第六十一楽章 経験こそが、物を言う。
センターマイクの前に立ったぼくの目に飛び込んできたのは、今まで見た事もないような、大勢のひとたちががひしめき合っている様だった。
何人いるんだ?
百人?
……千人?
足の裏が、地面に着いている感触がない。ふわふわと、まるで雲の上にでも立っているような感触だ。
係の人に促され、ぼくは慌ててシールドをアンプに突っ込む。
「英語詞から、曲入り」
何度も確認、練習、復習をした事なのに、一体どのタイミングで入ればいいのか、なんだかさっぱりわからない。
……やばい。
ぼくがオタオタしているその時、いきなり、背後のドラムが8ビートのリズムを刻み始めた。続いて、そこにベースも絡み始める。
え、なに?
こんな事、練習していない。聞いてない。
動揺して振り返ると、部長がぼくの顔を見て「手を叩け!」と笑顔で叫んだ。
わけがわからないまま、ぼくはドラムに合わせて手拍子を始めた。
今度は横から、鶴さんが「隆! 跳べ!」と叫んだ。
リハーサルと全然ちがうオープニングで、ぼくは、もう何が何やらわからなくなった。ただただ、夢中で飛び跳ね、手を打った。
すると、静まり返っていたお客さん達の中から、少しずつ、手を叩く音が聞こえて来た。
ぼくの動きに合わせて、手拍子を打ってくれている……?
やがてその音は、波紋のように客席全体に広がっていった。そして、いつの間にか、会場全体が手拍子で包まれていた。
そうか。
部長と鶴さんは、これを狙ってたのか。
ぼくが手を打っていると、いきなり、ギターの音が響いた。
部長が、アドリブのソロを弾きはじめたのだ。
なにやらオシャレなフレーズをきっちり四小節弾いた後、続いて鶴さんがレスポールをギャンギャン鳴かせて、ブルースっぽいソロを奏で始める。
え、
まさか。
あたふたしていると、鶴さんもいきなり、ぼくにギターソロを“振って”来た。
「下だけ向いてガチャガチャ高速で弾いてるよりも、お客をちゃんと見て、一発チョーキング決めて、それから手でも振る方が、よっぽど盛り上がるんだよな」
狡決亜Ⅱのリーダーの言葉が、ぼくの頭の中に“ぽっ”と浮かんだ。
ぼくは、自分が弾けるメジャーコードを丁寧に積み重ねて四小節を弾き切り、最後をチョーキングで締めて、客席に向かって手を挙げた。
客席から、拍手と声援が巻き起こった。
これだ!
これが、リーダーの言ってた事なんだ。
客席から、古賀と二里、ふたりの声も聞こえた。
見ると、満面の笑みで、ふたりはウチワを振っていた。ぼくも、笑顔を返す。
あれだけ緊張していたのに、いつの間にか、ぼくは、このステージを楽しんでいた。抜けるような秋晴れの空が、どこまでもひろがっている。
目の前に、ケーブルテレビのカメラマンがいる。大きなカメラを担いで、ぼくらを撮っている。
波多津薫は、病院のテレビでこれを観ている。
よし。彼女に、届くように歌おう。
ぼくはピックを持った右手を掲げ、ドラムのリズムに合わせて「真昼の月」の最初の英語詩を、高々と歌い始めた。




