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第二部 第三楽章 釣ったのか、釣られたのか……。

  それから一時間後。


 音楽理論の座学を終えると、波多津薫は畳の上で猫のように長々と伸びをした。


「“まともな道に”……って言われてもなぁ」


 横になったまま、ぼそりと、さっきの話の続きをつぶやく。


「女の子を好きになるってのが、ちょっとわからないしなぁ」


 なるほど。

 見た目と同じく、心も女の子なのか。余分な物があるだけで。


「ねぇ、隆くん」


 波多津薫は、畳に寝そべったまま、ぼくの顔を見つめてきた。


「な……なに?」


「どうする? もしわたしが、裕子と付き合うとか言い出したら」


 波多津薫が、ニヤリとしながら訊く。


「うーん……。ちょっと、どうすればいいのか」


 ぼくが思わずそうぼやくと、


「“絶対に渡さない”とか言いなさいよ」


 と、波多津薫はふくれっ面になった。


「でも、相手は女の子だしね……」


 ぼくは、ため息をつく。


 そうだ。


 単に性別で判断するなら、ぼくよりも木須裕子と付き合う方が、波多津薫には自然な事なんだ。


 だけど、波多津薫の「心」は完璧に女性だ。


 だから、彼女からすれば「女同士なのに好きっていわれても」という話なのだろう。


 ……ちょっと待て。

 木須裕子は、どうなんだ?


「男性」として、波多津薫が好きなのか? それとも「女性」として好きなのか。


 ぼくは当然「女性」として波多津薫が好きで、一緒にいる。だけど、あの子はどうなんだ?


 考えれば考えるほどわからない事が増えていきそうで、なんだか、頭の内側がむず痒くなって来る気がする。


「なんか最近、隆くん冷たい」


 ぼそりと、波多津薫がつぶやく。


「そ、そんなことないけど」


 ぼくが焦ると、彼女は畳に寝そべったまま、


「君はアレか。釣った魚にエサをあげないタイプの男子か」


 と、言った。


 魚と思って釣ったら、とんだ人食いザメだった……と、言おうかと一瞬おもったけど、ケンカになるだけなので、やめた。


 波多津薫の手が伸びて来て、いきなり、ぼくの右手首を優しく握った。

 暖かい手のひらの感触に、ぼくは、思わずどきりとした。


「エサがほしいなー。おなかすいたなー」


 波多津薫が、上目遣いにぼくを見ながら言った。


 ぼくは、どくどくと波打つ心臓の鼓動を感じながら、寝そべったままの波多津薫に近づいた。


 波多津薫のさかさまの顔の瞳が、そっと閉じられた。

 艶めかしさすら感じるピンク色の唇が、薄く開かれていた。


 ぼくは、ゴクリと生唾を飲む。


 そっと、波多津薫の顔に覆い被さり、少しづつ、その唇との距離を詰めていく。


 その刹那。


「薫先輩はああだけど、男同士なんですよ!」


 脳裏に、昼間の木須裕子の声が響いた。

 ぼくは、思わずたじろいだ。


「はい、そこまで!」


 波多津薫が、いきなり目を開く。


「え?」


 思わずぼくが言うと、ぴょこりと身体を起こして、彼女は、悪戯っぽい笑顔を見せた。


「いいエサでしたよ。隆君」

「うっ……」


 ぼくが思わずうめき声を漏らすと、波多津薫は、ぼくの右隣にすっと寄り添って来た。ふわりと、甘酸っぱいシャンプーの香りがした。


「どうせ、直前で鶴さんがフスマを開けるパターンだからね」


 彼女はそう言うと、ぼくのほっぺたに、一瞬だけ唇を押し当てた。


 ぼくは、なにが起こったのかわからずに、思わず全身を固まらせた。


「さて。おなかも空いたし、下の様子でも見てこようかな」


 そう言い残して、波多津薫は、部屋を出て階段を降りていった。


 ぼくは、自分のほっぺたに残るさっきの柔らかな唇の感触を、ゆっくりと脳内で反芻した。

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