第二部 第十七楽章 失楽園への旅。
鶴さんが呟いた「木須さん」という名前を聞いて、ぼくは、この女のひとが前に夢竜で聞いた「木須裕子の母親」なのだと察した。
「何年ぶりかしら」
「十……五、六年くらいですかね」
木須裕子の母親の問いに、鶴さんが答える。悪戯っぽい笑い方が、なんだかそっくりな母娘だ。
「鶴飼君、ちっとも変わってないね」
「木須さんだって、たいして変わってないですよ」
「あら、お世辞でも嬉しいね」
「いや、そんなんじゃ」
なんだろう。木須裕子の母親はニコニコしているが、鶴さんは、なんだかソワソワしているように見える。
「今日は、どうして?」
鶴さんが訊ねると、木須裕子の母親は首から下げたバックステージパスを細い指で摘み上げて、
「娘の応援。……ナッシュに来たのも、本当にアレ以来」
と、笑った。そして、なにやら遠い目をししてみせた。
「黒川さんがいなくなって、すっかりご無沙汰しちゃって」
鶴さんが頭を掻くと、
「ううん。こっちこそ、育児と仕事で手一杯で、お礼にも行けなかった」
木須裕子の母親は、僅かに微笑んだ。
「お礼?」
「そう、お礼」
木須裕子の母親が、何かを思い出すかの様に、視線を宙に向ける。
「あの人がヨーロッパに出掛けちゃったあの晩。わたしが朝までクダ巻いてたのを、鶴飼君は、最後まで慰めてくれた」
「……」
と、話しているところに「お母さん!」と、横から声が掛けられた。木須裕子だ。
「ちゃんと観てた?」
木須裕子が、母親の腕を引っ張りながら訊く。いつもと違って、年相応の幼さを感じさせる。
「観てた。凄かったよ」
母親がそう言って、木須裕子の頭を撫でた。
話し終えた木須裕子が、手を振って離れていく。
その様子をを見送りながら、
「よく似てると思わない?」
と、木須裕子の母親は、鶴さんに訊ねた。
「……えぇ。ギター持ってステージに上がってる時も、まるで黒川さんみたいだなって思って見てました」
鶴さんがそう答えると、
「アハハ。違うわよ、鶴飼君」
と、木須裕子の母親は笑った。
「……違う?」
鶴さんが、訝しげに訊く。
木須裕子の母親は、一歩、鶴さんに近づいた。そして、少し抑えた声で、
「キミに似てるって、思わない?」
と、囁いた。
鶴さんの顔がすっと青ざめたのが、薄暗い舞台袖でもぼくにはとてもよく見えた。




