その耳に付けられたピアスの意味は
何か大きな物音がしてカノンは目を開けた。
どうやらいつの間にか寝ていたらしい。窓から見える空は薄暗い。
隣を見るとレッドの姿は既に無い……と思いきや真横に立っていた。
彼は鋭くドアを睨んでいた。歯を食いしばり、僅かに犬歯が見えている。
「あ、レッド……」
「静かに。
バケモノどもが外にいる」
カノンの背中にぞくりと悪寒が走った。あの化け物が。
その時ドアに何かが叩きつけられるような音がした。
化け物がこの建物に入ろうとしているのだ。
「アイツらの数が増えてる……。嫌な感じだ」
「わ、わたし、どうしたら」
「ジッとしてろ。動かないで、布団被ってな。
絶対に声を出すなよ。アイツらは声に反応して襲い掛かってくる」
「わか、た」
「大丈夫だ。本隊じゃないから弱い。
ただ数が多いから手間取りそうだ」
レッドはカノンの肩を叩いてから布団を上からかけた。
カノンは動く方の手でそれをしっかりと握り締める。
暫くすると何かが潰れる嫌な音や、暴れる音、化け物の悲鳴が聞こえてきた。
確かに数が多いらしい。化け物の唸り声がそこかしこに聞こえてくる。
カノンはそっと布団の隙間から外を伺った。
だが不思議なことに周りが見えない。真っ暗だ。
どういうことだ、と布団を剥ごうとした時、目の前のものが揺れた。
カノンの目と鼻の先に化け物がいるのだ。
思わず悲鳴を上げそうになった彼女だが掌で自分の口を覆ってなんとか耐える。
目の前の化け物は、こちらに来て最初に出会ったものとは形が違う。
風船のように頭がフワフワと、ちょうどカノンの目線の位置に浮いておりその下にはまるで糸のように細い首がドアの外まで繋がっている。
時々その首から空気が送り込まれているのが見えた。
本当に風船のようだ。ただしそこに張り付く真っ赤な目は異様だ。
風船の外周をぐるりと、いくつもの目が貼り付けられ、ギョロギョロと何かを探るように動いている。
「ウ……オ……」
化け物が呻き声を発した。その気味の悪い声にカノンはギュッと体を縮める。
「ス……ブ…………イ……」
……人語を発している?
彼女はぎょっとなった。
人語を話せるということは、知能がそれなりにあるということじゃないのか。
「ブ……ン……」
だが、意味のある言葉ではなさそうだ。
カノンは少しだけホッとした。
しかしその安堵も束の間のことであった。
「スイ……ブ……ン……」
今度こそカノンは悲鳴を上げかけた。
スイブン。賀仁がカノンを呼ぶときにいつもそう言っていた。水分と書いてミクマリと読むのだと何度言っても彼はスイブンと呼び続けていたのだ。
この化け物は、賀仁と繋がりがある。
「ス……ブン……」
化け物がゆっくりと方向を変えカノンの方へと向かってくる。
そのままソレはカノンに乗っかるようにズルズルと動き出した。
余りの恐怖に、涙が出てくる。
真下にいる彼女の存在にもう気が付いたのだろうか。それとも、まだ?
どちらにしてもこれから自分がどんな目に遭うのか想像しただけで吐き気が込み上げてきた。
どうしたら自分は死なずに済むのだろう。必死で思考を巡らせるが何も思いつかない。
体が動かないのだ。もしこの化け物がカノンを嬲っても、カノンは抵抗できない。
どうしたら—、
「ジッとしてろよ……」
すぐ近くでレッドの声がした。
そして真上にいた化け物が動き出し、玄関扉の方へ素早く飛び立つ。
だがソレはレッドの腕が空を描き切っただけで、パンという破裂音と共に体液を床に撒き散らした。それだけだった。
あんなに恐ろしかった化け物がレッドの手によってあっさりとその命を終えた。
「カノン、カノン。大丈夫か? 悪かった。あんなの見たことなくて対処しきれなかった」
レッドは慌てた様子で布団を剥ぐとカノンの顔を見つめた。
彼女は真っ青になり、口元を押さえてブルブル震えていた。
「怪我は?」
「ひ、あ」
「無さそうだな……。
もう大丈夫だ。全部俺が殺したからな。
本当に悪かった。何もなくて良かった……」
彼女は小刻みに震え、レッドの手に縋り付いた。
レッドはカノンの頬を撫で身を起こさせる。
あの時布団を退かさなくて良かった。悲鳴を上げなくて良かった。
目からドンドンと涙が溢れる。
未だに体の上を這う化け物の感触が残っていた。
カノンの胃がギュッと絞られる。
恐怖と緊張から吐き気が止まらない。
なんであの化け物はカノンのあだ名を言っていたのか。
賀仁は今どうしているのか。
考えられるのは、賀仁からカノンの情報を得た魔王が、彼女を探しているということだ。
そう思い立ったカノンはついに胃酸を床にぶちまけた。
レッドが驚いたようにカノンの顔を見る。
「ごめ、なさ……ごめん、なさい……」
「良いって。吐いたら楽になるだろ」
「床、汚して、迷惑ばっかり」
「良いんだよ。気にすんな。
まだ出そうか?」
「へいき……」
レッドはカノンの背中を摩り慰める。彼女はそんなレッドの体に縋り付いた。
彼だけがカノンにとって頼れる存在。
彼だけがこの世界でカノンを守ってくれる。
縋り付いてきたカノンをレッドは退けることはせず、むしろしっかり抱いた。
「怖かったのに、悲鳴も上げないで頑張ったな。
偉い。よくやったよ……」
「アレ、なんなの」
「魔王軍のバケモンだよ。頭だけ細くして、隙間から入り込んで体から空気を送る。そうやって獲物を見つけてたんだな」
「人の言葉話してた……」
「なに?」
「私の、あだ名……スイブンって喋ってたの。
アイツらは人の言葉を話せるの?」
「……ああ……」
レッドはギュッとカノンの体を抱き締めた。
「外の奴らも言ってたんだ。スイブンって。
なんのことかと思ったらオマエのことだったのか」
彼の苦しげな声にカノンはゾッとした。
他の奴らも彼女を呼んでいる……。
「私のことそう呼ぶのは一人だけ……魔王に連れ去られた友達だけ。
その子が、私を探してるってこと?」
「どうなってんだ一体……」
二人はベッドの上で寄り添い合っていた。
何か良くないことが起こっている気がして動けなかった。
*
レッドはカノンの吐いたものと魔物の体液を手早く片付けると「もう行かなくちゃなんねえ」と言った。
そうだ、彼は見回りの仕事があるのだ。
途端カノンは不安になった。
もしまた化け物が攻めてきたらどうしよう……。
「んな顔すんなよ。
カルパティアって奴が割合近くにいて、そいつにオマエのこと話してある。
なんかあったらすぐ駆け付けてくれるよ」
「うん……」
「大丈夫だよ。そいつ強いから」
彼はカノンの頬を撫でて微笑んだ。
レッドに頼りきりだなと、カノンは深く反省する。
このままではいけないだろう。
「分かった。待ってるね」
カノンがぎこちなく笑ってレッドに手を振り見送った。
少し心配そうな顔になったが、結局彼は出て行った。
フウとカノンは息を吐く。とにかく必要なのは動けるようになることだ。
左手を動かそうとする。感覚は遠いが指先が少しだけ動いた。
次いで足を見た。見た目は変わらないがこちらも同じように足先しか動かない。
まず大事なのは足だろうか。逃げる事を考えると走れた方がいいだろう。
彼女は右手で足を掴んで無理矢理曲げてみたりする。動くには動くが自発的には動かせない。
叩いたり摘んだりして刺激を与えると鈍い感覚と、ピリピリとした電気のようなものが走る。
神経が麻痺しているのだろうか。
取り敢えず立ってみよう。カノンはゆっくりベッドから足を下ろし片手で立ち上がろうとした。
だが上手くバランスが取れずそのままバタンとベッドに倒れこむ。
足の感覚が鈍いので立っている感覚もあまり無く、不安定だ。
それでももう一度やってみようとまた右手で体を支えながら立ち上がった。
今度は立てた。だが立てただけだ。一歩も足を動かせない。
なんとかしようと腿を動かしたが、やはりバランスを崩し今度は床に倒れこんだ。
やはり無理なのだろうか。
ピンショー様と呼ばれる人物でないとカノンの足は治せないのか。だがその人物がいつ来るかは分からない。
ずっとレッドに迷惑をかけ続けるわけにはいかない……カノンは焦りを感じていた。
もう一度立ってみよう。彼女がそう決意した時だった。
木の扉がギイっと音を立てて開く。
レッドが帰ってきたのかとカノンはホッと顔を上げたがそこに立っていたのは白いローブの人物だった。
魔王。
カノンの喉から引き攣った悲鳴が漏れる。
見つかっていたのか。
あの化け物には見つかっていないと思ったのに。
それが一歩また一歩とこちらに近づいてくる。
「や、だ、来ないで……」
「なに、ウア……! イ……ッ!!」
驚くべき事に突然魔王は床に倒れた。
いや、魔王、だろうか。今聞こえたのは男の声だった。
「やめ、て、何もしてない! やめて! ごめんなさい! ウアア!!」
「え、え?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! 痛いから、許してッ!」
ローブが捲れる。
それは、魔王でもなんでもなかった。
半獣の少年だ。
彼は苦悶の表情を浮かべ床に爪を立てている。
カノンは慌てて彼に呼びかけた。
「大丈夫!?」
「ごめん、なさ……」
「どうしたの!? 待って、今そっちに行くから」
カノンは右手で這うようにして彼に近付くが、ローブの半獣は怯えたように距離を取った。
「あの……」
「ごめんなさい、でも、オレ、頼まれたから……。だから来たんだ。
アンタに何かしようなんてこれっぽっちも思ってない。許してください」
黒い髪の下から覗く金色の目は恐怖で染まっていた。
カノンに怯えているのだ。
彼女は戸惑った。自分は何もしていないのだが……。
「えっと、そう、ですか。
でも私は何も……化け物の仕業とかじゃ……」
「何を言ってるんですか。アンタが、オレを躾けたんでしょう」
「へ……」
「何もしないですから、何でも言うこと聞きますから、もうやめてください……」
「ま、待って。躾けなんて私そんなのしてない」
少年の黒く大きな耳が伏せられる。戸惑っているのか、訝しんでいるのか。
カノンは誤解を解こうと手を広げた。
「私魔法も使えないんです。この通り体も動かないし……だからあなたに何も出来ませんよ」
「でも人間でしょう?」
「そうですけど」
二人の間に沈黙が流れる。
少年の言っている意味がよく分からなかった。
カノンは一先ず自己紹介をする事にする。
「私は水分火音。カノンと呼んでください。
えーっと、レッドに助けてもらってる身です」
「知ってます。だから来たんです」
「……もしかしてカルパティアさん?」
「はい」
少年……カルパティアはおずおずと頷いた。
カノンは少し驚く。
レッドが強いと言っていたからプロレスラーのような姿を想像していたが、実際は華奢な少年だ。
「わざわざすみません……。
えっと……強いって伺いました。まだ若いのにすごいんですね……」
言ってからこれで合っているのだろうかカノンは不安になった。
日本ではこれで良いが……ここは外国どころか異世界だし若いのに強いのは当たり前のことかもしれない。
「……何もしません」
「え? いや、疑ってませんよ……」
何故かカノンは物凄い誤解を与えてしまっているようだ。
もうこれ以上誤解を与えないように余計なことは喋らない方が良いのかもしれない。
「……レッドが来ましたね」
「え?」
カノンは顔を上げるがレッドの姿はどこにも見えない。カルパティアはゆっくり立ち上がると外を覗いた。
早くレッドに帰って来て欲しい、それが二人の気持ちだった。
「カルパティア! 大丈夫か!?」
レッドの声が遠くから聞こえる。
遠くのレッドの足音や気配で帰って来たことを察したのだろう。どうやらカルパティアは耳が良いらしい。
「ああ……」
「凄い声がしたから……何があった?」
「躾け……」
「躾け? なんで」
「分かんない。オレ、アンタに言われてこの家の様子を伺ってたんだ。
そしたらバタバタ物音がするから心配になってこっち来たら、いきなり……」
「……カノン。何があった」
レッドは戸惑った様子でカノンを見ていた。それに彼女も戸惑ってしまう。
「わ、私は何も! 酷いことなんてしようとも思ってない……!」
「カルパティアに対して何か危険を感じたりしたか?」
そう聞かれて彼女はああ、と頷いた。
「入って来た時ローブを着てたから、つい魔王かと思って悲鳴あげた……」
「なるほど。
カルパティア、カノンは誤解しただけみたいだ。
オマエに危害を加えるつもりはなかったって」
「魔王だと思われたのか……」
「落ち込むなよ」
レッドはカルパティアの頭を乱暴に撫でた。
それからカノンの方にズカズカ寄ると彼女の体を抱き上げる。
「わ! レッド!」
カルパティアが非難の声を上げた。
「んだよ」
「あんまり、そういうことは……」
「見ての通り平気だろ」
「だけど……」
レッドはカノンをベッドに乗せ半身を起こさせた。
カノンは礼を言って片手で体を支える。
「あのー、何がなんだか。説明してもらえる?」
「ああ。
俺たちは人間に危害を加えないように躾けられてるって言ったよな。
その道具がコレ」
レッドは自分のピアスを示した。丸い、なんの変哲も無い金属のピアスだ。
「人間が、対象に対して危険を感じたり行動を阻害しようとするとこのピアスから電流が流れるんだ。
痛いのなんの……」
「あ……え? 躾けって……」
そんな拷問みたいな……彼女は絶句する。
想像よりも酷いものだ。人間なら誰でも彼等に躾が出来るではないか。
それも、故意に。
「カノンは、カルパティアを魔王だと思って身の危険を感じたんだろ。それでカルパティアのピアスから電流が流れたんだ。
……さっきバケモンに襲われたところだったから警戒してて……ちゃんと言や良かったな」
悪かったと彼はカルパティアに謝った。
カルパティアは小さく首を振る。その時に彼の大きく長い耳に、レッドと同じピアスがあるのが見えた。
「オレも、ノックかなんかすりゃ良かった。
すみませんでした……」
「い、いや! 私もすっかり誤解してしまって本当に申し訳なく……。
……あなたにそんな酷いことするつもりなんてなかったのに」
「……別に……。良いです」
カルパティアはぶっきらぼうに答える。
わざとではないとは言え出会い頭に電流を流されたのだ。カノンに対し良い感情は持っていないだろう。
「……ごめんなさい……」
「オレは、この周り見て来ます」
彼はカノンと目を合わせることなく部屋を出てしまった。
カノンはなんとかしたかったがどうしようもなく、ただ息をそっと吐いた。
「おー。
……俺も行かねえと」
「ごめん。また迷惑かけた……」
「迷惑じゃないって。警戒心持つことは大事だ。
オマエ、あんまり警戒心無いから心配してたんだ」
「え? そうかあ?」
「おお。普通の人間は俺に抱きついてきたりしないし」
そう言ってレッドはニヤリと笑う。
それが先ほどの、化け物に襲われた後のことを言っているのだと気が付いてカノンは顔を真っ赤にした。
「な、だ、アレは……!」
「オマエ全然躾けしないから、異世界人にはピアスの効果無いのかと思ってたけどそんな事ないんだな。
まー、これでカノンが本気で嫌がることはやんないし、できないって分かっただろ」
「うん、まあ……」
カノンは頷いてからハッと気がつく。
裸を見られた時発動しなかったのは……本気で自分が嫌がってなかったということか……。
己の痴女っぷりに更に彼女は顔が赤くなる。
そんなカノンの顔をレッドは撫でた。
レッドがやたらと触るのは、カノンの怒りや危険を感じるラインを探るためだろう。
「そういや、なんでバタバタ物音立ててたんだ」
「え? ああ……」
カルパティアがここに来た理由のことだろう。
カノンは自分の頬を触るレッドを止めようと、軽く手を掴みながら答える。
「足動かせないかなって思って……。無理だったけど」
「それで倒れてたのか。
……多分ピンショー様が治してくれるからさ。あんま気にすんなよ」
「でも! 私会ったばかりのレッドにこんなに迷惑かけまくってる!」
「だからー、迷惑じゃないんだって。
オマエは魔王の大事な手がかりだし、それに……」
レッドはギュッとカノンの手を握る。彼の金色の目が細められる。
「俺に触られて嫌がらないどころか、一人の男として扱ってくれる奴は貴重だからな」
その言葉にカノンはどきりとした。
彼は半獣だから、あのピアスを付けさせられ奴隷として扱われている。カノン以外の人間は彼を人ではなく物として扱うのだ。その事を言外に言われた。
「レッド……。
私は異世界人だから、レッドのこと奴隷とか思えないし、半獣の存在もよく分からない。
だからレッドのこと、信頼できる男の人だと思ってるよ」
「……ありがとう」
レッドは微笑むと「カルパティアのことよろしくな」と言ってまた出て行った。
カノンは頷いてそれから布団に横になった。