第十三楽章 部室へのご招待。
「どうぞ」
波多津薫に促されるまま、ぼくは入り口をくぐった。
昼休み、軽音部の部室だ。
人が無理なくすれ違える程度の横幅に、どこから調達したのか「森永ホモ牛乳」ロゴ入りの三〜四人がけベンチと、数個の小さなアンプ。弦が切れたままのアコースティックギターが置いてある。
正確には「機材置き場」で、普段の練習は音楽室でやってるらしい。
「ホモ牛乳」ってなんだよ……と一瞬戸惑い、それが「セクシャル」ではなく「サピエンス」の意味だと理解して、ぼくはひとりで勝手に納得して、その横に立った。
「今日は、わたしひとりでさ」
波多津薫はそう言いながら、ハードタイプのギターケースから、ギターを取り出した。
Killer、ファシスト。
聖飢魔Ⅱのギタリスト、ルーク篁の使用モデルだ。
「ふたりして……あ、わたしがいつも一緒にいるあの二人ね。原付免許の試験に行っちゃってさ」
波多津薫は、弦を上から順に爪引きながら、ペグを締めたり緩めたりしていた。そして「あ、これ学校には内緒にしててね」と、ちいさく舌を出した。
「そ、そうだね。校則的にはマズいもんね」
と、ぼくは言った。
女の子と直に……ましてや美人と話すことなどほとんどないぼくは、まだ、波多津薫と会話する際に、ところどころで“どもって”しまう。
「まぁ、いつもだって私がギター弾いてる横で遊んでるだけなんだけど。……って。……これ、昨日のLINEで言ったまんまだな」
波多津薫は、屈託なく笑った。
彼女は、笑うといつもの大人びた感じが消えて、まるで、ガキ大将のような表情を見せる。そのギャップも、ぼくをどぎまぎさせる。
「ってか、座りなよ高田君」
入り口付近で直立不動のぼくに向かって、波多津薫は「森永ホモ牛乳」ベンチの、自分の隣のスペースをペシペシと叩いた。
「お、おじゃまします」
ぼくは、膝を閉じ、拳を固く握って、波多津薫の横に座った。ギターを載せるために組まれた脚、真っ白な膝小僧とふとももが、まともに視界に入る。
“ずっと見つめていたい”という衝動に対して、ぼくは、必死で抵抗した。
「高田君?」
仏陀の如くに薄眼を開け、煩悩と戦っているぼくに、いきなり、波多津薫が声を掛けた。
「どうしたの? あ。昨日、遅くまでLINEしちゃったから、眠い?」
そうなのだ。
昨日(日付はとっくに今日だったが)、ぼくは、生まれて初めて、女の子と夜中まで「LINE」をしたのだ。
しかも、聖飢魔IIの話題で、だ。
周りの誰からも理解を得られず、まるで「隠れキリシタン」の様に悪魔教徒として活動してから早一年。ついに、そして唐突にぼくの孤独な戦いは終わった。
しかも、相手は“あの”波多津薫だ。
まじめに信仰すれば、こんなご利益もあるのだ。まったく、ダミアン浜田陛下様様だ。ぼくは、心の中で大魔王陛下に対して二回ほど柏手を打った。
「ぼーっとしてるよ? 大丈夫?」
波多津薫が、ぼくの顔を覗き込む。例の“甘酸っぱい香り”が鼻の中いっぱいに広がって、ぼくの頭はさらに混乱した。
「さて、今日の日課をこなすから、ちょっと聴いててね」
波多津薫はそう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出し、何やら操作をし始めた。
突然、鋭く小刻みな音が、一定のリズムで鳴り出した。
僕のキョトンとした顔を見て「あ。これ、メトロノーム」と、波多津薫は教えてくれた。彼女が示した画面には「160BPM」と表記がある。
「これを、必ず一日一回は弾く事にしてるんだ」
ギターとアンプを接続すると、波多津薫は、次々とスイッチを入れ、ツマミを捻ってなにやらの調整をした。ぼくは、その様子を固唾を飲んで見つめていた。
「よし。……じゃ、弾きます」
全てのセッティングを終えると、波多津薫はギターをしっかりと構え直した。そして口の中で小さく「ワンツースリーフォー」とカウントを開始した。
いきなり、演奏が始まった。
シンプルで、力強い前奏だった。
いつも部室から洩れ聴こえていた、あの曲だ。
わりかしゆったりとしたテンポで演奏されていたその曲が、間奏に入ってガラリと表情を変えた。
目まぐるしくフレットを行き来し、弦をストロークする波多津薫の細い指が、力強くて、スリリングで、そしてどこか物哀し気なメロディーを、実に見事に弾きあげた。
「……すごい……」
ぼくは、思わず呟いた。
演奏が終わった。
ぼくは、我ながら呆けた顔で拍手をした。
「……まぁ、80点くらいかな」
波多津薫はそう言うと、また、小さく舌を見せた。
「いまので、80点?」
ぼくが訊くと、
「うん。まだまだ、参謀の域には届かないね」
と、波多津薫が笑う。
ん?
「今の曲って、ルーク参謀の曲なの?」
「そうだよ」
波多津薫が笑った。
「“篁”っていう、最初のソロアルバムの曲。聴いた事ない?」
……そうか。
だから、どこかで聴いた事があるような気がしてたのか。確かに、いかにも“ルーク篁”って感じの曲だもんな。
ぼくは、ここ数ヶ月の胸のつかえがスッと取れたような気分になった。
「ま、まだソロ曲までは追えてなくて」
ぼくが頭をかくと、
「そっか。じゃあ、今度もってきてあげるよ」
と、波多津薫は笑った。
「CDも、DVDも。バンドスコアもツアーパンフも、頑張っていろいろ集めたからね」
波多津薫は、指を折って宙を見ながら言った。
「……そうだ。高田君、軽音部に入りなよ」
いきなり、波多津薫が突拍子もなくそう言った。
「いやいやいや、そんなの無理だよ」
ぼくは手と首を横に振って答えた。
「が、楽器もできないし、歌も歌えないし」
ぼくがそう言うと、
「大丈夫だよ。わたしが責任持って教えるから」
波多津薫は、瞳をキラキラと輝かせてそう答えた。
「ちょっと、試しに持ってみなよ」
そう言いながら、ぼくにぐいぐいとファシストを押し付けてきた。
冗談じゃない。こんな高級品、とてもじゃないけど「ちょっと試しに」触れない。
「いや、ちょっと待って!」
もがくぼくに、波多津薫がなんとかギターを持たせようとする。
その時。
勢いよく、部室のドアが開けられた。
その音に「ビクッ」として、ぼくと波多津薫は、入り口の方に目を向けた。
「……なんだよ。今日は、お前ひとりだって聞いたのに」
そこに立っていた長身の男は、薄茶色の髪の頭をボリボリと掻いた。
左耳のピアスが、陽光を受けて煌めいた。
「……なんですか、昼休みに部室に来るなんて珍しい」
波多津薫が、皮肉っぽく笑って言った。
そこに立っていたのは、去年の実業祭のステージで見た、軽音部の部長だった。