第三十二楽章 途方にくれる
陽の光がいよいよ届かなくなって、目の前の川面は、とうとうただの真っ暗な帯にしか見えなくなってしまった。
ぼくは国見台運動公園の側、小川の脇に設えられたベンチに腰掛けて、夕方から今の今まで、じっと、川面を見つめ、ギターをいじっていた。
ほかに周りにいる人と言えば、ジョギングやウォーキングに勤しむご老人やシーバスを狙って熱心に釣り糸を垂らし続けている、小学生の三人組くらいのものだった。
太陽が見えなくなり、人の往き来もほとんどなくなった。いつのまにか、釣りをしていた小学生たちも、いなくなっていた。
波多津薫に会って、謝るつもりだった。家に居てもどうにもならないと思って、何も考えずに、飛び出した。
飛び出して五秒もしないうちに、そういえば、彼女の家を知らない事に気付いた。
待ち合わせも解散も、いつも、伊万里駅の前の公園だった。おそらく、そのすぐ近くに住んでいるはずだった。
とにかく、駅前で待ってみた。
日曜の午後の伊万里駅は“閑散”の一言で、ギターケースを傍らにぽつんと座っているぼくの姿は悪目立ちそのものだった。チラチラと駅員から不審気な視線を受けているのに気付いて、いたたまれなくなって、そこを離れた。
それからなんとなく、たまにギターの練習に使っていたこの河原に来た。もう、三時間くらいは経つだろうか。
波多津薫から習ったコード進行を思い出しながら、ぽろぽろと、ギターを爪弾く。彼女の横顔を思い出して少しだけ涙ぐむ。手の甲でそれを拭う。
「よう」
突然、背後から声を掛けられた。
ぼくは、声の方を振り向く。
少し離れた街灯の下に、三人の人影が見えた。その中のひとりが、ゆっくりと近づいてくる。
同じクラスの、楠久だった。
「なにしてんだよ」
楠久は、口元に厭な笑みを浮かべながら訊いた。
「別に。ギターの練習だけど」
ぼくが答えると、
「……お前、波多津と本当にバンドやるのかよ」
楠久が、続けてぼくにそう訊いた。
……それは、今は、こっちが訊きたいくらいの話だ。
ぼくは、押し黙る。
それが楠久の目には“反抗的”な態度に映ったらしく、彼は、憎々しげな目付きでぼくを睨み、地面に唾を吐いた。
「お前、まさか、波多津に惚れてるのか?」
楠久が、ニヤニヤしながら訊く。
ぼくは、その質問にはっとなった。
そうだ。
多分、ぼくは、彼女が好きになったんだ。
ぼくは、黙って楠久を睨みつけた。楠久は「マジかお前……」と、厭な笑みを浮かべたまま、小さく呟いた。
「お前、頭おかしいんじゃねぇか?」
楠久が、ぼくに二歩近づいた。
クラスでもまともな友達もいなくて目立たないぼくが、波多津薫のようなキラキラした存在を好きになる。……確かに馬鹿げているし、おかしいかもしれない。
それでもぼくは、やっぱり、彼女が好きなんだ。もう一度、一緒に過ごしたいんだ。
「……お前には関係ないだろ」
自分でもびっくりするぐらい攻撃的な口調で、ぼくは、楠久にそう言った。
次の瞬間、いきなり、左頰に衝撃が走った。頭の中で「キーン」と耳鳴りがし、一拍おいて、口中に鉄の味が広がった。
楠久に、殴られたのだ。
「ナメた口ききやがって……」
楠久はさらに一歩を近付くと、真正面から、ぼくの腹を蹴って来た。
ギターを守ろうと、ぼくは身体を反転させた。背中に楠久の足の裏が当たり、ぼくはよろめいた。
楠久が、ぼくの胸ぐらを掴んだ。その目は、怒りに歪んでいた。
「なにやってんだ」
その時、不意に横からぼくらに声が掛けられた。
さっき楠久が立っていたあたりに、長身の男の影があった。
「お前ら実業生だろ。なにしてる」
男が、一歩前に出る。ぼんやりとした街灯に、耳のピアスが煌めく。
「別に……。ただのケンカっすよ」
楠久はそう言うと、ぼくの胸ぐらを掴んでいた手を離した。離れたところから見ていた連れのふたりに「行こうぜ」と声を掛け、僕と長身の男を置いて、立ち去った。
「大丈夫か」
長身のピアス男が、ぼくに近づいてくる。
懐からハンカチのようなものを出して、渡してくれた。
顔が見える位置まで近づき、お互いが「あ」と言い合った。
その、長身のピアス男は、軽音部の部長だった。




