05
翌日の昼休み。
校庭から響く運動部の掛け声や、廊下を駆ける生徒たちの喧騒が、教室の空気を微かに震わせていた。
優也は、購買で買ったパンを口に運びながら、何度もポケットの中のスマホを弄っていた。
「……おい、優也。さっきからパンの袋、逆さまだぞ」
向かいの席に座る久志が、呆れたように指摘する。
「あ、ああ。悪い」
優也は慌てて袋を直し、適当にパンを噛みちぎった。
味がしない。
頭の中は、放課後に屋上で待っているであろう和翠の姿でいっぱいだった。
「優くん、なんだか今日、変だよ? 顔もちょっと赤いし、熱?」
隣の席から、幼馴染の唯が心配そうに覗き込んできた。
彼女の瞳は、いつも通りの穏やかで献身的な光を宿している。
けれど、その純粋な気遣いが、今の優也には少しだけ息苦しかった。
「……そうかな。昨日、あんまり眠れなかっただけだよ」
「それって、勉強のしすぎ? それとも、また……夢、見たの?」
唯の言葉に、優也の手が止まる。
一年前の事故以来、唯は優也の「空白」に一番近くで寄り添ってきた。
彼女の前で嘘をつくのは、いつだって難しい。
「……いや、夢は見てないよ。ただ、ちょっと考え事をしてただけだ」
「ならいいんだけど。無理しちゃダメだよ? 何かあったら、私にすぐ言ってね」
唯は優しく微笑み、優也の机にそっとパックのミルクティーを置いた。
その光景を見ていた久志が、声を潜めてからかうように囁く。
「おーおー、心配されてるねぇ。……で、その『考え事』の答えは、放課後に出す予定なのか?」
久志の低い声に、優也は誤魔化すようにミルクティーのストローを強く吸い込んだ。
「……ああ。そのつもりだ」
◆
放課後。
優也は、昼間のそわそわとした焦燥感を抱えたまま、屋上への階段を上っていた。
鉄扉を開けると、和翠はすでにそこにいた。
今日は空を見上げるのではなく、手すりに背を預け、扉の方をじっと見つめている。
「こんにちは、高橋くん」
「あ……こんにちは、先輩」
和翠の真っ直ぐな視線に、優也は気圧されそうになる。
「……何か、用事?」
和翠が小悪魔めいた笑みを浮かべる。
優也は、ポケットの中でスマホを握りしめ、意を決して切り出した。
「あの、先輩。……もしよかったら、連絡先、交換してくれませんか?」
一瞬、屋上に静寂が訪れる。
和翠は目を見開き、それから、弾けるように笑った。
「あはは! ごめんなさい、高橋くん。……あまりに真っ直ぐだったから、つい。いいえ、喜んで。私もちょうど、貴方の番号を訊こうと思っていたところだから」
二人のスマホが、チリン、と可愛らしい電子音を立てて情報を交換する。
画面に表示された「木原和翠」の文字。
優也は、これまでに感じたことのないほど強い「生」の予感を抱いていた。
◆
その夜。
優也は、昼間の高揚感を抱えたまま、深い眠りに落ちた。
はずだった。
「……あ」
気がつくと、彼はまた『白』の中に立っていた。
視界を埋め尽くす、純白の花弁。
音もなく舞い落ちる結晶。
『__ゆう、やっ』
耳元で、誰かが囁いた。
懐かしくて、胸が締め付けられるような、少女の声。
昨日までの掠れた悲鳴ではない。
もっと、温かくて、聞き覚えのある声。
『……つけて。おねがい、にげ……__』
けれど、次の瞬間。
その声は、苦痛に歪んだ悲鳴へと変わった。
視界が、一瞬にして『赤』に反転する。
空から降るのは花弁ではない。
生温かい、鉄の匂いのする飛沫だ。
「……っ!? うあああああっ!!」
優也は、自分の右手に重い感触を感じた。
見下ろすと、そこには手首まで真っ赤に汚れた、僕の右手。
指先から滴り落ちる液体が、地面の血溜まりに弾けて、不吉な波紋を作る。
『……ゆう、や。……い、ないで』
血の海の中から、誰かが僕の手を掴もうとしている。
名前も顔も分からない、けれど、僕が一番大切にしていたはずの「誰か」。
「……誰だ、君は! 僕は何を……何を忘れてるんだ!」
優也は、自分の左胸を強く掴んだ。
鼓動が爆発する。
耳の奥を殴りつけるような、激しい不協和音。
◆
「__っ、はぁ、はぁ, はぁっ……!」
目を開けると、そこは自分の部屋だった。
さっきまでの地獄のような赤は、闇の中に消えていた。
優也は、震える右手を見つめた。
そこには血なんてついていない。
けれど、掌には、あの温かい液体の感触が、確かに残っていた。
「……誰、なんだ。あの声は」
和翠と連絡先を交換し、距離が近づいたその夜に。
なぜ、忘れていたはずの「誰か」の声が、こんなにも鮮明に蘇るのか。
優也は、左胸に手を当てた。
そこには、自分自身の穏やかな鼓動が刻まれている。
……そう、信じたかった。
けれど、今の鼓動は、まるで失った記憶を呼び覚まそうとするように、激しく、歪なリズムを刻み続けていた。
to be continued.




