第二十四楽章 波多津薫の、鉄人への道。
なるほど、軽音部のふたりが言っていた「波多津薫のマジ」は、こういう事だったのか。
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夢竜での波多津薫とのギター練習は「基礎座学」から始まった。
驚いたことに、彼女はその速弾き主体のプレイスタイルからは想像がつかない程の「理論派」ギタリストだった。
まずはギターを持って向かい合い、指定された箇所を押さえて(例えば、5弦の開放と4弦の7フレット)ストロークする。
ポロポロと、室内に和音が響く。
次に、別の指定箇所(例えば、5弦の開放と4弦の1フレット)をストロークする。
ポロポロと、さっきとは違った調子の和音が、室内に響く。
「ね? 似たような押さえ方でも、音の響き方が全然ちがうでしょ。これが“倍音系列”ね。……例えば、ギターにしろピアノにしろ、1オクターブは12等分されてるのね。これはどういう事かと言うと……」
と、まぁ、こんな調子で講義が続くのだ。
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ぼくは、講義の合間に思わず大きめのため息をついた。
波多津薫はそれを聞き逃さず、
「ちゃんと聞いてる? 高田君」
と、厳しくビシっとつっこんで来た。
ぼくが「ご、ごめん」と謝ると、
「面倒だしつまんないかもしれないけど、これは、後から絶対に役に立つから」
彼女は、なんだか「やり手予備校講師」のような口調でそう言った。
……音楽に詳しい人なら最初から理解が出来るのかもしれないけど、ぼくには、彼女の講義はどうにもちんぷんかんぷんだ。
かと言って、退屈そうな素振りを少しでも見せようものなら「ちゃんと聞いてる?」と、厳しく叱責が飛んでくる。
これは、かなり辛い時間だった。
一時間ほど講義が続いたところで、
「やってるか〜」
なんて呑気な事を言いながら、鶴さんが部屋に入って来た。
手には、ふたつのトレイを持っている。蓋を被せた丼と、味噌汁と漬物が乗っている。
「待ってましたー!」
それを見て、波多津薫が歓声をあげた。
「ほい、まかない飯。ぼちぼちお客も引くし、そしたら三人で練習しよう」
持ってきたトレイをぼくらの前に置いて、鶴さんはまた、一階に降りて行く。
丼の蓋を開けると、それはほかほかのカツ丼だった。美味しそうな甘い出汁の香りが、湯気と共に拡がった。
「鶴さんのカツ丼、マジで最高なんだよ。この、カツを斜めに切るのがコツなんだって」
そう言いながら、波多津薫は目を輝かせた。
「いただきます」の合掌をして、箸と丼を手に取った。波多津薫の言う通り、ものすごく美味しいカツ丼だった。カツの肉汁と半熟の卵が、ご飯によくあっている。
お腹を空かせていたぼくたちふたりは、あっという間に全部を平らげてしまい、それから、顔を見合わせて笑いあった。
「あー、おいしかった。やばいなコレ、ほんとにおいしい。さすが、王者の飯だ」
波多津薫は、ペットボトルのお茶をひとくち飲んで、お腹をさすりながら満足そうに言った。
「……いつも、鶴さんのところで働いてるの?」
ぼくが訊くと、
「週末と、長期の休みの時はね。佐知子さんがお店に出られるのが、だいたい八時過ぎくらいからだから、開店からそれまでくらい手伝って、ギター弾いて帰る感じ」
と、またお茶をひとくち飲んで、波多津薫が答えた。
「“佐知子さん”……って、さっきの」
「あぁ。鶴さんのお嫁さん。鶴飼佐知子さん」
予想外だった。鶴さん、既婚者だったのか。
ぼくが思わず驚いた表情をしたのを、波多津薫は見逃さなかった。
「なに? 高田君は、佐知子さんみたいな女の人が好みなの?」
「い、いや。ただ、意外だったから」
ぼくが口ごもると「ふぅん」と、波多津薫は小さく呟いた。
「ぼくは、波多津さんのほうが綺麗だと思う」
……そう言ってみようかと一瞬だけ思ったが、そんな大胆な事をできるはずもなく、ぼくは、黙ってお茶をもうひとくち飲んだ。




