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夜の静寂が降りた自室。
優也は机に向かい、カバンから取り出した一冊のノートをじっと見つめていた。
それは、昨日八重家から譲り受けた、花桜梨の生きた証。
表紙の隅には、彼女らしい少し丸っこい筆跡で「ダイアリー」と書かれている。
指先でその文字をなぞると、冷たいはずの紙面から、彼女の体温が伝わってくるような錯覚に陥った。
優也は深く息を吐き、意を決して最初のページをめくった。
書き出しは、まだ幼さが残る中学時代の他愛もない日常から始まっていた。
読み進めるうちに、優也の口元が自然と緩んでいく。
そこには、妹の桜が優也に懐いていることへの、姉らしい独占欲の混じった嫉妬が綴られていた。
『今日も桜が優也にべったり。もう、私の優也なんだからね!』
そんな風に、頬を膨らませて怒る彼女の姿が、鮮明な色彩を持って脳裏に蘇る。
さらにページをめくると、八重家の賑やかな食卓の風景が浮かび上がってきた。
父の桜雅と母の花梨による、親バカを通り越した気の早い要望への愚痴だ。
「お父さんもお母さんも、気が早すぎるよ。まだ中学生なのに孫の顔が見たいなんて……。優也、すごく困った顔してたじゃん。もう、恥ずかしくて顔から火が出そうだったんだから」
「……あはは、そんなこと言われてたな、俺たち」
優也は独り言を漏らし、目尻を下げた。
呆れながらも、温かい家族に囲まれていた彼女の幸せが、文字の行間から溢れ出していた。
しかし、ページをめくる手が止まる。
文字の温度が、急激に冷え込んでいくのを感じた。
親友だった唯との決別。
日記には、二人の間に生じた修復不可能な亀裂が、痛々しいほど率直に綴られていた。
「唯ちゃんを傷つけたくなかった。でも、優也への気持ちに嘘はつけない。……悲しいな、どうして一番大切な友達と、こんなに遠くなっちゃったんだろう」
苦しげに乱れた筆跡。
親友を失った喪失感と、それでも優也を選んだ覚悟。
彼女がどれほど独りで悩み、傷ついていたか。
優也は自分の知らなかった彼女の痛みに触れ、奥歯を噛みしめた。
その重苦しい記述の後に、一つの転機が記されていた。
中学の頃に転校してきた一人の少年の名前。
「最近転校してきた安倍久志くん。ちょっとぶっきらぼうだけど、すごくいい子。きっと優也と気が合うと思うんだ。二人で楽しそうに話してるところ、早く見たいな」
優也は胸が締め付けられる思いがした。
今の自分を支えてくれている親友の久志を、花桜梨はあの頃から認めていたのだ。
自分が唯との関係に悩み、沈んでいたことを彼女は見抜いていて、久志との出会いを心から喜んでいた。
彼女が繋いでくれた縁が、今も自分を救っている事実に、優也は日記を握る手に力を込めた。
そして、ついにその日がやってくる。
事故の日の朝、書かれた最後の日記。
「今日は優也とお出かけ! ずっと楽しみにしてたんだ。あそこのお店のパフェ、半分こして食べるんだ。優也、どんな顔するかな。喜んでくれるかな。……あ、時間だ! 行ってきます。今日も世界で一番、優也のことが大好きだよ!」
そこで、文字は途切れていた。
その先に続くはずだった、楽しかった感想も、帰宅後の何気ない愚痴も、二度と綴られることはなかった。
「……っ、う……」
優也の視界が、一気に歪んだ。
日記の紙面に、ぽつり、ぽつりと大きなシミが広がっていく。
喜怒哀楽。
日記の中で生き生きと笑い、怒り、愛してくれた花桜梨。
彼女がこれほどまでに自分を想い、未来を、明日を、一分一秒を慈しんでいたこと。
そのすべてが、あの一瞬の衝撃で奪われてしまった。
「ごめん……花桜梨。ごめんな……っ!」
優也は日記を胸に強く抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
失われた記憶の断片が、涙とともに溢れ出し、冷え切っていた彼の心を、あまりに強すぎる彼女の愛で満たしていく。
静まり返った夜の部屋に、優也の慟哭だけが響き続けていた。
机の端に置かれた藍華の花びらが、月の光を浴びて、静かに、優しく、彼を見守っていた。
to be continued.




