第四話 占い師
かつては交易都市として名高かった楽都は、今や魔性蔓延る異形の都市として知られている。
楽都を特別な土地と変えた原因は、五十年前に発生し、妖魔蠢く魔界と一時的に融合した事件“大浸食”だ。
この世は神々の住まう清浄なる天界、神々の被造物である人間や妖怪が住まう地上界、妖魔の支配する禍々しき魔界の三つに大別される。
本来ならばそれぞれの世界は容易には交わらぬ筈が、今も判明しない理由によって魔界が楽都の土地と交わり、短時間のみの融合ではあったが楽都に多大なる後遺症を残していった。
この世のものとは思えぬ魔獣、怪魚、魔虫が跳梁跋扈し、骨も残らず食い殺される危険地帯や殺されたはずの住人達が今も時折姿を見せるという幽霊の住まう町、内陸の楽都になぜか潮の香と波打つ音を届ける暗黒の海。
尋常な生物にも大きな影響を及ぼして、三つの首と六つの目で獲物を探す三つ首犬や群れで獲物に襲い掛かり骨まで啄む殺人鳥、体内に侵入して脳を支配し苗床としる寄生細菌、魔界の瘴気の影響を受けて肉体が変貌あるいは不可思議な能力に目覚めた人間達……
この世に生じた黒い染み、地上世界を蝕む大いなる穢れ、おぞましき魔界の爪痕……このように楽都は外の者達から蛇蝎よりもはるかに嫌われ、恐れられていたが、同時に魔界との融合による副産物が楽都に莫大な富と魔性の魅力を齎していた。
宿主に超人的な身体能力と再生能力を与える寄生虫、汗や涙を黄金を始めとした貴金属へと変換して排出する錬金生物、楽都でのみ産出される希少な鉱物や他の土地には存在しない劇的な効能を持つ薬草や魔花。
この世の光と闇、聖と魔、善と悪を凝縮して閉じ込め、濃縮した構図の如き都市。それが楽都であった。
そんな楽都の魔界の浸食がほとんどない安全地帯を、クガイを筆頭に三人は進んでいる。
主に外部からの観光客を相手にした商店や露店の並ぶ通りで、通称“喜楽商店街”。三人の周囲を歩く観光客相手に、四方八方から景気の良い声がかけられている。
けばけばしい塗装が施された看板を掲げた店が並び、通りには多くの喧騒の他にも香ばしく焼かれた肉の匂いや甘い菓子の匂いが複雑に絡み合っている。ただ歩いているだけで浮足立ってくるような場所だ。
「クムもこういう場所で屋台を出していたのか?」
クガイが霊力を帯びた小石や木切れを使った観光客用の簡単なお守りを並べた露店や、クムが腰に差している棒や青味がかった刃の小刀といった護身用の武器を取り扱っている店を眺めながら、クムに尋ねた。
「いえ、私はこことは違う通りの方で商売をしています。こちらはどちらかというと持ち歩き出来る軽食や土産物のお店が多いですし、観光客向けの商店街です。母と一緒にやっていた屋台は地元の人向けでした」
「そうかい。ところでハクラはここに来てから三日だってな。それならどうして地元相手のクムの店を気に入ったんだ?」
「私の舌に合ったからだ」
「なるほど、分かりやすい。それで用心棒めいた真似をしているのは、クムに頼まれたからかい?」
「うむ。昨日、クムが分かりやすく気落ちしていたので、私が問い質したのだ。私も目的があってこの奇妙な都市を訪れたが、目の前の少女を放ってはおけなかったので、護衛を買って出た」
「お人好しだな、あんた」
「私も知り合ったばかりのハクラさんにそこまでしていただくわけには、と言ったのですけれど、ハクラさんがどうしてもって譲らなくって、結局お言葉に甘えたんです」
「だが、結果はあのざまだ。私が他の連中に手間取っている間に、三人の悪漢共にクムが追われる羽目に陥ってしまった。私に代わりクムを守ってくれた事については、心から感謝する、クガイ」
歩きながらでなかったら、ハクラは深々と頭を下げていただろう。それが分かるから、クガイもくすぐったそうに左頬を掻き、笑い返す。
「なあに、俺はたまたまたあの場に居合わせただけの話だ。俺にもちょいと下心はあるし、あんまり、俺に夢を見ないでくれよ。おっとここだな」
そういってクガイは露店と露店の間にある小さな路地に入り、右に左と曲がってゆく。先程までクムが走っていた裏路地とは異なり、観光客相手の治安のよい地区であるから、細い路地にも怪しい風体の者や怪しげな気配もない。
クガイが足を止めたのは大きな紫色の天幕の前であった。天幕の入り口には“占い師タランダ”と書かれた木製の看板が掲げられている。
「占い師さんですか」
いろいろと予想していたが、これは予想外だったとクムは天幕をしげしげと眺める。ハクラもそれに倣っていたが、こてんと首を傾げてからクガイに尋ねた。
「星を見て占うのか? それとも夢か?」
「お前さんの故郷ではそうやって占うのか。タランダは人を見て占う。本人曰く人を通じてその縁を辿るんだと。俺も門外漢だから詳しい事は分からんが、今回は占いが目的じゃないからな」
クガイは慣れた様子で入口に足を踏み入れて、どんどんと進んでゆく。それに続き、ハクラがクムの前に立って天幕へと入る。
中は内幕で仕切られていて、なにかの香が焚かれているようで、柑橘類を思わせる爽やかな香りが空気に籠っている。
香のお陰か、クムは頭の中がすっきりとした気分になる。
天幕の中はそう広くない筈なのだが、不思議なほど天幕の中は暗闇に満ちていて、どこまでも進んでゆけそうな錯覚に陥る。ともすればそのまま暗闇に飲み込まれて帰ってこられないような気がして、クムは思わずハクラのマントを握っていた。
「ん?」
「あ、ごめんなさい」
「いや、それなら手を握っていよう」
足を止めたハクラが表情はそのままに少し柔らかな声と共に左手を差し出して、マントを握ったクムの右手をそっと握る。固い感触がクムの手に伝わってきた。
クム自身、物心ついた時から料理の修練に没頭してきたから手はかなり固いが、ハクラはそれ以上だ。いったいどういう暮らしをしてきたら、こうも固く小さな傷に覆われた手になるのか。けれど、けれど。
「ハクラさんの手はとっても温かいですね」
母を亡くしてから、誰かにこうして手を握られたことはなかった。導くように、守るように、包み込むように。それがくすぐったくって、嬉しくって、クムははにかみながら笑う。
「そうか。クムが言うのなら、そうなのだろう」
二人が落ち着くのを待ってから、クガイは天幕の中を進みだす。ほんの少し進めばタランダという占い師の入る部屋に辿り着けるはずなのだが、奇妙なことに三人は天幕の向こう側に出るくらい歩いても、目的の場所に辿り着けなかった。
「妙に長い。妖術の類で距離を伸ばしているのか?」
そっと柄に手を伸ばしているハクラに、数歩先を行くクガイが答えようと足を止める。
「物騒な侵入者対策だそうだ。占い師が妖術や魔術の類を嗜んでいるのは、珍しい話じゃないさ。それに演出も兼ねているんだろう。それっぽい方が占いも本物っぽく思えるからな。そうだろう、アカシャ」
「ふふ、クガイ様、タランダの前では決して口になされませぬよう。へそを曲げてしまいます」
足を止めたクガイが視線を向けた暗闇から、たおやかな女性が姿を見せた。クムには暗闇が女になったとしか見えない出現であった。クムの手を握るハクラに緊張した様子はないが、直前まで気配を感じられなかった事実に、ほほう、と感心している。
金糸の細やかな刺繍で縁取りした紫色の一枚布をゆったりと体に巻き付け、頭から同じ色の布を被っていて、顔も鼻筋の半ばから下を隠す布をつけている。
頭の布の左右からは捻じれた角が伸びていた。
大浸食でこちら側に残った魔族かそれとも妖怪の血を引いているのか、単に楽都の瘴気に当てられて肉体が変容した可能性もある。
緩やかに波打つ黒髪が数多の布から零れ、黄金の満月を思わせる瞳には友愛の光が宿っている。危険地帯の亀裂の縁に倒れていたクガイを見つけ、彼へ歓迎の言葉を口にしたアカシャであった。
「はじめまして、お客様。わたくしはアカシャ。占い師タランダの助手兼弟子を務めております。本日はようこそお越しくださいました。タランダ共々歓迎いたします。どうぞそのままお進みください。既にタランダは十分に皆様を拝見いたしました」
スカートの裾を摘み、膝を曲げて礼をするアカシャの仕草の優雅さに、束の間、クムは見惚れていた。
「ほら、アカシャのお許しが下りたんだ、いくぞ。タランダもさっさと来いってよ」
クガイの声にはっと振り返ったクムの視界に、つい先程まで存在しなかったはずの一筋の光を見た。よく見ればそれは、天上から垂れ下がった扉代わりの布から零れる明かりに違いなかった。
「なんだか、幻でも見せられているみたい」
思わず零れたクムの素直な感想に、ハクラがうむ、と頷いて同意を示す。
「我らに害意がないのは確かだ。そう思えばなかなか面白い体験だと思うぞ」
「ふふ、ハクラさんみたいに考えられるように頑張ってみます」
「うむ」
微笑ましい二人のやり取りを背に、クガイは扉代わりの布をめくって中に入る。
「邪魔するぜ、タランダ」
クガイにはもう慣れた場所のようで、布の向こうへ進むその姿に戸惑いや不安の色はない。クガイとの付き合いはまだ短いがわざわざ罠に嵌めるような男ではないと、クムもハクラも確信していた。