15
静まり返った夜の自室に、突如として階下から玄関のチャイムが鳴り響いた。
泣き腫らした目で時計を見ると、針はすでに午後九時を回っている。
「優也〜、久志くんが来てるわよ!」
母親の声に呼ばれ、優也は慌てて顔を洗い、重い足取りで玄関に向かった。
扉を開けると、そこには秋の夜風に吹かれ、少し肩を窄めた久志が険しい表情で立っていた。
「……久志。こんな時間にどうしたんだよ」
「いいから、ちょっと来い。話がある」
久志はそれだけ言うと、優也の返事も待たずに歩き出した。
二人が向かったのは、優也、唯、花桜梨が子供の頃に集まっていた近くの公園だった。
街灯の下、ブランコのそばには、薄手のカーディガンを羽織って立っている唯の姿があった。
優也、久志、唯。
記憶を失っていた間、空白を埋めるように寄り添い合ってきた三人が、冷たい秋風の中で向かい合う。
「……優也。お前、今日一日ずっと変だったぞ。隠してるつもりだろうけど、俺たちを誰だと思ってんだ」
久志が、静かだが逃げ場のない声で問いかける。
隣で唯が顔を上げ、街灯の光に透ける優也の腫れた瞼を悲しげに見つめた。
「優くん……その目、ずっと泣いてたんでしょ? 唯、怖かった。優くんがどこか遠くに行っちゃいそうで。何があったのか、話してくれないかな」
二人の真っ直ぐな瞳に、優也は逃げることをやめた。
今ここで真実を告げれば、彼らが必死に守ってきた「優しい嘘」の城は崩れ落ちる。
それでも、もう嘘の上で笑うことはできなかった。
「……思い出したんだ。花桜梨のこと。あの日、何が起きたのか。俺たちがどうして、あんな場所にいたのか……全部だ」
優也の言葉に、二人の呼吸が止まった。
唯の肩が小さく震え、久志が握りしめた拳に力がこもる。
「昨日、和翠さんと藍華へ行った。そこで、和翠さんの言葉で……封印していた扉が開いたんだ。それから、昨日、八重家に行ってた。おじさんたちに、全部思い出したって報告してきたよ」
優也はカバンから、大切に抱えてきた日記の感触を確かめるようにして続けた。
「おじさんたちから、花桜梨の形見を受け取ったんだ。……日記だよ。あいつが死ぬ直前まで書いていた、本当の想いが詰まったノートだ」
「……日記?」
唯が声を震わせる。
優也は頷き、夜の闇に溶け込むように語り始めた。
「読んだよ。……唯とのこと。仲違いしちゃったこと、あいつ、すごく悲しんでた。唯を傷つけたくなかったって。でも、自分の気持ちに嘘はつけないって、泣きながら書いてたよ」
唯は堪えきれず、口元を両手で覆った。
優也は次に、視線を久志へと移した。
「久志。日記にはお前の名前もあった。お前が転校してきたばかりの頃のことだ。……花桜梨は言ってたよ。久志はぶっきらぼうだけど、すごくいい奴だって。俺と気が合いそうだから、二人が仲良くしてるところを早く見たいってさ」
久志の顔が、一瞬にして歪んだ。
自分が優也を支えてきたこの間は、自分勝手な贖罪ではなかった。
花桜梨が願っていた通りの未来だったのだ。
「あいつ、最後まで笑ってたんだ。事故の日の朝まで、俺とのデートを楽しみにしてて……。俺、あいつの分まで、ちゃんと生きなきゃいけないって思った。隠し事をしたまま、お前らの隣にいるんじゃなくて、全部を受け止めて、前に行きたいんだ」
三人の間に流れる沈黙は、もはや冷たいものではなかった。嘘という仮面が剥がれ落ち、そこには剥き出しの悲しみと、それ以上の深い絆が残されていた。
唯が声を上げて泣き出し、久志は天を仰いで、こぼれそうになるものを必死に堪えていた。
優也はそんな二人の姿を見つめながら、ようやく、本当の意味で彼らの親友に戻れたような気がしていた。
沈黙を破ったのは、久志の低く掠れた声だった。
「……そうか。そんなこと日記に書いてたのか」
久志はゆっくりと視線を落とし、地面の砂を靴の先で弄ぶようにしながら、自嘲気味に笑った。
その横顔には、優也も今まで見たことがないような、深い苦悶が滲んでいた。
「優也。……俺からも、お前に言わなきゃいけないことがある」
久志は一度言葉を切り、意を決したように優也の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺が転校してきてすぐのことだ。……俺は、花桜梨ちゃんのことが好きだった」
優也の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
隣で泣いていた唯も、驚きに目を見開いて久志を見つめる。
「ぶっきらぼうで馴染めなかった俺に、彼女は最初に声をかけてくれた。……でも、彼女の視線の先にいつも誰がいるかなんて、すぐにわかったよ。お前だよ、優也。あいつの瞳には、最初からお前しか映ってなかった」
久志は一歩、優也に歩み寄った。
「だから俺は、自分の気持ちを殺した。お前という最高の友人と、花桜梨という最高の女が幸せなら、それでいいって本気で思ってたんだ」
久志の拳が震えている。
「なのに高校で再会したとき……お前はあいつのことを、何一つ覚えてなかった。あんなに愛し合ってたのに、お前だけが綺麗さっぱり忘れて、平気な顔で生きてる。……正直、あの時はお前をぶん殴りたかった。なんで俺じゃなくて、お前が残ったんだって……一瞬でもそう思っちまった自分が、反吐が出るほど嫌いだった」
高校で優也の記憶喪失を知ったとき、久志が抱いたであろう怒りと、やるせなさ。
それを隠して親友として振る舞い続けてきた数年間の葛藤が、今の言葉に詰まっていた。
「……ごめんな、優也。お前を守りたかったのは本当だ。でも、俺自身の罪悪感から逃げるために、お前に真実を言わなかった部分も……きっとあったんだと思う」
優也は何も言わず、ただ久志の言葉を全身で受け止めた。親友が隠し持っていた、切なすぎる恋心と、逃げ出したくなるほど重い沈黙。
「……久志。教えてくれて、ありがとう」
優也は静かに手を伸ばし、久志の肩を強く掴んだ。
「花桜梨は、わかってたんだと思うよ。お前がどれだけいい奴かも。……だから日記に、俺たちが親友になるのを楽しみにしてるって書いたんだ。あいつはお前に、俺を託したんだよ。俺がこうして戻ってこられたのは、お前が隣にいてくれたからだ」
「優也……」
久志の目から、ついに一筋の涙が溢れ落ちた。
彼は顔を背け、乱暴に腕で涙を拭った。
「……バカ野郎。お前にそんなこと言われたら、俺はもう、一生お前の味方でいるしかね〜だろ」
唯もまた、涙を拭いながら二人のそばに歩み寄った。
それぞれが抱えていた、重すぎる過去と、隠し続けてきた本当の想い。
それらが秋の夜空に解き放たれ、三人の間には、嘘のない、けれど今まで以上に深く切ない絆が結ばれようとしていた。
「……帰ろう。風、冷たくなってきたしな」
優也の言葉に、二人は言葉を返さず、ただ静かに頷いた。
歩き出した三人の影が、街灯の光の下で伸びたり縮んだりしながら、夜の道に重なり合う。
あの日、卒業式の校門を抜けたときのような無邪気さは、もうそこにはない。
けれど、嘘で塗り固めた偽りの平穏よりも、ずっと確かな手触りのある絆が、確かにそこにあった。
「ねえ、優くん」
不意に、隣を歩く唯が空を見上げて呟いた。
「なに?」
「花桜梨ちゃん、見てるかな。……怒ってるかな。こんなに遅くなっちゃって」
優也はカバンの中の日記の重みを感じながら、夜空に浮かぶ淡い月を見上げた。
「……いや。きっと笑ってるよ。『遅いよ、バカ』って言いながらさ」
その言葉に、久志が「ふん」と鼻を鳴らした。
「あいつなら言いそうだな、マジで」
三人の口元に、小さな、本当に小さな笑みがこぼれる。
冷たい風は、もう彼らを凍えさせるものではなかった。
舞い落ちる枯れ葉の音を聞きながら、三人はそれぞれの痛みと、それ以上の愛しさを胸に抱いて、一歩ずつ、明日へと続く夜道を進んでいく。
優也のカバンの中で、スマートフォンの画面が一瞬、静かに光った。
そこには、誰よりも彼を待っている和翠からの、短いけれど温かい言葉が届いていた。
to be continued.




