幸せ探しの物語
「はぁ……僕って何て不幸なんだろう」
街が寝静まった真夜中。
眠れなくてそっと窓を開けた。
ひんやりと冷たい空気に、僕は思わず身震いする。
窓枠に両肘を乗せて呟いた言葉は、白い吐息と一緒に闇の中に消えた。
最近は、何をやっても失敗ばかり。
あれもこれも、ちっともうまくいかない。
母さんには朝から晩まで怒られてばかり。
幼馴染の友達とも、顔を合わせば喧嘩ばかり。
この先もずっと、いや、もしかすると一生、こんな冴えない日々が続くんだろうか。
そう考えるだけで頭が痛い。
「アンタ、幸せじゃないの?」
突然かけられた声に飛び上がりそうになる。
「……えぇっ?!」
顔を上げると、確かにそれは空に浮かんでいた。
二本足で立ってこちらを見つめる、一匹の黒猫。
「何、これ。……夢?」
「夢でもなんでもいいじゃない。とにかく、今のアンタは幸せじゃない。間違いない?」
「それは……まあ。それなら何? 君が僕を幸せにしてくれるの?」
黒猫は面白そうに眼を細めて笑った。
いや、違うな。本当は黒くてよく分からない。
でも、僕の目には笑ったように見えたんだ。
「そんなことは神様に頼みなさいな。とりあえず、今のアンタが幸せじゃないのなら、アタシがもらってもいいよね?」
「もらうって、何を?」
「アンタの幸せ」
何を言っているんだろう、この黒猫は。
自分は幸せじゃないと言っているのに。
けれど黒猫はこちらの気持ちなんてお構い無しに、ぐいとこちらに身を乗り出してきた。
「幸せの意味が分からないなら、アタシにちょうだい」
「……そう言われると、逆に素直にうんって言いたくなくなるんですけど」
「何さ、面倒くさい人間だね」
今度はその声で、黒猫が怒っているのが分かった。
これは多分、間違いない。
じゃあこうしよう、と黒猫は半分やけっぱちになったように言った。
「アンタに三日あげる。それでも幸せが何か分からないなら、アタシがアンタの幸せをもらう」
アンタが不幸だと思うものが、アタシにとっては幸せだから。
そう黒猫は言った。
*****
「う……んん」
目が覚めて初めに思ったのは、やけによく寝た気がするってこと。
妙な夢を見たんだけど、それがよかったのかな。
何となくいい気分で起き上がり、目覚まし時計を見て仰天した。
「……大変だ、寝坊しちゃった!」
部屋を飛び出して洗面所に走る。
その途中、台所の横を通り過ぎる時に怒って声をかけた。
「どうして起こしてくれなかっ……」
その言葉は最後まで続けられなかった。
当然だよ、だっておかしいんだから。
誰もいないこの家で、僕は一体誰に文句を言ってるんだ?
そう思った瞬間、ちくりと胸が痛んだ気がした。
理由は分からなかったけれど。
とりあえず慌てて身支度を整える。
待て待て、朝ごはんを食べてないぞ。
そう思って冷蔵庫を開けると肉に魚、卵に調味料。
……ってあれ、やっぱりおかしい。
僕は料理なんて全然出来ないのに、毎朝何を食べていたんだっけ。
何故だか上手く思い出せなかった。
仕方がないので、貯金箱の中のお金をかき集めた。
学校の帰りにパンでも買ってこよう。
学校まで休まず走って、何とかチャイムと同時に教室に滑り込んだ。
「ヒロ、ギリギリじゃん。寝坊かよ」
前の席のダイキがにやにやして振り返った。
隣の席のリオも机に肘をついてこちらを見ている。
「どうせ夜更かししてゲームでもしてたんでしょ。いつまでもガキだよね、ヒロは」
「そんなんじゃまともな大人になれないぞ。睡眠時間が足りないと、脳が成長できないんだってさ」
「うわ、かわいそ」
「もう、うるさいな!」
二人は最近、何かと人のやることに文句をつけたがる。
イライラして乱暴にリュックを下ろした僕は、二人を無視して窓を眺めた。
「じゃあ、次の文章。大野、読んで」
国語の授業中、呼ばれて僕は立ち上がった。
国語は嫌いじゃない、というかむしろ得意だ。
余裕だと思って読み出したけれど、すぐに言葉に詰まってしまう。
不自然な沈黙に、先生が首を傾げた。
「どうした?」
どうしたと聞きたいのはこっちの方だった。
なぜだろう、すごく目にしたことがあるのに読み方が分からない。
「えっと、これって何て読むんでしたっけ」
ふざけていると思ったのだろう、数か所から笑い声が聞こえた。
先生は若くてノリもいい人なので、怒らず乗ってくれた。
「しっかりしろよ。もしかして最近、不幸続きで忘れちゃったのか? 幸せ、だろうが」
「し、あ、わ、せ? ……って、どういう意味でしたっけ?」
「おいおい。お前の幸せ、一体どこに消えたんだよ。かわいそうにな」
教室がどっと沸いた。
その中で、僕は思い出した。
―アンタに三日あげる。それでも幸せが何か分からないなら、アタシがアンタの幸せをもらう―
休み時間、僕はダイキとリオに夢の話をした。
結局自分がこんなことを相談できる人間なんて、この二人位しかいないんだ。
「幸せの、意味?」
「私、知ってる。こういうこと言い出すのって思春期にありがちなんだって。いっぱい悩めよ、少年」
「あのさぁ。冗談とかじゃないんだって。本当に思い出せないんだよ。幸せって言葉」
どこか懐かしくて、どこかくすぐったいような。
そんな言葉だと思うのに、その正体が分からない。
「なぁ。真面目に答えてよ。幸せって何だっけ?」
二人は顔を見合わせてしばらく考えていたけれど。
「漫画見てる時とゲームしてる時だろ、やっぱり」
「お菓子食べてる時。食べ放題とか最高だよね。あ、あと食べすぎたのに体重が増えてなかった時も幸せ」
僕はふぅんと唸った。
「何か……もしかして、幸せってすごい小さくて、他人から見たらどうでもいいもの?」
二人の答えから思った正直な感想だったけれど、二人は気に入らなかったようだ。
「折角考えてやったのにふざけるなよ」
「あんたなんて一生不幸でいればいいわ」
「何だよ、そこまで言うことないだろ」
結局、最後はまた喧嘩になってしまった。
*****
目覚まし時計のおかげで、翌朝は普通に起きることが出来た。
結局昨日は帰りにコンビニでおにぎりとパンを買って帰ってきた。
おにぎりは昨日の夕飯で、パンが今朝。
広い居間で一人で食事を済ませ、黙って家を出た。
だって誰もいないんだから、声の出しようもない。
余裕をもって学校について、自分の席につく。
チャイムが鳴って担任が入ってきた。
僕は前と横の席を何気なく眺めた。
いつからかは忘れたが、この二つの席はずっと空いたままだ。
寂しいから、早く転校生でも来ればいいのにな。
そう思うと、昨日感じたのと同じように、胸がちくりと痛んだ。
その理由はやっぱりわからなかったけれど。
何事も無く授業は進んだ。
僕はクラスメートと適当な会話をして、一人で昼食を食べ、一人で家に帰り、一人で夕飯を食べた。
ちなみに今日もコンビニでおにぎりとパンを買った。
多分きっと明日も同じだろう。
相変わらず幸せの意味は分からないまま。
幸せってものがもしもまだ自分にあるのなら、あの黒猫にやっても構わない気がしてきた。
*****
その次の朝は、起きてすぐに寒さに震える。
カーテンを開けると、雪がちらちらと降っていた。
もうそんな時期なんだもの、道理で寒いはずだ。
パンを食べて家を出る。
けれど、少し歩いて足を止めた。
鍵をかけ忘れた気がしたから。
振り返って、そして息を飲んだ。
「あ……れ?」
自分の家はどこだったろう。
目に映る景色はまるで知らない街並みのようで、足が一歩も動かなかった。
とにかく誰かに連絡を。
そう思ってすぐにそれを自分で却下する。
こんな時に一体誰に何を連絡するって言うんだ。
誰も知らない、この場所で。
いや、そもそも。
と、僕はさらに大変なことに気づいた。
―僕は、誰だっけ?-
自分の名前が分からない。
自分が通っているはずの学校も、帰るべき家も見つからない。
震えながら、かろうじて持っていたお金で自動販売機でジュースを買って飲んだ。
とても怖くて何か食べる気にもならなかったから。
そうしてふらふらと街を歩き回っていたら、いつの間にか日が暮れていた。
たまたま見つけた公園のベンチに腰を下ろす。
と同時にため息が口をついた。
僕は何もかも分からなくなってしまった。
これが幸せを手放すってことなんだろうか。
あの黒猫に自分の幸せをあげたら、僕は明日からどうやって生きていけばいいんだろう。
いや、でも。
こんな人間が消えたところで、誰も心配なんてしやしないのかもしれない。
だって自分は一人きりなんだ。
あの広い家は確かに、僕一人で住むには広すぎる。
―早く起きて朝ごはん食べなさい。遅刻するわよ―
心臓が大きく一つ音を立てた……これは?
いつも怒ってばかりだと思っていたのに、こうして思い出すのはにこにこと笑っているあの人。
ああ、そうだった。
あの家は自分一人では無かった。
毎日温かい食事を作ってくれる、大事な人がいたはずだ。
いや、それでも。
僕は学校では一人きりだったじゃないか。
友達だと大声で呼べる奴は誰もいない。
僕が消えたって心配する人は誰も―。
―何、今度は俺のことまで忘れちゃうの? 俺達、親友じゃないの?-
―薄情者だよねぇ、本当に。こんな可愛い幼馴染、どうして忘れるかな―
もう一つ、心臓が大きく鳴った。
「母さん、ダイキ……リオ」
口にした途端、記憶が一気に蘇ってきた。
そして同時に涙も溢れてくる。
ああ、もう二度と会えないんだろうか。
どうして、僕は何が不満だったんだろう。
特別じゃなくたっていい。
変わり映えがしなくたって、全然平気じゃないか。
いつも傍にいてくれるだけで僕は間違いなく、幸せだったのに。
「あ~あ、見つかっちゃった」
心底残念そうな声がして、僕は顔をあげた。
目の前にはあの黒猫がいた。
「あと少しだったのに。幸せ、見つけられちゃった」
髭を震わせて大きく息をつくと、黒猫はふわりと空に浮かんだ。
「悔しいからもう行くね。せっかく取り戻した幸せなんだから、これからは二度と文句なんて言わないでよね」
黒猫はぷいと顔を背けると、そのままこちらに背を向け空高く登っていく。
「あ、あの……ありがとう! 君のおかげで、大切なことを思い出せたよ」
これが僕に起こった、ちょっと不思議な幸せ探しの話。
めでたしめでたし。
「……って、ちょっと待った!」
突然僕があげた大声に、黒猫は全身の毛を逆立ててその場で動きを止めた。
振り返った目は真ん丸になっていた。
随分怖がらせてしまったみたいだ。
「な、何なの、急に。びっくりさせないでよ。猫は人間なんかよりずっと耳がいいんだからね」
「あ、ごめん。いや、でも駄目だよ」
「はぁ?」
「話はまだ終わりじゃないから。幸せを探してたのは僕だけじゃない。……君もだろ」
「……アタシ?」
そう、黒猫は初めから言っていたはずだ。
―アンタが不幸だと思うものが、アタシにとっては幸せだから―
「今の君は幸せじゃないんだよね? 家族や、友達や、家も……いや、多分名前だってまだ無いんじゃないか? だから僕のを欲しがったんだろう?」
「…………」
「じゃ、君だって幸せにならなきゃ」
「……駄目。神様との約束なんだもの」
捨てられた哀れな黒猫に神様がくれた、たった一度きりのチャンス。
幸せを忘れてしまった人間から、幸せを受け取れるかもしれないチャンス。
それに失敗してしまったから、もう駄目なんだと黒猫は言う。
「そんなのおかしいよ。誰か一人だけが幸せであればいいなんて間違ってる。いいかい、僕の所においで。必ず君を幸せにする」
「無理だよ。きっとアタシは、アンタと出会ったことも忘れてしまう」
「じゃあ、僕が君を見つける。だから、もう泣かなくていいんだよ」
丸い瞳からポロポロと涙をこぼしていた黒猫は、少し恥ずかしそうに笑って頷いた。
「すごく嬉しい」
そうして次に僕が瞬きするほんの一瞬で、跡形も無く消えてしまった。
*****
「おはよう」
いつもより早く起き出すと、母さんが驚いた顔をした。
「あら、裕之。随分今日は早いのね。何かあった?」
「いいや、別に」
美味しそうな匂いがする食卓に座った。
ご飯に味噌汁、焼き魚。
怒っていても疲れていても。
毎日、母さんが僕のために作ってくれるご飯だ。
「母さん。……いつもありがとう」
さっきよりももっと驚いた顔は、けれどすぐに笑顔に変わった。
雪はあれからも降り続き、辺りはすっかり白一色だ。
寒さに震えながら家を出て、いつもの場所でダイキとリオに会う。
「今日はちゃんと起きれたんだな」
「まぁね」
「二人とも、宿題ちゃんとやってきたんでしょうね」
「「……あ」」
リオがうんざりした表情で首を振った。
「まったくもう。写させてあげるから早く学校行こ」
「「あざっす」」
そこで、僕はふと足を止めた。
視線の先にあるのは普通のマンションの駐車場。
何故かと聞かれても答えられない。
声が聞こえた訳でも無いし。
でも確かに約束をしたから、僕には分かるんだ。
「「ヒロ?」」
ゆっくりと駐車場に近づき、迷うことなく一台の車の下を覗き込んだ。
小さく痩せた黒猫。
こちらを見上げた顔は、まるで普通の猫みたいだ。
魔法が解けて、本当に僕のことなんて忘れてしまったのかもしれない。
それでもこうして出会うことができたのだから、きっと神様も僕に賛成してくれて、最後に少しだけ力を貸してくれたのだと思う。
―ありがとう、神様。ここからは僕に任せてよー
そっと手を伸ばすと、黒猫は目をぱちくりさせた後、そろそろと車の下から出てきた。
抱き上げても嫌がる様子は無くて、横から覗き込んだ二人に大人しく撫でられている。
寒さと空腹で弱っているようだけど、この白い寒い世界で頑張って生き延びた小さな黒猫。
僕はそんな黒猫をしっかりと抱きしめた。
学校には今度こそ遅れてしまうけれど、今日だけは勘弁してもらおう。
「ようこそ。これからは、一緒に幸せになろう」
これは一人と一匹の、ちょっと不思議な幸せ探しのお話。
めでたし、めでたし。