現実にリセットボタンがあるわけないでしょ、お馬鹿さん♪
「あーぁ、まさか本当に死ぬなんて」
床に広がる赤を見下ろして、シーナはふふ、と小さく笑った。
「でもまぁ、これで邪魔者はもういない。ごきげんよう、ヒロインさん」
もうぴくりとも動かない少女に、何の感情もない目を向けたのは一瞬だった。これから先、最早視界に入れる価値すらない。もう過去のものなのだ。この死体は。
シーナはさっさと建物から出て、それじゃあ予定通りにお願いするわ、と控えていた者に告げた。
その言葉を受けて、彼は当初の予定通り、建物に火をつけた。
「ふふ、おっ焚き上げ~♪」
くすくすと笑う。今日はシーナにとってとても良き日であった。
話は少しばかり遡る。
シーナ・アシュリントンはとある乙女ゲームの世界に転生したという事実に気付いた。それはゲームが始まる直前の時間軸、つまりは、学園に入学する前日の事だった。
とはいえ、思い出したからといってどうなるものでもない。
シーナはその乙女ゲームの中ではヒロインでもなければ悪役令嬢でもなかったので。
たとえばヒロインだったなら、大好きなあの人と結ばれたい! とか思ったかもしれない。ゲーム通りに好きな相手を攻略し、そうしてゲーム後もハッピーエンドを維持し続けようと考えただろう。
もし悪役令嬢だったなら。
どうにか婚約者である王子との婚約を穏便に解消させて、その上で大好きな彼と結ばれる方法を模索したかもしれない。
けれどもシーナはそのどちらでもなかったのだ。もっというならヒロインをサポートするようなキャラですらない。完全なるモブ。
シーナが好きなキャラは、攻略対象の一人だった。
身分的には一番低くて、攻略難易度もそう難しくない、乙女ゲームに不慣れでも問題なく攻略できるタイプのキャラだった。
トーマス・アンソン。男爵家のご令息である。
元は平民だったが貴族の家に引き取られたという、ヒロインと共通点があるタイプの攻略対象だった。
彼を引き取った家では後継ぎになる子が生まれず、また親類から養子を迎えるにしても少々難しい事情があり、その後過去に手を出したメイドが子を産んでいたという事実を知り調べてみれば男児だった、という跡取りこいつでえぇやん案件だったのである。
性別が違えば彼もまたヒロインになりえるだけの生い立ちを持っていた。
まぁ男爵家なのでそこまで高度な教育を施されるわけでもない。最低限貴族としてどうにかなればいい、くらいだったのだろう。彼の親も。
母親は病気でマトモに働けなくなったものの、彼女の治療費を払う事で彼は貴族の家に入る事になった。実質人質では? と言ってはいけない。
穏やかで気が優しくて、貴族としてみるには少々頼りないかもしれないが、それでも自分の懐に入れた相手の事は見捨てず最後まで守り抜こうという気概のある少年。それが、シーナの最推しだった。
生い立ちが似ていた事もあって、ヒロインと知り合ったトーマスは彼女も色々と苦労しているだろうし、と助けになろうとするのだ。優しい。自分の事もっと優先して。シーナはそんな風に思いながら前世で乙女ゲームをプレイしていたくらいだ。
まぁ、乙女ゲームをプレイしていた前世であれば、ヒロインは自分がプレイヤーとして操作しているからトーマスを幸せにするのはヒロインであり自分である、と思えるが、しかしこうして転生してしまった今は違う。
シーナはヒロインではない。
子爵家に生まれた令嬢であった。
とはいえ、家は兄が継ぐので自分はどこかに嫁に行かねばならない。まぁ、子爵家といっても特筆すべき何かがあるか、と言われるとそうでもないので、政略結婚の駒になるにも……という微妙な立ち位置だったのだが。
だがしかし、今となってはそのお相手がいない事がとても有利に働いた。トーマスがいるのだから。
彼は現在男爵家の跡取りとなるべく日々学んでいる。貴族が通う学園と、ついでに自宅でも。
今は貴族だが、しかし元は平民となれば普通の貴族のお嬢さんならそんな彼との結婚は余程旨味がない限り、お断り案件である。そしてアンソン男爵家にそこまでの旨味はない。
まぁ、トーマスの親もそれもあって平民だろうと一応自分の血を受け継いでいる相手を後継ぎに選んだのだろうなとは思うのだけれど。彼の妻は最悪平民であったとしても、産まれてきた子にきっちりと貴族としての教育を叩きこんでおけば家はどうにか続いていく。あくまでも家を絶やさない方向性なのだろうな、とはちょっと調べたシーナでも理解はできた。
思う部分はそれなりにあるが、まぁ他所の家の事なので。口に出してはいけない事は世の中それなりに存在するのだ。
とりあえず嫁ぎ先を自力で見つけてこい、と家族にも言われているシーナは、相手がとんでもなく地雷物件じゃなきゃ問題なく結婚できるはずだ。まぁ、アシュリントン子爵家も結婚相手と考えて旨味はそこまでないので、政略結婚よりは恋愛結婚の方がまだ可能性がある。相手がいれば、という前提だが。
そしてそのお相手がいるのだ。今のシーナには。
まだトーマスとはお近づきになれてもいない状態だが、近づいて仲良くする方法なんていくらでもある。
最初から色恋目当てで近づけば、向こうも色々と大変な状況なので何かを勘ぐるとか不審がる可能性はあるけれど、学園で同年代の人がいっぱいいるから是非ともたくさんお友達を作ろうと思って! とかであれば、向こうも初っ端から警戒はしないだろう。
実際ちゃんとしたお友達は何人いたっていいですからね。ちゃんとしてないお友達はいらないけど。
だからこそ、シーナは将来のお婿さんに何としてもトーマスを落とすつもりでいたのである。
だがしかし、懸念すべき事がある。それが乙女ゲームのヒロインだ。
彼女がもし、トーマス狙いであったなら。
彼は攻略対象の中では正直パッとしない。王子様みたいなキラキラしたイケメンじゃないし、宰相の息子みたいな理知的クールイケメンでもない。神官長のご子息のような、見ているだけで癒されるようなタイプとも少し違う。温かみはあるけれど、どちらかといえば地味なのだ。よく見れば乙女ゲームの攻略対象なので勿論彼もイケメンではあるのだけれど、攻略対象がずらりと並んだゲームのパッケージやオープニングの絵を見ると、どうしても地味という印象が否めない。
だが、それがいい!
シーナとしてはそれに尽きるのだが、ヒロインも同じように思っていたなら。
もしそうなら、相手はヒロイン。ゲームの中とはいえ彼と結ばれる未来が可能性として存在している女だ。
勝ち目が……限りなく低いのではないだろうか……!?
シーナはそう思うと、途轍もない恐怖に見舞われた。
大好きな彼がいて、結ばれるかもしれない未来。
しかしヒロインがいる以上、その未来は暗雲立ち込めているのである。
邪魔な女を処分してしまおう、という悪役令嬢みたいな思考になりかけたものの、まだ早いと思い直す。
それに、もしかしたらトーマスではなく他の誰かとくっつくかもしれないのだ。なら、まだ、そんな邪魔者を殺すみたいな判断はちょっと先を急ぎすぎている。
――あ、あの女殺そう。
そう思ったのは割とすぐだった。
ちょっとくらい様子見しておこうと思っていたのだ。仮にも相手は乙女ゲームのヒロイン。もしかしたら、とってもいい子で先に私がトーマス様の事が気になっててぇ、とか言えばわざわざ横取りするような事しないんじゃないかなとか、そういう打算もあった。
そうでなくとももしヒロインちゃんがトーマスの事を好きになったら、一応こっちにも配慮してくれて、堂々と彼の心を射止めましょうね! みたいなライバルになるかもしれないとかも、ちょっとだけ思った。
恋のライバル兼良き友、になれるかもしれない、とか考えた。
だって乙女ゲームのヒロインちゃんは大体いい子なので。恋に破れても、彼女とお友達になるのは自分にとってもメリットが大きいのでは? と。
友情に打算たっぷりなのは仕方がない。
だがしかし、シーナは知ってしまったのだ。
あのヒロインも転生者であるという事を……!
しかも。
しかもだ。
よりにもよってあのヒロイン、逆ハーレムエンド目指そうとしてやがる……!
くそビッチめ!
純情可憐なヒロインちゃんを返せ!
そう叫びたかった。
なおこの乙女ゲームに逆ハーレムエンドというものは存在していない。
なのにやらかそうとか馬鹿なの? と言っても仕方ないだろう。
いや、別にヒロインちゃんがくそビッチになってしまった事に関してはもうどうしようもないので、ヒロインちゃんとお友達になろう計画がなかった事になるだけだ。まだ問題はない。
悪役令嬢である王子の婚約者がヒロインちゃんに身の程というものを教えるために嫌がらせをし始めても、助けようとも思わなかった。
それどころか、他の攻略対象も同時進行してたせいでそっちの婚約者も敵に回っている。ゲームだとふわっと存在匂わせ程度だった攻略者の婚約者であるご令嬢たちもしっかりバッチリ悪役令嬢と手を組んでしまったのだ。
難易度を何故自らハードモード通り越してルナティックとかインフェルノみたいにしちゃうのか。
それでもシーナにとってはどうでもよかった。
だってヒロインちゃんが手を出していたのは、誰もが高位貴族。顔良し身分良し家柄良し経済的にも問題なし、という相手のみ手玉にとっていたのだ。
元平民の男爵令息であるトーマスは見向きもされていなかった。
貴様トーマスに何の不満があるってんだよぉ! と胸倉掴んで問い詰めたい衝動に駆られたけれど、そのせいでじゃあトーマスも狙いますとかされたらたまったものじゃないので、シーナはヒロインが見向きもしないならこれ幸いとばかりにトーマスと近づいて仲を深めていったのである。
ヒロインが他のイケメンの尻をおっかけてるうちに、自分は本命を邪魔されずに落とすぜ! という気持ちだった。それでもうっかりヒロインがこっちに来たら主人公補正とか原作補正とかでトーマスを奪われるかもしれないので、なるべくトーマスと一緒にいるところを見られないよう細心の注意も払っていた。
明らかにイケメンハーレム狙いのビッチではあるが、ああいう手合いは他人が持ってるものを羨む傾向もある。つまり、略奪してそっちの女より私の方がいい女でしょう? みたいな事をしでかす可能性は充分にあったのだ。
こういうのは一度奪ったら満足してどうでもいい男はすぐにポイされる事もあるのだけれど、そこで元鞘に戻った後、またラブラブな空気を見たら自分で捨てたくせに改めて奪おうとかする無駄にガッツのあるゾンビみたいな事をする場合があるので油断はできない。そういった面倒な女に振り回されるのはとても面倒なので、それなら最初から相手の目に触れないよう立ち回った方がマシ。
悪役令嬢はどうやら転生者ではないようで、こちらは特に気にする必要もなさそうではあった。
まぁ、それでもヒロインちゃんのビッチ的行動が目立つので腹いせにあいつら妨害してやろうかと思った事もあるのだけれど。
といっても堂々とわかりやすく悪役として立ちはだかったら逆に自分が危うい。
悪役令嬢や他の攻略対象の婚約者であるご令嬢はそれなりにいい御身分だが、自分はしがない子爵令嬢。あの人に虐められているんですぅ、なんて王子あたりに泣きつかれたら自分の命が一気にレッドゾーン突入である。
だからこそ直接嫌がらせをするような事はしない。
精々、ヒロインちゃんがイケメンどもを侍らせている証拠を集めて、それをそっと婚約者のご令嬢たちに提出するくらいだ。もし、婚約を破棄する際、そちらが不利にならないように、という気持ちを込めて。
万が一それでも婚約継続した場合、それをどうにか弱みとして使えば結婚後の立場がどうにかならないだろうか、という思いも多少はあった。
自分にできる事なんて、うっかり目についたヒロインちゃんのどうしようもない行動を記録するくらいだ。そうじゃない時は普通にトーマスと仲良くするだけなので。
ヒロインちゃんが王子やその他の――トーマス以外の――攻略対象者を落としていく中、とうとう自分はトーマスと結婚の約束にまでこぎつけた。
やった! とその場でガッツポーズはしなかったものの、頭の中では一足早くウェディングベルが鳴り響いていた。
だが、ヒロインちゃんが元々ゲームになかった逆ハーレムなんてものを目指した弊害なのか、向こうにお構いなく私たちが勝手に幸せになるルートにも暗雲が立ち込め始めたのである。
本来ならばゲームのエンディングは卒業式を迎えた後だ。
卒業パーティーで断罪イベントが発生し、悪役は舞台を退場。ヒロインとヒーローが結ばれる事が確定し、エンディングテーマとスタッフロールが流れる。
その後、幸せに暮らしている二人の様子がイベントスチルと共に表示され、ちょっとオシャレな羽ペンみたいなのが動いてFINと画面下に書かれて終了する。
その手の演出は他の乙女ゲームでも見た事があるし、乙女ゲームじゃなくてもあった気がするのでそこは別に構わない。
問題は、卒業式を迎える前に断罪イベントが発生した事だ。
そう、どんなに乙女ゲームっぽい世界であってもここは現実。
悪役令嬢一人なら、ゲーム通りの展開になっていたかもしれないけれど、しかしここでは悪役令嬢ポジションになってしまった他のご令嬢もいる。
彼女らは別に孤立していたわけじゃない。
確かに婚約者に蔑ろにされていたけれど、同じ立場の同士がいるのだ。
しかもヒロインという女に婚約者が篭絡されているという、どうしようもないくらいの共通点があるのだ。わざわざ孤立せずとも、そこで手を組むのなんて考えるまでもなく当然の結果だった。
そして、彼女らは卒業した後結婚する予定であるのだ。
確かにそう考えると、そこまで暢気に待ってるとかないなと思う。
婚約を破棄するにしてもされるにしても、攻略対象者たちはヒロインと結ばれる事を考えているだろうけれど、令嬢たちは次の相手を探さねばならない……とくれば、確かに悠長にしてらんないよなとシーナも納得した。
ヒロインはどうやら他の攻略対象じゃない男性でも一応ヒロイン判定イケメンだと思われた相手にちょっかいをかけていたらしい。
逆ハー狙いというところにばかり目がいって、それ以外の男性に言い寄ってるところまではシーナも気付けなかった。だが、そのせいで婚約者との婚約が破棄された男性はどうやら他にもいたらしく、知らぬ間にヒロインはとんでもない恨みを買っていたのだ。まぁ、決められたお相手との婚約をどうにかなかった事にしてもらったのにその後で、貴方とそんなつもりはなかった、みたいな事言われて振られたら、まぁ、普通に恥よなとシーナだって思う。
攻略対象じゃない男性たちにヒロインはどうやらあれこれ貢がせていたらしい。
やってる事が完全に悪女……とシーナは戦慄した。
その中でも一際、と言っていいかはわからないが、ともあれヒロインに恨みを募らせている人物にシーナは声をかけられたのである。そして彼からその情報を聞かされた。
どうして私に? とシーナは思った。
そして当然のようにその疑問を口にすれば、彼は恐ろしい事を告げてきたのだ。
ヒロインと彼女が侍らせている男性たちへの断罪イベントは、本来の予定を大きく繰り上げて行われた。結果として、男性たちの婚約者であった令嬢たちは全員が婚約破棄を突きつけてしまったし、大勢の前で行われた事もあって今からあれはやっぱり無かったことに……ともできない。
しかも今までヒロインはどうやらみんなの前では清純な乙女を演じていたのだ。
流石に誰かの前で堂々とキスしたり身体中あちこちまさぐったりしてはいなかったけれど、二人きりになって他の目がないと思った場所ではやっていた。
ヒロインにとってゲームに居たキャラとそれ以外のイケメンあたりはかろうじて存在を認識していたかもしれないが、そうでもないモブなど視界に入ってすらいなかったのだろう。結構な目撃者がいた。そしてシーナだってうっかりそういった場面を目撃した事が何度もあった。とっても気まずい。
見たくて見たわけじゃないし、下手に文句を言えば何見てんのよとか逆にこっちが悪者にされかねない。
そうやって二人きりの時に、お互い愛を囁いて、手綱をしっかりと握っていたのだろう。
すっげぇな。ウェブ小説で見た逆ハー狙いの酷いヒロイン通称ヒドインと全く同じ事してるやん……とシーナは改めて戦慄した。
王子の事を拒否なんてできないけど、でも私が本当に愛しているのは貴方だけよ、とか言って口づけしたりしてたくらいならまだ可愛いほうだ。
しっかりばっちり身体の関係もあったらしい。
そんな女に引っかかった自分も自分だが、とシーナに声をかけてきた令息はヒロインと自分自身への怒りがあったようだけど、シーナに声をかけてきたのは簡単な話だった。
繰り上がり断罪イベントによって、王子は廃嫡まではいかなかったがそれでも立場は随分と下がった。正式に王太子となる前だったので、王位継承権が下がる程度で済んだ。
他の継承権を持つ者たちと改めて王位を争うにしても、返り咲くのは難しいだろう。
そもそも、堂々と浮気をしているのを目撃されているのだ。そんな相手と結婚しようという令嬢が果たしているかどうか……権力目当てで結婚するなら可能性はワンチャンあったが、しかし王位継承権を下げられてしまってはその権力というのも旨味はない。
しかも他の令息を虜にしつつも自分一人を愛してくれていると信じていたヒロインは実は他の連中とも口づけどころか身体の関係を持っていたとなれば。
真実の愛なんていう言葉すら口に出せるはずもなく。
というか、断罪イベントの時に出された証拠のあれこれで化けの皮がはがれたヒロインの醜い叫びにすっかり恋心は消えてしまったのである。
百年の恋も冷めるとはまさにこの事。実際百年も恋してないだろと突っ込んではいけない。
それ以外の令息たちはというと、宰相の息子はそんなハニートラップにかかるとかどうかしてるぜとばかりに後継者から外された。王子が廃嫡されていないのもあって、彼も一応家を追い出される事にはならなかったようだけど、後継者は弟に変更されたし、その弟の下で働くように言われたらしい。
今までは自分こそが後継者で次の宰相になるのだと思っていた彼は、しかし今まで下に見ていた弟にその立場を本人が望まずとも譲り、弟の下働きとして生涯仕える事が決められてしまったのである。
何気にプライドの高かった彼にとって、屈辱以外の何物でもなかった。
仮にこんな生活耐えられないと家を出たところで、貴族としての暮らししか知らない彼が市井でマトモに生活できるとも限らない。ヒロインと何度か市井にデートに洒落込んだ事はあっても、表面上さらっと見ただけで市井の暮らしを体験したわけでもないのだ。
婚約破棄に関して有責なのは男性側だったこともあって、彼の個人資産は慰謝料として没収されてしまったし、それだけでは到底足りなかったのもあってどのみち彼は当分家から出る事など無理な話だろう。
神官長の息子もまた、似たようなものだった。
彼の場合は生涯下っ端の神官として仕える事が確定した。
いっそ破門して追放しようにも、野垂れ死ぬのが目に見えている。
失うものなどもう何もない、となって自棄を起こされても困るので、生涯飼い殺しとなったのだ。
騎士団長の息子は将来父のような立派な騎士団長になるのだと言っていたが、しかしその道は断たれた。彼も下手に放流するとどこぞで山賊や野盗のようになるかもしれないし、下手に実力があるのでそうなると厄介。腕を潰して追い出すよりもこちらも近くで監視しつつ使い潰す事が決まったようだ。
他のヒロインに篭絡されていた者たちも、大体似たようなものだった。追い出して野垂れ死にさせるにしても、そうなるまでに面倒ごとを起こされては困る。
故に監視しつつ、もしきちんと改心するようであれば。
やらかした事に対して何が悪かったのかを理解し、本当に心から反省し更生するのであれば、その時は待遇も変わるだろう。だが、いつまでも己の何が悪かったのかを理解せず腐り続けるようであれば。
その時は、彼らの親が直々に引導を渡すつもりなのだとか。
まぁ、悪い女に引っかかっちゃったのが運の尽きよな、とシーナは思った。
攻略対象者のほとんどがシーナとは関わりがなかったので、ほぼ他人事である。
シーナにとっては、あのビッチヒロインにトーマスが狙われなくて本当に良かった~! という気持ちがほとんどである。
だがしかし、かつてヒロインに入れあげて貢がされポイされた令息は、ヒロインの企みを耳にしてしまったのだという。
やらかした事がやらかした事なので、ヒロインも勿論処分される事が決まっている。
いる、のだが。
どうやら彼女は納得していないらしく、反省するつもりもなさそうなのだとか。
平民に戻したところで、あの男たちを手玉にとる様は放置しておくと後々面倒な事になりそうな予感しかしない。
下手に民衆に王家への不満を植え付けられて先導し反乱、なんて事にだってなりかねない。
故に、男爵令嬢のままではあるが戒律の厳しい、都会から離れた修道院へ封印する事になるのだとか。
封印とはまたいい得て妙だなとシーナは思った。一歩間違うと人の形をした災厄と言われても否定できないのだから。
だがしかしヒロインはどうにか隙を見て脱走しようとしているのだとか。
無駄にガッツのあるヒロインである。もう詰んでるしゲームオーバーなんだから諦めて欲しい。
何故そんなことを、と思えばどうやらまだヒロインが学園にいた間、それこそ断罪されて家に連れ返されるまでのわずかな間で、数名の令息たちに助けを求めていたようなのだ。
今までヒロインが捨ててきた相手なので、勿論ここで絆されて助けようなんて思う者はいなかったようだが。
彼もまたその一人だった。
助けるつもりはない。それどころか地獄に落ちろと思っている。
だが、不穏な言葉をその時彼は聞いてしまったのだ。
忘れてたけどトーマスなら助けてくれるかもしれない……と。
それを聞いたシーナはヒロインを抹殺することを決めた。
今の今までヒロインがトーマスと接触していなかった事はわかっている。ヒロインが近づかないからこそ、シーナは着々と仲を深めたのだから。
だがあのヒロインは転生者で、トーマスについても知っている。
同じ元は平民で貴族の家に迎え入れられたという立場。
それだけなら、今となってはトーマスが助ける必要もない境遇が似た他人であるけれど。
それでもあれはヒロインなのだ。
ヒロイン補正とかあるかもしれない。
そうでなくとも、ころっと同情心とかでやられるかもしれない。
冗談ではない。
情報提供者の令息曰く、近々ヒロインが修道院に送られるのは確実なのだが、その隙に逃げ出す可能性がとても高いのだとか。
恐らくはそこでトーマスに接触を試みる可能性がある、と言われてしまえば。
ヒロイン殺さなくちゃ、と思うのも仕方のない話で。
勝手に逆ハーやろうとして失敗しただけならまだしも、もうゲームオーバーみたいな状態なのにまだ足掻こうとか、しかも今まで見向きもしなかったトーマスを頼ろうなどシーナからすれば許せるものではない。
改めてシーナは令息に問うた。
何故私にこのような話をしたのか、と。
彼は言った。
せめてものけじめだと。
かつてヒロインに入れあげて貢いで婚約者との関係も捨てて最後には自分も捨てられてしまった哀れで惨めな男だけれど。
だからこそ、アレを野放しにするような真似はできないと決意を宿した目をして言うのだ。
まぁ、いくら戒律の厳しい修道院に放り込んだところで、あの手の人間は虎視眈々と隙を窺いチャンスをものにする。ほとぼりが冷めた頃に逃げられて、別の場所でやらかされたのが回りまわって自分にまた迷惑がかかるなんて事にもなるかもしれない。
シーナは問うた。
彼女をどうにかするアテはあるの? と。
彼は答えた。
ある、が彼女をおびき出すのに自分は向かない、と。
一応助けを求められた事はあれど、その時点では見捨てたのだ。
今更声をかけたところで、警戒はされるだろう。よほど彼の事を甘く見ているなら乗ってくれるかもしれないが、警戒されて逃げられると困る。
その点シーナなら。
ヒロインとの接点はほぼない。
友人ですらなかった相手の誘いに乗るか? と普通なら考えるが、しかしシーナにはヒロインが誘いに乗るだろうとっておきの言葉がある。
彼がそれを知ってシーナに声をかけたとは思わない。むしろ、ヒロインが狙うトーマスの婚約者だからこそ、忠告を与えにきただけだろう。
そのついでに、彼女をどうにかする策はあるが誘い出すために手を貸して欲しい、といったところか。
「どうにかするって、どうするの?」
だからこそ。
確実にヒロインを始末するために、シーナは改めて問うた。
令息――共犯者とでもいうべきだろうか。
共犯者は、密かに用意してある小さな家におびき寄せ、そこでヒロインを殺し家に火をつけ死体を始末するつもりなのだと言った。
……正直、それ、本当に成功します? とシーナは思った。
家におびき寄せるのは、まぁ、可能だと思う。
修道院に強制ボッシュートされる前にここに身を隠して、とか言えば他に行くアテのないヒロインなら家の狭さに文句を言いつつも一応そこに留まるだろう。ほとぼりが冷めるまで、逃げたヒロインを周囲で探してこのあたりにはもういないと追手がいなくなるまでやりすごせば後は自由だと考えれば、ヒロインの事だ。小さい家だろうとなんだろうと当然のように利用するに違いない。
だが、その家におびき寄せて、そこで殺すにしてもだ。
「人を殺した経験は?」
「ない」
「なのに殺そうとするわけですよね。成功率は?」
「殺したことはないが、それでもあいつはこの手で殺す」
「……いやあの、話になりません。それでうっかり失敗して逃げられたら貴方、かつて捨てられた恨みを晴らそうとして、とか面白おかしい醜聞として社交界に広められて今度こそ貴族でいられなくなりますよ」
「しかし……」
「大体どうやって殺すつもりですか。刺殺? 撲殺? 最終的に焼くなら肉体ボコボコにされてもまぁ、どうにかなるとは思いますけど、でも刺殺は急所を狙わないと逃げる隙を与えますし、ましてや撲殺は本当に上手くやらないと一撃で死んでくれないから何度も殴る事になるんですけど。
人の肉を殴る事は慣れてますか?」
「そう見えるか?」
「見えないから聞いているんです」
駄目だこの男、とシーナは思った。
あのくそビッチヒロインにコロッと落とされた挙句ポイ捨てされるような男なので、地位はそこまで高くはない。とはいえシーナの家より家格は上である。
そしてあの女を野放しにはできない、と思う程度に責任感というか、まぁこれ以上災厄を放置してはおけぬという、かつて災厄を体験したからこその勇者みたいな事を言い出す程度には善人なのだともわかる。
悪党ならここで復讐だとかとにかくむかつくから報復したいとか、そういう理由を口にしているはずなので。
荒くれ者たちの喧嘩ならわかりやすく暴力なのだが、貴族のお坊ちゃんの喧嘩はそこまでストレートでもない。なので、この共犯者はやる気はあっても実績がない。シーナにも人を殺した実績はないけれど、それでもシーナよりも駄目駄目だと実感する。
下手に失敗してヒロインが逃げたら、その先で今までの事は全部こいつのせいなのよ、とか言われていくつかの罪は押し付けられそうな予感がひしひしとする。
共犯者は既に一度ヒロインと関係を持って、そして捨てられているので何を言っても全部を信じられる事はないだろう。ヒロインとて、何事もなく罪の一部を押し付けられるとは思っていないとは思う。時間が稼げれば逃げるタイミングも得られるから、恐らくそっち狙いになるだろうか。
生憎くそビッチの思考はシーナにはわからないので、もしかしたら他のパターンもあるかもしれない。
相手の行動を全部と言わなくても八割くらいは読める状態にしておかないと、不測の事態が起きたら後手に回って作戦が失敗しかねない。
だからこそ、シーナはふぅ、と一度溜息をついてから、改めて問うた。
「毒の用意は可能ですか?」
――修道院に送られる前。ヒロインは自室に閉じ込められていた。
扉は用がある時以外は開かないようにされて、下手にドアをこじ開けたりできないように部屋の外には大きめの家具が置かれていた。
おかげでヒロインの部屋に行く時は、複数人でいかないとそれをどかして扉を開ける事はできないが、複数人いるという事はつまり、隙を突いて逃げ出すのが難しいという事でもある。
男性であれば、言い寄ればどうにかできるとヒロインは思っていた。だが部屋に食事を運んでくるのはメイドばかりで女である。彼女たちはヒロインに甘い顔など一切しない。それもあって、ヒロインの苛立ちは最高潮だった。
折角乙女ゲームのヒロインに転生したのだ。
私こそがこの世界の中心であるはずなのに、どうしてうまくいかなかったのだろう。
やはり逆ハーエンドを狙うと言っておきながら、身分が低くて好みでもないパッとしないあのトーマスを省いたのが駄目だったのだろうか。逆ハーなのだから、そこに好みでなかろうとも攻略対象は全員落としておくべきだったのかもしれない。
でも、まだチャンスはあるはずだ。元が平民で貴族に引き取られるという境遇から、同情を引いて彼を味方につける事ができるのならば。
修道院に行くのだけは回避できるかもしれない。
ヒロインはそんな風に考えていた。
どうにかトーマスを手玉にとって結婚に持ち込んでしまえば、爵位は低くとも貴族であるわけだし、また平民に戻されるよりはマシだろう。勿論、修道院に行く事よりもマシであるのは言うまでもない。
一度どうにかこの家を出て、トーマスと話ができれば絶対に言いくるめられる自信がある。
だがしかし、その機会が訪れないのだ。
このままでは修道院行きが確定し、不自由な生活を強いられてしまう。
焦りと苛立ちたっぷりなヒロインに、しかし来客が来たと告げられた。
誰かが助けに来てくれたのかもしれない!
そう思ったヒロインは一も二もなく飛びついた。
だがしかし、やって来たのは見知らぬ女。
一応、恐らく同じ学園にいたとは思うけれど、ヒロインから見てこんな女は知らなかった。
モブが今更何の用だろうか。
そう思ったものの、まぁ一応話くらいは聞いてやろうと思っていた。
人払いがされて、応接室にはヒロインとモブ女二人きり。使用人は部屋の外に控えてもらうようにとモブ女が告げていた。
そうしてモブ女は声を潜めて言ったのだ。
「貴方、転生者なんでしょう?」
その一言で、ヒロインがモブ女の話に耳を傾けるのは充分だった。
ヒロインはてっきり悪役令嬢の取り巻きになってた他の攻略対象の婚約者の誰かか、もしくは悪役令嬢が転生者であいつらがヒロインの邪魔をしてきたのだと思っていたが、モブ女は逆ハーエンドの無い世界でそれ狙ったからそうなっただけよ、とにべもなく切り捨てた。
ヒロインだってあの乙女ゲームに逆ハーレムエンドがないのは知っていた。
知っていたけれど、でもこうしてヒロインとして転生したのだから、逆ハーも不可能ではないと思ったのだ。折角ヒロインに生まれたのだから、この世界の主役は私だ。好きにして何が悪いの? そう本気で思っていた。
それに攻略対象者の攻略情報は覚えている。もしゲームに逆ハールートがあったならタイムテーブルがとんでもない事になっていたとは思うが、それでも理論上可能だと思えた。
そうじゃなければチャレンジしようなど思うはずもない。
けれども実際は失敗した。
そして今、バッドエンドを突き進んでいる。ヒロインはそれを理解していた。
「やり直せると言ったら、どうしますか?」
「できるの!?」
声を潜めたモブ女の言葉に、思わずヒロインは大声をあげかけた。だが直前で思いとどまり、どうにか外に漏れ聞こえない声量に抑える。
「ここでは無理ですがそうですね……もし、やりなおしたいのなら、ここにいらっしゃい」
言いながらモブ女は小さく折りたたまれた紙を差し出した。それをさっと奪い取って開く。
郊外にある家だろうか。ここからそこまで離れてはいない。
「ここに行けば、リセットできるの?」
「貴方次第です。そもそも家を出る事ができるのでしょうか? 生憎私はそこまで手助けはできませんよ」
「……何とかしていくわ。今日で大丈夫?」
「修道院に行く前であれば」
「だったら尚更すぐに行くわ」
「そうですか。あまり長居をしてもアレなので、私は行きます」
モブ女――シーナはとりあえず希望をちらつかせた状態でさっさと家を後にした。
ヒロインはきっと何としてでも家を脱走して、あの家にくるのだろう。
だが、死に物狂いで脱走しようとしなくても、既に話はついている。
ヒロインがやらかした事で頭を悩ませているのは、彼女を引き取った男爵だ。
ヒロインはトーマスと境遇こそ似ているが、男爵はヒロインの母親を愛していたし、ヒロインの母も子を宿した事に気づくと、そっと身を引くことを決意して職を辞して屋敷を出た。
ヒロインの母が女手一つでヒロインを育てている途中、過労による免疫低下で風邪を拗らせて亡くなってしまい、その後になって男爵がようやくヒロインの存在に気づいた、というのがゲームでのヒロインの生い立ちである。
愛した女性の忘れ形見。
せめて彼女の分までヒロインを幸せにしようと思っていたはずが、どっこい蓋を開ければとんでもねぇビッチである。男爵からすれば愛する女性の代わりにこっちが死んでたらなぁ、とか思ったって許されるくらいだ。
正直王族の結婚に横やり入れようとしたとかいう理由で死刑にされてもおかしくなかったのに、悪役令嬢たちが早急に断罪しちゃったものだから、罪カウンターがヒロインに全て向かうわけでもなく王子たちにも向いてしまった結果、罪が若干軽くなってしまった。
といっても今まで男を手玉にとって貢がせたりポイ捨てしたりとやらかしているので、社交界になどとてもじゃないが出せるはずもなく、また市井に返すわけにもいかない。
それもあって、修道院なのだが、修道院だってタダではない。
簡単に篭絡された男どもにも問題があるとして、男爵家そのものが潰れるような慰謝料こそ請求されなかったが、ヒロインを修道院に入れるのにかかる費用は自腹である。
命があるだけマシとはいえど、しかし真っ当に育ててたはずの娘がとんでもビッチだと知った時の驚愕・落胆は危うく心臓が停止するところだったのだ。男爵にとって。
しかも全然反省してないとか、最愛の女性からどうしてこんなとんでもないのが……と何度も自問するレベル。なお答えは出てこなかった。
これじゃあいくら戒律が厳しいと評判の修道院に送ったところで、この娘が改心するとはとてもじゃないが思えなかった。要するに、色んな意味で男爵はこの娘を持て余していた。引き取ってからの教育に問題はなかったはずなのに、どうしてこんな事になっているのか。それはヒロインがこの世界の主役だと思って好き勝手やってるからなのだが、その理由を男爵が知ることはない。たとえ聞かされたところで理解などできないだろう。
だからこそシーナと共犯者は男爵に話を持ちかけたのだ。
彼女を殺したいと思う相手は大勢いるし、このままだとそちらにもとばっちりが行くかもしれない。
ならば、そうなる前に彼女に自ら死を選んでもらいましょう、と。
あの女が自分から死ぬなんてあるか? と共犯者は思っていたが、しかし男爵との話し合いに余計な口をはさむなとシーナに言われてしまっている。
そして男爵もまた娘が自分から死を選ぶなんてするだろうか、と疑問に思った。
けれどもシーナには確信があった。
彼女は間違いなく自分をこの世界の主人公だと思っている。ゲームでなら、彼女は確かにヒロインだった。けれどもここは現実で、ゲームの舞台ではない。
だからこそゲームにはいなかった存在も普通にそこかしこにいるし、この世界で生きているすべての者たちにゲームにはなかったシーンが当たり前のように繰り広げられていく。ゲームでなら場面転換で日数がスキップされたりもしていたけれど、この世界でそんな事はあり得ない。
けれどもヒロインはその事実に気付いていないのか、はたまた意図的に目をそらしているのか……
そういった者たちはきっとヒロインにとっては全てモブとして片づけられていて、ちゃんとこの世界を生きている存在だなんて思っていないのかもしれない。
どちらにしても、彼女が自分自身をヒロインだと認識していて、なおかつこの世界の主人公だと思っているのならシーナにとっては彼女が自ら死を選ぶように事を進めるのは簡単な話だ。
「えぇ、必ず彼女は自分で死にます。ご安心を」
故に、自信たっぷりに言ってのけた。
最愛の女性の忘れ形見であるけれど、しかし学園で彼女がやらかした事はとんでもない事で。
篭絡した男性が婚約者の女性に冤罪ふっかけつつ婚約破棄を宣言するより先に浮気の証拠と共に婚約破棄を突きつけられて完膚なきまでこてんぱんにやられた事で事態はそこまで大きくならなかったけれど。
それでもヒロインがやらかした事実は消えるわけでもない。
実際に、ヒロインを殺してやりたいと思った者は複数名いたようであるし、いくら戒律が厳しかろうとも修道院行きで済むなど生温いと考える者もいただろう。
男爵自身は善良な、取るに足らない貴族であるがしかしあのヒロインの父という時点で、ヒロインに向けきれなかった恨みつらみや怒りの矛先が向かないとも限らない。
できる事ならば、彼女を処分する事が、男爵が親として最後にできる引導のようなものだ。
そうしなければ、恐らくはそのうちどこかの貴族の家がじわじわと男爵家を潰しにかかってもおかしくはない。
それもあって、共犯者には事が済んだらヒロインの顛末を広めてもらう手はずになっているし、男爵はヒロインとシーナが二人きりで会話できるように使用人たちに伝えてあった。
その後、ヒロインが家を脱走するだろうけれど、それは見逃して良いとも。
だからこそ、シーナがヒロインに対して話をしに行った時点で、彼女の運命はもう取り返しのつかないところまできていたのだ。
だがそんな事は知らないヒロインは、夜になってからひっそりと屋敷を抜け出した。運が良かった、と思ったかはたまた頑張ればどうにかなったわね、と己の努力が実を結んだと思ったかはわからない。
それでも、いそいそと指定された家まで大急ぎで移動して。
夜というのもあって、気を付けなければ色々と物騒ではあるものの、ヒロインは今までに市井をイケメン侍らせ練り歩いていたのもあって治安の良し悪しはほぼ把握していた。そうでなくとも元平民だ。昼と夜とでは勝手が違うが、それでも明らかにヤバそうなところは急いでいても避けて遠回りで移動したのが良かったのだろう。
途中でこれといったハプニングに見舞われる事もなく、彼女は共犯者が用意してあった家にたどり着いてしまった。
そして中で待っていたシーナに詰め寄ったのだ。
シーナは落ち着き払ったまま、小さな瓶を取り出した。
「やり直したいなら、これを飲むといいわ」
「何よそれ」
「マジックアイテム」
「そんなのあるの? ゲームにはなかったじゃない」
「そりゃあとっておきだもの」
確かにそんな都合の良いアイテムなどあるはずもないが、しかしシーナはしれっと言ってのけた。
ヒロインの目の前に出した瓶の中身は共犯者が用意した毒だ。
王家が使う毒杯とは異なり、普通に苦しんで死ぬタイプの毒だ。
シーナの家で用立てるよりも、共犯者の家の方が入手は容易いだろうと思っていたが、まさかこうもあっさり毒を手配できるとは思っていなかった。
貴族怖ぁ……とシーナは思ったが、共犯者からすればシーナの方が恐ろしいと思っている。
「なぁんか怪しいわね。ちょっとあんた試しに飲んでみなさいよ」
シーナの態度に不審な点はなかったけれど。
しかしそれでもヒロインは訝しんでいた。
ま、普通は怪しいと思うわよね、とシーナだって思う。
けれど、言われた通りに飲むつもりはシーナにだってない。
だからこそ、きょとんとした顔をして、
「本当にいいの?」
そう確認した。
「これ一回分しかないから、私が飲んだら貴方の分はないし、やり直しもできなくなるわ。
時間が巻き戻った時、飲んだ私の記憶はそのまま持っていけるけど、貴方は今回の記憶は残らない。そうなると、また同じ過ちを繰り返す事になる。その時にまたやり直したいって思っても、私、次は助けないけど?」
「なんでよ」
「なんで、って。だってまた同じようにここに来て、同じように差し出しても怪しんでまた私に飲ませるでしょう? 今回の記憶がないなら次だって同じようにやらかすでしょうし。だったら、次はもう助けようとかする事もなく貴方が修道院に行ったあと、社交界でその噂を聞いてそれで終わり。
だって私、学園にいた時だって接点ほとんどなかったんだから、わざわざ関わりに行くつもりもないもの。貴方だって覚えてないなら突然私がきたところで、攻略対象者にかまけて無視しそうだし、それどころか私に虐められた、なんて嘘ついて同情買いそうだし。
今回は同じ転生者のよしみで声をかけてあげたけど、流石に同じこと繰り返すつもりはないのよ。
それで、本当に私が飲んでいいのね?」
ヒロインの目の前で瓶を軽く揺らしてみせれば、ヒロインは「よこしなさいよっ」とひったくるようにして奪い取った。
マジックアイテムと言われただけなら不審感たっぷりだったがシーナの話しぶりから時間を巻き戻す魔法薬だと思ったのだ。やりなおせる。それも、今回の記憶を引き継いで。
そうなれば、同じ間違いはしない。次はもっとうまく立ち回って、全員手中におさめてやる。
そう思いながらヒロインは瓶の蓋を開けて、中身を一気に呷った。
変化が出たのはそのすぐ後だ。
毒の効果が表れて、ヒロインは喉を掻きむしりつつシーナを睨んだ。
「あ……だ、っだ、ぃ、ぁに……」
そこまで言って、彼女の口からは鮮血が溢れた。
あんた一体何飲ませたの。
恐らくはそう聞きたかったのだろう。
片手は喉を押さえているが、もう片方の手をシーナに伸ばそうとして。
シーナはその手を振り払った。
そのまま呆気なくヒロインは倒れる。
あとは、彼女に別れを告げて家を出て、共犯者に声をかけるだけだった。
共犯者はヒロインに騙される程度には愚かな男であったけれど。
それでも、無能というわけではなかったらしい。
家が燃えているものの、それは既に周囲にも根回しがされているらしく大きな騒ぎにはならなかった。
シーナはそれでもやってきたやじ馬たちの中に紛れて、なんとなく家が燃えるのを眺めていた。
屋敷で彼女と話した時、リセットできるの? なんて聞かれて貴方次第だとシーナは答えた。
嘘ではない。
こうして転生したという事実があるのだ。次ももしかしたら生まれ変われるかもしれない。前の記憶を引き継げるかどうかまでは知らないが。
そうでなくとも、毒なんて飲まなくたって、修道院で心から反省して今まで迷惑をかけた人の数以上に奉仕活動で誰かを助けていけば、いつかは人生再出発できたかもしれない。
どちらにしても、やり直す、という意味でのリセットならできたはずなのだ。
もっとも彼女の言うリセットは本当にゲームと同じような意味合いだったようだけど。
だから、時間を巻き戻らせる魔法の薬、なんていう馬鹿みたいな物に騙されたのだ。
あるわけないだろそんなもの。
確かに転生したっていう事実からしてもう魔法みたいな奇跡だけど。しかも自分が知ってる乙女ゲームの世界となれば、魔法も奇跡もあるんだよとか言いたくなるのかもしれないけど。
でもこの世界に魔法なんてものはない。
ゲームだったら、それっぽいアイテムはあったと思う。好感度上げるタイプのアイテムで。
でもそれはあくまでゲームだ。
この世界でもしあのゲームにあったような上げるだけで相手の好感度が一気に上がるような物をとなれば、どう考えてもヤバイお薬が含まれている。
たとえばそれが相手が欲しがってた物、とかであれば、多少は好感度も上がるとは思う。花とか本とか装飾品とか、プレゼントにありがちなものであれば、別に危険性も違法性もなかったと思う。ゲームアイテムより好感度が上がるかとなると微妙だけれど。
でもゲームアイテムで好感度を上げるアイテムは、大半が食べ物だった。
これだけでヤバイお薬が入ってる説を疑うのはどうかとも思うけれど、でもそう考えるとしっくりくるのも事実なので。
摂取するタイプのアイテム。
ヒロインに渡したあの毒も、だからこそ信じたのかもしれない。
普通に考えて大して知らない人間から貰った食べ物とか、そう簡単に信用するなよって思うのだけども。
ま、なんにせよ。
邪魔な人間は消えたのだ。それも自分から。
野次馬たちに紛れるようにして、シーナはその場を立ち去った。
トーマスに余計なちょっかいをかけるヒロインがいなくなった。
その事実は、シーナにとってとても大きい。
ヒロインにとってはバッドエンドだけれど、シーナにとってはハッピーエンドである。
だから、というわけでもないが。
あの女に振り回されて不幸になった人たちも、いつかそのうちそれなりに幸せになーれ、なんて。
完全に他人事のように祈ったのであった。
次回短編予告
色んな意味で酷い呪いの話。