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Separate Memory  作者: 水瀬輝夜
Separate Memory

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12/17

11



「ここが、藍華あいかなんだね……」


無人の「あいか駅」の改札を抜けた瞬間、和翠の口から吐息のような声が漏れた。

そこは、時が止まったはずの廃村。

しかし、二人の視界を埋め尽くしたのは、荒廃した景色ではなく、天から降り注ぐ圧倒的なまでの「純白」だった。


「言っていた花びらって、これのことか……?」


優也は呆然と立ち尽くし、空を仰いだ。

季節外れの雪のように、しかし雪よりも暖かく、はらはらと舞い落ちる無数の花弁。

優也がそっと手を伸ばすと、その中の一片ひとひらが吸い込まれるように掌に舞い降りた。


「本当に、真っ白だ。でも、なんていう花なんだ? 桜じゃないし、まるで光の欠片が舞っているみたいだ」

「知らないままでいるのも、神秘的で素敵じゃない?」


和翠は目を輝かせ、光の粒子のような花びらの中を泳ぐように歩き出す。

一輝は改札の柱に背を預け、二人の後ろ姿を見つめていたが、優也の隣に歩み寄ると静かに声をかけた。


「高橋さん。僕は駅で待っています。姉さんのこと、お願いしますね」

「一輝くん、二人でいいのか?」

「ええ。ずっと隣で姉を見てきました。調子の良し悪しも、姉がどれだけ高橋さんを信頼しているかも、僕には分かります。……よろしくお願いします」

「わかった。その信頼に応えられるよう努めるよ」


優也が短く告げて歩き出すと、和翠が不思議そうに振り返った。


「あれ、一輝は?」

「駅で待ってるって。少し、気を遣わせちゃったかな」

「そっか。後で私からも謝っておくね」


二人は、白銀の絨毯を敷き詰めたような廃道の奥へと進んでいく。

静寂を破るのは、敷き詰められた花弁を踏む柔らかな音だけ。


「……訊いてもいいかな、高橋くん」

「ええ、何ですか?」

「高橋くんは、誰かを心の底から好きになったことはある?」


和翠のその問いが、静寂に包まれた和翠のその問いが、静寂に包まれた「あいか」の廃道に波紋のように広がった。

その瞬間、優也の世界が音を立てて軋み始めた。


「好き……? そう、だな……」


答えようとした、その時だった。

脳の最深部、分厚い鉄の扉で閉ざされていた「重い記憶」が、内側から凄まじい勢いで叩き壊された。


(……っ!?)


最初は、遠くで鳴り響く警笛のような微かな痛み。

それが次の瞬間、灼熱の熱を帯びた「くさび」となって、こめかみを無慈悲に貫いた。


「う……あ、がっ……!」


視界が急速に明滅し、歪んでいく。

降り注いでいたはずの純白の花びらが、一つ、また一つと、どす黒い「緋色」に染まって反転する。

優也は立っていられず、その場に膝を突いた。

左手で荒廃したコンクリートを、指先が白くなるほどかき毟る。


(やめろ……見たくない……思い出したくない!)


本能が拒絶の叫びを上げる。

だが、和翠が与えた「問い」という鍵は、すでに深淵の鍵穴を回しきっていた。

真っ暗な意識の底から、泡のように「断片」が浮上してくる。


__最初は、視覚の奔流。

まばゆい逆光の中に立つ、白いワンピースの裾が風になびいている。

透き通るような肌、茶色い瞳。

そして、世界で一番優しいはずの、儚い笑顔。


__次に、触覚の生々しさ。

冷たい雨の匂い。

自分の右手に確かに残っていた、細くて柔らかい指の熱。

そして……すべてを飲み込んだ、あの逃げ場のない水の、冷たく重い圧力。


(カ……オ、リ……?)


震える唇が、忘れ去っていたはずの名前を形作る。

その瞬間、脳内で何かが弾け飛んだ。

図書室の古い紙の匂い。

公園のベンチで分け合った飲み物の冷たさ。

夕暮れ時の帰り道、並んで歩いた歩道の幅。

そして、あの忌まわしい交差点で響いた、金属と肉体が衝突する鈍い衝撃音。


「……はぁっ、はぁっ、はぁ……!」


優也の瞳は、激しい苦痛に濁りながらも、一点を凝視していた。

自分が望んで、彼女が望んで閉じ込めた、美しくも残酷な「真実」。

水底で花桜梨が施した「優しい封印」が、今の和翠の言葉によって、容赦なく、けれど温かく解かれていく。


(……ごめん、花桜梨。俺、忘れてたんだ。君という光が、俺の中にいたことを……)


脳を焼くような痛みは、やがて鈍い疼きへと変わり、優也の心に失われていた「重み」を完全に取り戻させた。

すべてを思い出した。

自分が誰を愛し、誰を失い。

そして今、誰の前に立っているのかを。


「高橋くん、大丈夫? 頭、痛いの?」


心配そうに顔を覗き込む和翠に、優也はゆっくりと、しかし確かな意志を宿した瞳で顔を上げた。


「……もう、大丈夫です。本当に。それより先輩に、聞いてほしい話があります」


優也は深呼吸し、過去の自分を縛り付けていた透明な鎖を断ち切るように口を開いた。


「僕は、ずっと自分を偽ってきました。誰かを好きになるなんて考えちゃダメだって、心のどこかで自分に言い聞かせていた。……僕は、去年の秋、大切な人を……殺したんです」


和翠の瞳が揺れる。

優也は震える両手を見つめた。

幻影が重なる。

今、この掌を染めているのは白い花びらではなく、生々しい緋色あか__。


「事故でした。でも、僕が誘わなければ、彼女は死なずに済んだ。そう思うと、どうしても自分が許せなかったんです」

「……それは本当の願いなの? 高橋くんの、心の奥にある本当の想いは、何?」


和翠の澄んだ声が、優也の「言い訳」を静かに切り裂いた。


「知ってほしいのはわかった。でも、どこか自分を守るための言葉に聞こえる。……あなたは何を伝えたいの? 何を言ってほしいの?」

「僕は……」


優也は絞り出すように答えた。


「僕は、許されたかった。いいえ、自分自身を許したかったんだと思います」

「うん」

「僕の罪は、許されるんでしょうか。……たとえ、悪意を持った人殺しだったとしても」

「難しい質問だね。でも、今はその『誰か』は関係ないでしょう?」


和翠は優也の目を見つめ、諭すように続けた。


「さっき自分で言ったよね。自分を許したいって。あなたは自分自身で鎖を縛ってる。それに、気づいているのかな」


優也の鼓動が激しく打ち付ける。


「どうして、そんなこと……」

「私もね、そうだったから」


和翠は空を舞う一片の花びらを見つめた。


「私はね、顔も名前も知らない誰かの心臓を譲り受けて、生き長らえてる。だから、その人の分まで生きなきゃって……義務みたいに思ってた。でも、私が成人できる可能性は、決して高くはないの」

「先輩……」

「心臓移植後の生存確率。十年後は約55パーセント。二十年後はもっと低い……。普通は知らないよね」


和翠は、残酷な数字を祈るような微笑みと共に口にした。


「でも、気づいたんだ。沈んだまま過ごす十年より、一日一日を、今この瞬間を明るく過ごすほうが、私にも、心臓をくれた人にも意味があるんだって」


彼女の掌から、一片の花びらが風にさらわれていく。


「そう、気づけたから……今の私があるんだよ」


和翠が満開の笑顔で振り返った瞬間、優也の視界に「彼女」が現れた。

純白の羽根を広げ、光り輝く花弁の海に浮かぶ、花桜梨の姿。

優也は思わず手を伸ばそうとしたが、身体に絡みつく無数の重い鎖がそれを阻む。


(どうして……!)


花桜梨は優しく首を横に振り、最高の笑顔を向けた。

そして、その背中の羽根を大きく羽ばたかせると、光の中へと吸い込まれるように消えていった。


(花桜梨……君を忘れるのではなく、立ち止まるのでもなく、一歩ずつ前に進めと……そう言いたいのか?)


優也が、震える足で一歩を踏み出した。

その瞬間、身体を縛り付けていた鎖が、乾いた音を立てて砕け散った。


(たった一歩。でも、今の俺には、何万キロにも等しい一歩だ)


優也はもう迷わなかった。

数歩の距離を詰め、戸惑う和翠を強く、壊れそうなほどきつく抱きしめた。


「あっ……」


和翠の体が一瞬、強張る。

突き飛ばしはしない。

けれど、受け入れられもしない。

彼女の手は宙に浮いたまま、震えていた。


「……高橋くん、ダメだよ。私を本気で好きにならないで。私……また君を悲しませちゃうよ? 十年後、二十年後、私は隣にいないかもしれないんだよ?」


和翠の声は、拒絶というより、祈りに近かった。


「いつかまた、君をあの日みたいな暗い水の底に置いていっちゃうかもしれない。そんなの、私、耐えられない」

「先輩。できない理由を探すのは、もうやめましょう。居なくなる可能性を数えるより、今、ここに居ることを信じたいんです」。それを先輩が教えてくれたんですよ?」

「でも……っ、怖いんだよ。誰かにとって『特別な人』になるのが、こんなに怖いなんて……」


和翠の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

優也は腕の力を緩めず、彼女の震えごと包み込むように囁く。


「どんな姿になっても、僕は和翠さんの隣にいます。歩けなくなっても、子供が産めない体でも、その瞬間まで一緒にいる。……だから、ここから一緒に始めませんか?」

「……う、ううっ……」


和翠は、優也の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。

心のセーブ、命の期限、見えない誰かへの負い目。

それらすべてを、優也の温もりが少しずつ溶かしていく。

やがて、和翠の浮いていた手が、ゆっくりと、恐る恐る優也の背中に回された。

最初は指先が触れるだけだったその手は、やがて彼のシャツを強く、ぎゅっと掴んだ。


「……うん。ありがとう……ありがとうね。……私、高橋くんと一緒にいたい。一日でも、一分でも長く……」

「……はい」

「私……たぶん、君が思ってるよりずっと前から、君のことが好きだったんだと思う」


和翠がようやく顔を上げると、涙に濡れた瞳で優しく、けれど力強く微笑んだ。


「私の方が、ずっとずっと、好きになるからね」

「……オレも、負けませんよ」


降り注ぐ純白の花弁は、祝福の雨のように二人を包み込んでいた。

廃道に刻まれた二人の足跡の上に、新しい花びらが静かに積もっていく。



to be continued.

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