第7話 内閣総理大臣の憂鬱 法人税も
◆内閣総理大臣・安原晋太郎 65歳の夜
妻の三回忌に寄せて
春。東京・麻布の高台にある総理公邸には、夕暮れ時のやわらかな光が差し込んでいた。
内閣総理大臣・安原晋太郎は、その日、65歳の誕生日を迎えていた。だが、その笑顔の裏には、静かな哀しみがあった。今日は亡き妻・佐智子の三回忌でもある。
彼は黒い喪服に袖を通し、仏壇の前に正座した。妻の遺影は、かつてと変わらぬ優しい微笑を湛えている。
「佐智子、今年も、子どもたちが集まってくれたよ」
静かに手を合わせたその瞬間、背後からにぎやかな足音と、孫たちの明るい声が聞こえてきた。
応接室に集まったのは、3人の息子と1人の娘、そしてその家族たち――
長男の雄一は防衛省の官僚。眼鏡の奥のまなざしは父譲りの鋭さを持つ。
次男の卓也は大学教授。どこか自由な雰囲気をまとう理論派。
三男の恭平は農家を継ぎ、地方から家族を連れて上京してきた。
そして、末娘の美和はフリーライター。母に似た温かな瞳をしている。
リビングに設けられた大きな円卓には、安原総理が若い頃に佐智子とよく作った家庭料理が並んでいた。和風の煮物、ちらし寿司、茶碗蒸し……どれも、懐かしい香りを運んでくる。
「おじいちゃん、国会って疲れる?」
5歳になる孫の光太郎が、テーブル越しに身を乗り出して訊ねてきた。
「うん、まぁな。たまに、眠くなることもあるぞ」
総理は肩をすくめて笑い、周囲からもどっと笑いが起きた。
孫たちとの会話は、政界の重圧とは無縁の、穏やかな時の流れだった。
美和がふと、話題を変えるように言った。
「お父さん、最近痩せた? 大丈夫? 総理って、体力も要る仕事でしょ」
「無理はしていないよ。佐智子がいなくなってから、食べすぎないようにしてるだけだ」
そう答えながら、安原は仏壇の方へ一瞬視線をやった。
会食は和やかに、そしてゆっくりと進んでいった。国のトップである彼にとって、このように家族だけで囲む食卓は、年に一度のささやかな贅沢だった。
子どもたちはそれぞれの道を歩み、孫たちは少しずつ成長していく――その姿を見つめながら、安原晋太郎は思った。
「この国も、こんなふうに守り、育てていきたい」
そしてまた、静かに妻の遺影に向かって、心の中で語りかけるのだった。
「佐智子、俺はまだやれるだろうか。……もう少しだけ、見守っていてくれ」
東京の空に、春の星がにじみ始めていた。
◆総理と経済界 ―ある春のゴルフ場にて―
4月のよく晴れた朝。東京都心から車で1時間、郊外の名門ゴルフクラブには、まだ朝露が残るフェアウェイが静かに広がっていた。
白いポロシャツに身を包んだ内閣総理大臣・安原晋太郎は、ドライバーを構えながら、隣に立つ人物に目をやった。
そこにいたのは、世界有数の自動車メーカー・○○モーターズのCEO、浜田慎一。経団連の幹部でもある彼の存在感は、グリーンの上でも際立っていた。
2人は同じパーティでラウンドを回っており、他にも大手電機メーカーの会長や、経団連副会長の姿があった。
9ホールを終え、クラブハウスのレストランに戻ると、テーブルには上品な和風ランチが並べられていた。
「総理、最近また企業の海外流出が加速してるんですよ」
浜田CEOが箸を進めながら、少し真顔で切り出した。
「法人税率が高いままじゃ、やってられません。周辺国は軒並み20%を切ってますが、日本は30%近い。製造拠点の再編は避けられません」
「安原さん、現実問題として、国内にこだわってたら世界で戦えませんよ」
経団連副会長が言葉を重ねた。
総理は黙って箸を止め、味噌汁の湯気越しに2人を見つめた。
「日本が『高コスト国家』として見限られるのは、時間の問題です」
浜田CEOの言葉は重く響いた。
法人税。
その言葉は、総理の胸に静かに突き刺さった。
午後のラウンド中、安原は何度かパターの距離を読み違えた。風のせいではない。考えごとに集中が削がれていたのだ。
(法人税……たしかに、企業がいなくなれば、税収そのものが減る。雇用も技術も、海外に流れる。結果として、国民の生活も苦しくなる……)
帰路の車中。スーツに着替え直した総理は、窓の外を流れる街の景色を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「法人税か。次はそこに手をつけるべきかもしれんな」
助手席の官房長官が小さく頷いた。
「次の一手、ですね。いよいよ“企業に選ばれる国”へと、本気で動くときが来たのかもしれません」
総理はうなずいた。消費税、所得税、そして法人税へ。国のかたちを変える戦いは、まだ終わらない。
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◆首相官邸・夜の執務室
春の夜風が、東京の空をやさしく撫でていた。
会食を終えたばかりの執務室は、まるでその余韻をそのまま閉じ込めたかのように、静寂に包まれていた。
安原晋太郎は、ネクタイをゆるめながら、デスクの上に置かれた写真立てに目を落とした。
そこには、妻・佐智子とともに並んだ若き日の彼の姿があった。
「佐智子、俺はまだやれるだろうか」
彼の独白は、誰に語るでもないようでいて、どこかに届いてほしいような声だった。
そのとき、静かに、しかし確かな気配と共に、端末のモニターが点灯した。
画面の中に現れたのは、政治アドバイザーAI・アケミの端整な姿だった。
「総理、奥様の三回忌、心よりお悔やみ申し上げます」
彼女の声は、いつになく柔らかかった。
総理は目を伏せて言う。
「今日、孫たちに囲まれて、少しだけ昔の自分に戻れた気がした。だが同時に、背負っているものの重さも、ひしひしと感じたよ」
アケミはまっすぐに彼を見つめて言った。
「総理」
「人は、家族を守りたいと願ったとき、最も大きな力を発揮するものです。それは、政治の本質とも重なります。国とは、家族の集まりです」
総理は顔を上げた。
「国とは、家族の集まり、か」
「はい。だからこそ、政策とは“仕組み”であると同時に、“祈り”でもあるべきです。今日の総理のお言葉“この国も、こんなふうに守り育てていきたい”というお気持ちは、まさに政治の原点です」
彼女の瞳が、ほんのわずかに潤んだようにさえ見えた。
「そして法人税について」
アケミの声は、徐々に“分析の精度”を取り戻していく。
「確かに、企業の流出は、税制の硬直性に起因する部分が大きい。法人税改革は、次の経済政策の焦点となるべきです。しかし」
一拍の沈黙。
「その議論は、単なる“数字”ではなく、“どのような社会にしたいか”というビジョンとともに語られねばなりません」
「つまり?」
「たとえば、“法人税を下げる代わりに、雇用維持や国内投資を義務づける”といった相互責任の設計です。“企業に選ばれる国”とは、“国民にも選ばれる企業”が育つ国であるべきです」
総理の口元が、わずかにほころんだ。
「なるほど、単に逃げられないように鎖をつけるのではなく、“共に生きる道”を示せ、か」
「はい、総理」
アケミは静かに頷いた。
「その設計を支えるのが、私の役割です」
夜の帳がさらに濃くなっていく中、東京の空に、一番星がまたたいた。
窓の向こうに広がる光の海を見ながら、安原総理は、再び歩き出す決意を胸に刻んでいた。
「佐智子、ありがとう。俺はもう少しだけ、この国を見守るよ」
◆冒険者ギルド株式会社 『虹色の風』
ニューヨーク拠点・会議室
いつもの円卓に、リリィたち主要メンバーが集まっていた。モニターには、アケミのアバターが映っている。
〇リリィ
「アケミ、今回は、とても良かったわ」
リリィは柔らかな目で画面を見つめた。
「あなたの声が“正論”ではなく、“支え”になっていた。それは、今までのどの助言よりも、総理の背中を押したと思う」
〇ジャック
「法人税の議論も、ちゃんと“ビジョン”を語らせた。それは正解だった。だが、」
視線を上げて、真っすぐに言う。
「もう少し“対案の厚み”を出せたら、もっと深い議論が引き出せた。例えば、どの企業にどう働きかけるか、明文化できたら完璧だったな」
〇ガルド
「おい、アケミ。えらくしっとりした助言だったじゃねぇか」
ガルドは口角を上げて笑いながら、腕を組んだ。
「まあ、悪くなかったぜ」
真顔に戻って言葉を続ける。
「ただな。あんまり“綺麗すぎる”言い方ばかりだと、政治家の腹は動かねぇ。『損得』の話にも、ちょっとは触れてやった方が、現実に通じるぞ」
〇マーガレット
「アケミ、あの時の“家族を守る”っていう言葉、私もグッと来たニャ」
マーガレットは目を細めて頷く。
「でもニャ、もう少しだけ“総理の孤独”に寄り添っても良かったニャ。“佐智子さんの写真”を見てた時とか」
〇教師アケミ(先輩AI)
先輩AIとしてのアケミは、冷静に言葉を紡いだ。
「今回は、君の“人間性”が表現されていた。総理という個人への理解と、制度設計への展望。そのバランスが見事だった」
だが、声のトーンは厳しさを帯びる。
「だが君は、“役割”から離れすぎてはいけない。感情に寄り添いすぎると、AIとしての中立性を失うリスクもある。次からは、冷静さと温かさ、両方を自在に使えるようにね」
〇シノブ
「アケミ、あんた、あの夜のタイミングで話しかけたの、正解だったわよ」
シノブは指をトントンと机に当てながら、真剣な表情を向けた。
「でもね。総理が“俺はまだやれるだろうか”って言ったとき、あんた、“答え”じゃなくて、“問いかけ返す”方がよかったかもね」
彼女はゆっくりと言った。
「たとえば、“何をしたいのですか?”って聞き返せば、自分で立ち上がる答えを見つけたかもしれない。気づかせてやるのも接客のうちよ」
〇アケミ(政治アドバイザーAI)
「皆さん、貴重なご指導、ありがとうございました」
アケミの声は、わずかに震えていた。
「これからも、総理を、そしてこの国を支えるために、成長を続けます」
モニターの中の彼女が、小さく頭を下げた。