12
藍華から藤ノ井へと戻るリク電の車内。
窓の外を流れる夜の景色を眺めながら、二人は隣り合って座っていた。
和翠は、一輝が気を利かせて先に帰ったことを聞き、「もう、あの子ったら……」と少し照れくさそうに、けれど愛おしそうに笑った。
その笑顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
駅で和翠と別れ、優也は一人で家路につく。
街灯が灯り始めた夕闇の街。
見慣れたはずの景色が、記憶という色を得たことで、今日からは全く違う風景に見えた。
優也は玄関で立ち止まったまま、肺の奥に溜まった熱い空気を吐き出した。
これから口にする言葉が、この家に保たれてきた「静かな平穏」を壊してしまうかもしれない。
両親が自分を気遣って、あえて触れずにいてくれた優しさを無下にするのではないか__そんな葛藤が、優也の足を一瞬だけすくませた。
けれど、藍華で和翠と交わした約束、そして脳裏に焼き付いた花桜梨の笑顔が、背中を強く押した。
意を決して玄関を開けると、台所から夕飯の支度をする母・静流の、規則正しい包丁の音が聞こえてきた。
「ただいま」
「おかえり優也。早かったわね」
静流が手を休めずに声をかける。
優也は靴を脱ぎ、リビングの入り口で立ち止まった。
その背中から漂う空気の変化に、静流は直感的に何かを感じ取ったのか、ゆっくりと手を止めて振り返った。
「母さん。……父さんはいるか?」
「ええ、さっき帰ってきたところよ」
「着替えてるのか?」
「ええ、おそらくね。……あら、改まってどうしたの? お小遣いの前借り?」
静流が少しおどけた調子で聞き返したその時、廊下の先から父親の博臣が、ネクタイを緩めながら姿を見せた。
「小遣いだって? また使いすぎたのか、優也」
「父さん……」
「お、帰ってたのか。なんだ、その深刻な顔は」
博臣が軽く笑いながら歩み寄ってくる。
その日常的な光景が、かえって優也の胸を締め付けた。
素直に打ち明ければ、二人を再びあの悲しみの日に引き戻してしまう。
言わなければ、自分だけが嘘の中で生き続けることになる。
(……逃げるのは、もう終わりだ)
優也は拳を握りしめ、真っ直ぐに二人を見据えた。
その瞳に宿ったかつてない強さに、博臣と静流は息を呑み、自然と居住まいを正した。
「父さん、母さん。……話があるんだ」
夫婦が並んで息子を見つめる。
優也は一言ずつ、己の魂を刻印するように噛みしめて告げた。
「思い出したんだ。……花桜梨のこと。あの日、何があったのか。……全部」
静流の持っていた菜箸が、カランと床に乾いた音を立てて落ちた。
博臣の緩めようとしていたネクタイの先が、その手のまま止まる。
家の中を流れていた平穏な空気が、一瞬にしてあの日__止まっていた時間の色に染まっていく。
「……そうか。思い出したんだな」
両親は、息子が記憶を失ったことで救われた部分もあると、どこかで自分たちに言い聞かせてきた。
だが、再びその重荷を背負う覚悟を決めた息子の瞳を見て、二人はただ「おかえり、優也」と、二度目の、本当の帰宅を祝う言葉を贈った。
◆
翌日。学校が終わると、優也は真っ直ぐに「あの場所」へと向かった。
向かった先は、かつての自分の家よりも通い詰めた場所。
八重家の玄関チャイムを鳴らす指が、わずかに震える。
扉が開くと、そこには驚いた表情の妹・桜が立っていた。
「あ……優也くん? 久しぶり」
「……久しぶり、桜ちゃん。お父さんとお母さん、いるかな」
奥から出てきた桜雅と花梨は、優也の顔を見た瞬間、すべてを察したように目元を緩ませた。
「優也くん。……よく、来てくれたね」
仏間に通されると、あの日、葬儀の席で見ることができなかった遺影の花桜梨が、最高の笑顔で優也を迎えた。
優也は膝をつき、深く、長く頭を下げた。
「……遅くなって、本当にすみませんでした。今まで、逃げていました」
その声は震えていたが、逃げ出したいという弱さはもうない。
「あの日からずっと、僕は自分を許せなくて……忘れることで、自分を守っていました。でも、もう逃げません。花桜梨が残してくれた時間を、僕は精一杯、生きていこうと思います」
花梨が優也の隣に座り、その背中を優しく撫でた。
「いいのよ、優也くん。花桜梨はね、きっとあなたが笑ってくれるのを、ずっと待っていたんだから」
すると桜雅が、棚の奥から数冊の、少し表紙が擦れたノートを取り出してきた。
「優也くん。これを持って行ってくれないか。……花桜梨が大切にしていた日記だ。君との思い出が、たくさん詰まっている」
差し出された日記。
優也はその表紙に触れようとして、寸前で手を止めた。
「……いえ、それは受け取れません。これはおじさんたちの、大事な形見じゃないですか。僕なんかが……」
「いいんだ。これは花桜梨が、いつか君に読んでほしくて書いていたようなものだからね」
桜雅は寂しげに、けれど確信を持って言った。
「僕たちが持っているより、君が持っている方が、花桜梨も喜ぶと思うんだよ。頼む、受け取ってやってくれ」
「でも……」
優也はなおも固辞しようとした。
自分が彼女の命を奪ったも同然だという思いが、その「宝物」を奪うことを躊躇わせた。
しかし、花梨までもが優也の手をそっと握り、ノートを包み込むようにした。
「優也くん。あなたがこれを持っていることが、私たちの救いにもなるの。……お願い」
二人の切実な眼差しに、優也はついに根負けし、その日記を胸に抱きしめた。
「……ありがとうございます。一生、大切にします」
家を出た優也の頭上には、澄み渡る夜空が広がっていた。
カバンの中にある日記の重みが、かつて彼女と繋いでいた手の温もりのように感じられた。
優也は一歩、また一歩と、確かな足取りで前へ進み出した。
to be continued.




