視察を受ける。マルガリータが主人として立つ。六冊の備忘帳を手に。
フィリップが書斎に呼んだのは、その夜だった。
「ランベルク。少し話せるか」
執務机の向こうで、公爵は窓の外を見ていた。雪が降り始めていた。
「ヘルムート家のことを聞いた。六年間、屋敷を一人で切り盛りしていたと」
「よい仕事でした。好きでしたから」
「捨てられたとき、腹は立たなかったのか」
少し考えた。
「立ちました。ただ——帳面は取られても、記憶は残ります。どこへ行っても、ゼロから作れます。それだけは、誰にも取られなかった」
窓の外の雪が、音もなく積もっていた。フィリップはしばらく黙っていた。
「そうか」
それだけだったが、声の温度が変わっていた。
それからフィリップは、折に触れてベアトリーチェに話しかけるようになった。仕事の報告のついでに、という体で。執務の合間に廊下で立ち止まり、「今日の夕食の匂いがよかった」「昨日の来客、問題はなかったか」と短く聞く。要件だけの会話だった。だがその会話が、日ごとにわずかずつ長くなっていった。
ある朝、早く起きて食料庫の確認をしていたとき、フィリップが扉の向こうに立っていた。
「こんな時刻に」
「棚の奥の小麦粉の状態を確認したかったので。湿気が出ていないか」
「……そういうことまで気にするのか」
「カビが出てから気にしても遅いので」
フィリップは少しの間、石造りの食料庫の壁を見ていた。
「お前は、ここが好きなのか」
「仕事が、です」
公爵は何も言わなかった。ただ、そのまましばらく立っていた。その背中が、どこか暖かかった。
視察まで残り三週間。ベアトリーチェは公爵邸の準備を着々と整えた。国王アルフォンス三世の好みの温度、着席の順位、随行する側近たちの名前と役職、注意すべき食材。すべて調べ、すべて帳面に記した。王宮の礼式帳まで取り寄せて、陛下の過去の視察記録を丁寧に確認した。仕込みの工程を使用人に説明するたびに、この場所が自分の場所になっているのを感じた。
フィリップはその作業を時折じっと見ていた。何も言わなかったが、夜に差し入れのカモミール茶を廊下に置いていくようになった。ある晩、廊下で鉢合わせたとき、彼はこう言った。
「お前は休憩を取らないのか」
「終わったら取ります」
「今日、三杯目の茶だぞ」
「仕事が進んでいる証拠です」
フィリップは少し笑った。呆れているのか感心しているのか、見分けがつかない表情だった。その表情が好きだと気づいたのは、少しあとのことだった。
前日の夜、二十七の確認事項をすべて終えて、ベアトリーチェは備忘帳を閉じた。廊下が静かだった。厨房の奥でパンの発酵する匂いが漂っている。明日の朝食の仕込みが、もう始まっている。
六年間、誰も気づかなかったものが、ここには積み上がっていた。ヘルムート家のものではない。自分のものだ。持ち出せる記憶と、もう一度作れる腕がある。誰かに「暇仕事」と言われても、消えないものがある。それだけが、追放された夜から変わらなかった。
フィリップが最後のカモミール茶を廊下に置いていったのは、ちょうどそのときだった。ベアトリーチェは茶碗を両手で包んだ。温かかった。
視察当日は、よく晴れていた。
午前の部がヘルムート侯爵邸、午後の部がヴァルナー公爵邸——そういうスケジュールだとベアトリーチェはあとから聞いた。
午前十時、ヘルムート侯爵邸の大広間に国王アルフォンス三世が入った。ランツ・フォン・ヘルムートは深く礼をし、隣のマルガリータが笑顔を作った。よく磨かれた大理石の床、季節の切り花、整然と並んだ使用人の列。準備は完璧なはずだった。
最初の不和は、昼食の前菜で起きた。
上席のテーブルに運ばれた一皿の蓋を外した瞬間、甘い香りが漂った。アルモンドを使ったパテだ。国王の表情がわずかに曇った。
「これは」
侍医が立ち上がって素早く耳打ちした。国王の顔が、表情を消した表情になった。
ランツは自分の上席から気づいた。アルモンドだ。国王はアルモンドに過敏だった。少量でも腹に不快感が出る——そのことは、ベアトリーチェの備忘帳にはっきりと記されていた。代替の皿も用意しておく必要があった。それも、備忘帳に書いてあることだった。備忘帳は手元にある。だが、あの記号が読めなかった。
額に汗が浮いた。大広間に動揺が走った。使用人たちが顔を見合わせ、誰も動けずにいる。国王は何も言わなかった。手を膝の上に置き、皿が下げられるのを静かに待った。その沈黙が大広間に広がった。ランツのワイングラスを持つ指が、微かに震えていた。
マルガリータが「ただちに代わりを」と厨房へ伝えようとしたが、何を出せばよいかわからなかった。備忘帳に代替案のページがあるはずだった。だが、どのページかわからなかった。記号の羅列が目の前にある。文字ではあるが、意味が読めない。
来客の側近たちが小声で何かを囁き合う気配がした。窓の外の冬の光だけが変わらず明るかった。
昼食の席で、国王の側近のひとりが声を落としてマルガリータへ声をかけた。
「本日の献立はどなたがご指示なさいましたか。先ほどの件について、少々確認させてください」
「わたくしが、この備忘帳に基づいて指示いたしました」
マルガリータは自信を持って帳面を取り出した。六冊のうちの一冊、もっとも新しいもの。見開きを開くと、数字と記号と略語が縦横に並んでいた。
「こちらに、食材の注意事項が記してあります。これが……」
指先が、記号の列の上で止まった。
奇妙な略記と小さな数字が縦に並んでいる。ベアトリーチェが自分のために作り上げた記号体系で、アルモンドの禁忌を示す略記だった。マルガリータには、その意味がわからなかった。帳面を受け取って一年、この書き方だけは最後まで読み解けなかった。
「読み方が……少し特殊で」
声が細くなった。側近が帳面を覗き込んだ。
「これは、ランベルク令嬢がお書きになったものですね」
「そ、そうです。ですが、内容はすべて把握しております」
「では、この記号はなんの意味ですか」
マルガリータの口が動いたが、声が出なかった。冷たい汗が帳面の角に一滴落ちた。広間の端のほうで何人かの視線がこちらへ集まっているのがわかった。笑顔を作ろうとしたが、口の端がわずかに震えた。こんなはずではなかった。帳面がある、それで十分なはずだった——マルガリータはこの一年ずっとそう思っていた。
王の随行には、財務調査の補佐官も含まれていた。年末視察の慣例として、主要貴族家の帳簿を確認するためだ。ヘルムート侯爵の書斎に通された補佐官が、棚の端に置かれた六冊の帳面に目を留めた。
「これは」
「前の管理担当が作った備忘帳です。現在は使用しておりません」
ベルクマンが答えた。声は平静だったが、手が一瞬、書斎の椅子の肘掛けを強く掴んだ。
補佐官は三冊目の後半のページを開いた。薄い字で記された二十数行。記号の意味を丁寧に読み解いていく。七百ターレルの差異。月次帳簿との照合記録。差異の発生した時期と項目のリスト。六年分にわたる記録だった。
「こちらの数字についてお聞きします。侯爵家の歳入照合との差異が、複数年にわたって記録されているようですが——」
ベルクマンは動かなかった。眼鏡の縁に、窓の冬の光が細く反射していた。廊下の向こうで足音が増えた。やがて扉が開き、別の二名が書斎に入ってきた。
ベルクマンはゆっくりと椅子から立ち上がり、一礼した。その顔に、何の表情もなかった。六年間、毎月末にこの男は「転記ミスです」と言い、ベアトリーチェは記号を書き続けた。報告する機会を待ちながら、証拠を積み続けた。それが今日、この形で実を結んだ。
ベアトリーチェが六年かけて書き留め、誰にも言えずに帳面の奥に閉じ込めていたものが、ようやく日の当たる場所に出ていった。
午後の部、ヴァルナー公爵邸は淀みなく完璧だった。
国王が扉をくぐった瞬間から、すべてが澱みなく流れた。室温、採光、席への案内の間合い、テーブルの花の向き。随行の側近たちが、知らず知らず体の緊張を解いていくのがベアトリーチェには見えた。
昼食は大過なく終わり、茶の時間になった。国王が一口飲んで、眉を上げた。
「この茶は」
「国王陛下がお好みのエルベ産ハーブ茶でございます。少量の蜂蜜とともに」
「覚えていてくれたか」
「備忘帳に記しておりました」
国王はベアトリーチェを一度だけ見た。
「公爵のこの屋敷の家政を担っているのは、あなたか」
「はい」
「見事な仕事だ。すべてに意図がある。午前に寄った屋敷とは大違いだ」
国王の声は穏やかだったが、室内が一瞬静まり返った。「午前の屋敷」——誰もが意味を理解した。
「——公爵、この方を王宮の家政主任にお願いしたい。いかがか」
フィリップが椅子を鳴らさずに立ち上がった。普段は涼しい顔をしている公爵が、初めて焦った表情を見せた。
「陛下、少々お時間をいただけますでしょうか」
ベアトリーチェは公爵の横顔を見た。真剣な表情だった。あの顔は、手放したくない、という顔だ。そう気づいた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
翌朝、フィリップはベアトリーチェを書斎に呼んだ。
雪は止んで、窓の外に冬の青空があった。公爵は机の前に立ち、何かを考えるように腕を組んでいた。
「陛下のお申し出のことだが」
「はい」
「お断りするのは、難しい」
「そうですね」
「ただ……」
フィリップは口を開いて、一瞬止まった。この人が言葉に詰まるのを見るのは初めてだった。
「お前がいなくなると、困る」
「屋敷の管理が、ということでしょうか」
「そういう意味ではない」
彼はまっすぐにベアトリーチェを見た。
「あなたがいなくなると、困る。個人的に」
ベアトリーチェは少し黙った。それから、肩から力が抜けていくのがわかった。六年間、自分の仕事を「暇仕事」と呼んだ人たちのことが、初めてとても遠くなった。
「わたくしも、ここを離れたいとは思っておりません」
「そうか」
「王宮のご指名をお断りするのは失礼にあたりますので——外部の家政顧問という形で、週に数日王宮に出向くというのはいかがでしょう。こちらの屋敷の管理も続けながら」
「……抜け道を考えるのが早い」
「備忘帳にない事態は、即興で対応いたします」
フィリップが笑った。呆れているのか感心しているのか、やはりわからない表情だった。
公爵は机から離れ、ベアトリーチェの前に立った。
「もう一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「あなたは、ここにいることが——嫌ではないか」
少し間があった。
「嫌ではありません。むしろ、帰ってきたいと思える場所が初めてできた気がしております」
フィリップはためらわずに手を伸ばし、ベアトリーチェの手を取った。温かい手だった。
「なら、ここにいてくれ。ずっと」
ベアトリーチェは目を細めた。目の奥がわずかに滲んだが、それは不思議と悲しくはなかった。安堵の重さだった。六年分の重さだった。
窓の外、冬の光が斜めに差し込んで、部屋の中を金色に染めていた。
フィリップの手が温かかった。それだけで十分だった。
その年の暮れ、ベアトリーチェ・ランベルクはヴァルナー公爵の婚約者として正式に発表された。
婚約の報せを書き入れた新しい備忘帳の一ページ目に、彼女はこう記した。
「六年分は、ここにあります。今度は、取られない」
帳面を閉じて、彼女はゆっくりと息を吐いた。六年間、誰かに「取られないように」と思いながら生きてきた。もう、そう思わなくてよかった。
廊下の向こうで、フィリップの足音がした。
歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
今作は「見えている仕事だけが仕事ではない」というテーマを軸に書きました。棚卸し・人員配置・帳簿照合——誰も「すごい」と言わない仕事ほど、なくなったときに初めてその重さが見える。ベアトリーチェが六年かけて積み上げたものは、帳面ではなく記憶そのものでした。
恋愛についていえば、フィリップは最初から彼女の「仕事」を見ていた人間です。「よい仕事をしている」——ただそれだけの言葉が、六年間「暇仕事」と言われ続けた彼女にどれだけ響いたか。溺愛は派手な告白よりも、積み重ねた観察の先にある、と書きながら思っていました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
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