エピローグ
息を弾ませながら、ぼくと波多津薫は緩やかな坂道を登る。
コンクリートで舗装された、狭い道。
道沿いに生い茂る木々の向こう側から、保育園のお遊戯練習の声が洩れ聞こえる。優しいオルガンの伴奏と元気の良いこどもたちの声が、ぼくらの耳に心地よく響いた。
「着いたー!」
少し前を歩いていた波多津薫が、大きな声をあげた。
遅れて、ぼくもその横に立つ。
いきなり、眼前が開けた。
足元には伊万里川が横たわり、その先に、伊万里の街並みが遠くまで広がっていた。遥か彼方に、腰岳がそびえていた。
「はじめて来た」
ぼくがそう言うと、隣の波多津薫がにこりと笑った。
「それ、伊万里市民失格モノの発言ですなぁ」
彼女の言葉に、ぼくは、思わず苦笑いする。
伊万里の市街地から少し外れた小山の上にある、小さな公園。
昨日、ぼくと波多津薫、古賀と二里、木須裕子……まぁ、いつもの軽音部の面子での雑談の際に話題に上ったのが、この「城山公園」だった。
実業の近くのたこ焼き屋「八ちゃん堂」で買った、ふたパックの「揚げたこ焼き」をみんなでパクつきながら、
「昔は小型動物園があった」だとか、
「子供の頃に遠足で登った」だとか。
皆が好き勝手に思い出を話す中、ぼくがボソリと発した「行ったことないなぁ」という言葉に、ほかのみんなは、声を揃えて「えぇぇぇ!?」と、叫んだ。
それで、次の日に、早くも連れて来られたのだ。
「見てて」
波多津薫は、そう言うやいなや、口元に両掌を添えて、街並みに向かって大きな声で
「わっっ!」と叫んだ。
すると、その声がこだまになって、乱立する建物のあちこちで反響して、そして消えた。
「すごい。やまびこだ」
ぼくが言うと、
「やってみて、隆くんも」
と、波多津薫が笑った。
ぼくも、両掌を口元に添えて「わっっ!」っと、叫んだ。
さっきと同じように、その声は何度か街中で反響して、そして、消えた。
ぼくは、波多津薫の顔を見た。波多津薫は、不満そうにほっぺたを膨らませた。
「ど……どうしたの」
ぼくは、彼女が怒る理由がわからずに、オロオロした。
「そこはさ、"好きだーっ!"とか、言うべきじゃん?」
波多津薫は、そう言ってニヤリと笑った。ぼくも、つられて笑った。
ふたりで、すみっこのベンチに腰掛けた。
鳥の声。
行き交う車のエンジン音。
近くの学校の部活動の声。
いろんな音が柔らかく溶け合って、ぼくの耳に伝わる。
心地よい、穏やかな時間だった。
ぼくは、隣の波多津薫の顔をそっと盗み見た。
だいぶん伸びた、艶のある黒髪。
シャム猫みたいな大きな瞳。
真っ直ぐに通った鼻筋に、柔らかく膨らんだピンク色の唇。
とてもとても、綺麗だった。
ぼくはふと、ずっと気になっていた事を訊いてみたくなった。
「あのさ、前から気になってんだけど」
ぼくが言うと、波多津薫は首を傾げた。
「……退院してきて最初に演奏した時。どうして、"赤い玉の伝説"を弾いたの?」
その質問を聞いた彼女は、無言でまた、視線を伊万里の市街地に戻した。
何も言わずに、しばらく、そこを眺めた。
それから、ちいさく口を開きかけて、それから、閉じた。
「……ないしょ」
「え?」
ぼくが聞き返すと、波多津薫は立ち上がり、さっきの場所に立った。それから、口元に両掌を添えて、
「ぜーーーったい、ないしょーーー!」
と、絶叫した。
その声は、何度も何度も、こだまになって伊万里の街並みに響き渡った。
(完)




