第六十六楽章 TEENAGE DREAM
眼下の道路を、いろんな車がひっきりなしに走っている。それをぼんやり眺めながら、ぼくはさっき下の自販機で買った紅茶を、またひとくちを口に含んだ。もうだいぶ、ぬるくなっている。
幹線道路を挟んで建っている、ふたつの伊万里駅舎。それらを繋ぐ「歩道橋兼展望台」にあるベンチに、ぼくと波多津薫は腰掛けている。
波多津薫もぼくと同じく、ぼんやりと、行きかう車のヘッドライトを眺めている。
彼女のシャム猫を思わせる大きな瞳に、伊万里の街の灯りの数々が、キラキラと映り出されている。
*****
打ち上げが終わり、皆が「Zトレイン」を出て、ぼくたちは、ふたりで駅まで歩いてきた。
いつものように、駅前の広場で解散しようとしたら、
「あそこ、登ってみたい!」
と、突然彼女が言い出した。
指した先には、この展望橋があった。それから、ぼくたちふたりはゆっくりと階段を登り、やがて、ここにたどり着いた。
*****
「具合はどうなの?」
設られたベンチにふたりで腰掛け、ぼくは訊いた。
「ぜんぜん平気だよ。っていうか、もともと、自覚症状はほとんど無しだったからね」
波多津薫は、ぼくの問いになんだか澄ました顔で答えた。
「いつ、退院してたの?」
「おととい」
波多津薫は、悪戯っぽく微笑む。
「……わたしがね、みんなに頼んだんだ。高田君には内緒にしといてって」
「ほんとに、びっくりした」
ぼくがそう言って笑うと、
「ごめんね」
と、波多津薫はちいさく舌を出してみせた。
「いいよ」
ぼくがそう答えると、ふたりはまた無言になって、それからまた、眼下を行き交う車を眺めた。
時折り、繁華街から出てきた人たちの笑い合う声や、車のクラクションが響く。
波多津薫の横顔を、ぼくはそっと盗み見る。
久しぶりに見る彼女は、なんだか、入院前よりずっとずっと綺麗に見えた。
「……秋祭り。凄かったよ」
波多津薫は、遠くを見つめたまま、つぶやくように言った。
「テレビの前でいっぱい泣いたよ。……すごい練習したのが、よくわかった」
「ううん」
ぼくは、首を横に振った。
波多津薫が、顔を上げてぼくの方を見た。
「鶴さんと部長と、狹決亜Ⅱのみんなと。……あと、君のおかげだよ」
波多津薫が、ただでさえ大きな瞳を、さらに大きく見開いた。
「わたし?」
そう言った。
ぼくは、緊張で震える手でペットボトルを握りしめ、やたらと渇く喉に、もう一度紅茶を流し込んだ。
「波多津さんに聴かせたかったから、ぼ、ぼくは頑張れたんだ」
波多津薫が、なんだか戸惑ったような表情で、ぼくを見ていた。
ぼくは、まともに波多津薫の顔を見る事が出来なくて、ずっと、下の車道を向いてしゃべった。
もうひとくち、紅茶を飲んだ。
今しかない。
あの時のステージに比べれば、今日の方が怖くない。なぜなら、聞かせるのは、波多津薫ひとりでいいんだ。
言うなら、今しかない。
「ぼくは、波多津さんが好きだ」
少し震える声で、ぼくは、波多津薫にそう言った。
彼女がおおきく息を飲む音が聞こえた。
それから、波多津薫はゆっくりとうつむいた。
彼女は、そのまま黙り込んだ。
そのまま、三分ちかくが経った。
耐えがたい、長い沈黙の時間だった。
ぼくは喉の渇きに耐えられず、震える手で紅茶をさらにふたくち飲んだ。
「……だめだよ」
やっと聞き取れるくらいの小さな声で、波多津薫が、そうつぶやいた。
「わたしが、普通じゃないの知ってるでしょ。……今はよくても、いつか、普通の身体の女の子がよくなる時が来るよ」
波多津薫は、うつむいたまま、ちいさくそう言った。
その肩が、少し震えていた。
ぼくは、なんだか急に腹が立った。
「……いつもいつも、勝手に決めないでよ」
波多津薫が、顔を上げた。
瞳に、涙が溢れていた。
「普通ってなんだよ。ぼくは、そのへんの普通の女の子なんかより、波多津さんの事が、ずっと好きなんだ。ぼくが君を好きな気持ちを、勝手に決めつけるなよ」
そう言いながら、ぼくの目にも、涙が溢れていた。
彼女は、不安なんだ。
明るく振舞っているけど、いつ再発するかもしれない病気の影に、本当は、怯えてるんだ。
「ぼくは……他のやつと違ってても、君の事が好きなんだ!」
まっすぐに波多津薫の目を見て、ぼくは言った。
「……本当に、わたしでいいの?」
涙を流しながら、波多津薫が言う。
ぼくは、黙ってうなずく。
「わたしだって、高田君の事、好きだよ」
「え?」
「好きだよ、わたしだって。……でも、わたしこんなだから。だから“友達でいなきゃ”って」
予想もしていなかった言葉に、ぼくは動揺した。
「もう、我慢しなくていい? わたしも、高田君の事を好きになってもいい?」
ぼくは黙って、うなずいた。
彼女は「ありがとう……」とつぶやくと、また、下を向いて肩を震わせた。
柔らかな夜風が、波多津薫の長い艶のある黒髪を優しくなびかせた。
「あの……じゃあ、ずっとしたかったんだけど、我慢してて……その」
「なに?」
ぼくが訊くと、彼女はうつむいて、
「手を……繋いでほしい」
と、言った。
その言葉を聞いて、ぼくは、自分の心臓が激しく収縮しているのを感じた。
なんなんだよ。さんざんモテてきたはずなのに、なんでこんな可愛いお願いしてくるんだ。
ぼくは、座ったまま、上半身を捻るようにして、波多津薫の方を向いた。
彼女も、同じように身体を捻らせて、こちらを向いた。
しばらく、互いに見つめ合った。
波多津薫の瞳の涙は、もう、乾き始めていた。
ぼくらはなんだか急に照れ臭くなって、思わず、小さく笑いあった。
それからぼくは、おそるおそる彼女の手に自分の手を重ねて、ギュッと、その細い指を握りしめた。
波多津薫も、下からぼくの手をギュッと握り返してきた。
それからふたりは、なにも言わずに、ただ、初めて触れ合うお互いの手の感触を、まるで全身の神経をそこに集めるようにして、確かめ合った。
手を握ったまま、ぼくたちふたりは、どちらからともなく立ち上がった。
波多津薫の顔を見つめる。
波多津薫も、ぼくの顔を見つめている。
綺麗だ。
……この子は、ほんとうに綺麗だ。
ぼくがあまりに見つめすぎたのか、波多津薫は、すっと、恥ずかしそうに顔を背けた。
涼やかなシャンプーの香が、ふっと漂った。
ぼくは、うつむいた波多津薫の肩を、静かに抱きしめた。
自分でも驚くくらい、自然に、引き付けられるようにそうしていた。
波多津薫は、一瞬ビクっとちいさく身体を震わせ、そして、おそるおそるといった様子で、なんとも不慣れな手つきで、ぼくの身体に手を回してきた。
ぼくの身体が、ちいさく震えていた。
波多津薫の身体も、ちいさく震えていた。
ぼくたちは、ふたりともちいさく震えていた。
そのことにふたりが同時に気づき、ぼくらは、どちらからともなくクスクスと笑い出した。
そのちいさな笑いが、少しずつおおきくなって、やがてぼくらふたりは、手を繋いだまま笑いあった。
「……ごめんね」
波多津薫が、目尻に浮かんだちいさな涙の球を指で拭った。
ぼくは黙って首を横に振ると、それからもう一度、波多津薫を抱きしめた。
さっきより、ちょっと強く抱きしめた。
波多津薫の手が、もう一度、ぼくの背中に回された。
その時、ぼくの右ふとももに、違和感が生じた。
なにか、硬いものが触れた感触。
波多津薫が、急にぼくから離れた。
「ご、ごめん!」
波多津薫は、薄暗い中でもわかるくらいに、顔を真っ赤にして言った。
黒いスカートを履いた長い足を、なにやらもぞもぞと交差させた。
「やだ……。ほんとごめん……」
……え?
ぼくは、状況を理解できずに、呆けた顔で突っ立っていた。
遠くで、車のクラクションが鳴らされた。




