その恋は獣と化す
一行は会話することなく地下から上がり建物を出た。
爽やかな風がカノンの頬を撫でる。
「これからどうするんだ」
レッドがピンショーに尋ねる。
彼は虚ろな目で背後に聳える建物を見た。
「……軍は今、滅茶苦茶になっているだろうな。
その隙を利用して上層部に潜り込む」
「あれ? 全員死んだのかと思ったけど」
賀仁の問いに彼は首を振った。
「あれは嘘だよ。ああ言えば味方を呼ばないと思った。
全員殺したら本当に国が立ち行かなくなるだろ」
カノンはピンショーのしたことをこの先誰にも言うつもりはない。
彼女は賀仁に抱えられている少年の寝顔を眺めた。外で出会った半獣は彼の知り合いだったのだろう。
家族かもしれない。友人かもしれない。恋人かもしれない。
ピンショーは多くのものを奪われた。
ビアロウィーザだけではない。彼女と歩むはずだった未来も、全てだ。
「上層部に潜り込んで、真実を話す。簡単なことじゃないけどやる。
そうすれば君達だって多少は楽に……なれるといいが」
「……あんた、やっぱ馬鹿だよ。
ビアロウィーザのことも俺たちのことも全部忘れて、軍なんか入らないで、それで良かったのに。
そもそもやり方が回りくどい。
シラカミと手を組んだり……」
「最初から手を組んでたわけじゃないさ」
ピンショーに合わせるように賀仁が頷く。
「バジリスクに襲われた時偶々近くにいたって言ったけど、あの時だよ。
シラカミがこの人に接触したの」
「シラカミのことは知っていたからな……。
……あんなことをしでかしているとは思わなかったが、目的は同じだと思った」
彼の目はどこか遠いところを見ている。
目標を遂げたことで達成感と虚無感を感じているのだろう。
「シラカミも、あなたが同じ気持ちで良かったって言ってたよ。
結構な賭けだよな。
恋人を奪われた人が軍人になった理由を推測してのことだって言ってたけど、危うくシラカミが捕まるとこだった」
賀仁はハアやれやれと首を振った。
確かにそうだ。
しかしシラカミの目的は結局なんだったのだろう。
軍の解体はシラカミの望みというよりピンショーの望みだろう。
なら彼女の言う男でないと出来ない復讐とは。
そこまで考えてあることに気が付く。
「白神……?」
賀仁はこちらの世界の言葉が分からなかったのにどうやってコミュニケーションを取っていたのか。
そもそもこちらの世界に来た時、あの館に書かれていた言葉は「みつけた」……日本語のひらがなだ。
レッドの言葉を思い出す。
—「アイツは、捨て子で……最初に見つけた時崖から落ちたみたいで全身ボロボロになってた。
それを村の一人が見つけて連れ帰ったんだ。
大人しくて話しかけてもあんまり反応しないようなやつだったけど、そのうち俺たちにも慣れて、よく遊んだ……。良いやつだった。人を傷付けるようなやつじゃなかったんだ」
全身ボロボロだったのは転移魔法に失敗したせいだとしたら。
話しかけても反応しなかったのは言葉が分からなかったからだとしたら。
そもそも賀仁の今の姿。アジアンビューティー……日本にもこういう人はいる。
美しく、綺麗な小麦色の肌をしているので気付けなかったが切れ長の瞳はアジア特有のものではないだろうか。
シラカミは日本人なんじゃないだろうか。
彼女も、カノンや賀仁と同じくあの場所に入り込んで、そしてどういうわけかこちらに来てしまった。
賀仁は度々あの館に入り込んだ人が行方不明になると言っていた。
彼等は皆この世界に落ちてしまって……そのまま助からなかった。
シラカミが魔法が使えるなんて知らなかったとレッドは言っていたが、彼女もそれをギリギリまで知らなかったのではないか。言葉が分からないから。
言葉が分かるようになった時、呪文を唱えられるようになった時は既に半獣となっていたとしたら。
魔王は隠れ家に隠れて定期的に休んでいると聞いていたが、そうではない?
彼女はカノンたちの世界に来て、だが半獣の姿が受け入れられないだろうと考えてあの館から出なかったのではないだろうか。
帰る場所を失ったシラカミにとって大事だったものは?
カノンはずっと疑問に思っていたことがあった。
それは何故5年前にいきなり魔王になったかということだ。
5年前、それはレッドが酷い目に遭わされた時と同じだ。
面倒見のいいレッドのことだ。身寄りのないシラカミのことを気に掛けただろう。
それはきっとシラカミにとって希望だった。
カノンと同じように。
そしてその人が汚された。
シラカミの復讐は、世界に対してではない。
賀仁の体が手に入ったのでそれはやめたのだ。
復讐はレッドを汚した人物に対してだ。
全て憶測だ。
だが外れているとはカノンは思っていなかった。
あの街で、馬車の中で賀仁の姿をしたシラカミを見た時、彼女は微笑んでいた。
レッドの姿を見て嬉しくて笑っていたのだ。
「スイブンさん?」
「鳴滝くんは、シラカミさんのことを想って協力したんだね」
賀仁は面食らったように目を丸くし、そして照れ臭そうに笑う。
「俺、面食いだから美少女に弱いんだよ。
スイブンさんと一緒」
「……さすがに体の交換は無理だなあ」
「慣れると大したことないぜ。
それに……あの姿なら日本に帰れると思って」
「鳴滝くんはいいの?」
「こっちのが魔法とかあって楽しいからなー。
帰りたくなったら考える」
能天気でいいなと思う。
ただ元々彼はファンタジー、SF、妖怪、UMAが好きなのだ。
この世界は確かに楽しかろう。
「巻き込んでごめんね」
賀仁の耳が伏せられ悲しそうな目をした。
「巻き込まれたなんて思ってないよ」
「でもあの時、あの館に入らなかったらこんなことになってなかった」
「かもね。
でもその後レッドたちに鳴滝くんを探すのを手伝ってもらうって決めたのは私だから」
日本に帰る方法を探すのではなく賀仁を探すことにしたのはカノンだ。
後悔はしていない。
「私は結局何もできなかったし」
彼女は大きな濁流に飲まれるが如くこの件をただ見ていた。見て聞いて、でもそれだけだ。
何かしたわけではない。
「そうかな」
賀仁の声はビアロウィーザの唸り声に消える。
なんだろうと振り返ると彼女の視線の先にカルパティアとマルール隊の二人が歩いていた。
「レッド! ピアスが外れて、あと大佐の死体があったり、なんかよく分かんないんだけど……!」
「あー。後で全部話すよ」
「今教えろよ!」
カルパティアの後ろでマルール隊の男たちがウンウンと頷いている。
レッドは「説明苦手なんだけどなー」と言いながら話し始めた。
カノンは視線をつとヨガイラに移す。
彼はジッとビアロウィーザを見つめていた。
彼女は警戒しながらヨガイラに近付く。
「あの……」
「なんだよ」
嗄れ声が怖い。
喋らない方が良い人というのは往々にしているがここまで印象が変わる人も珍しい。
「ビアロウィーザさんが、ああなったのは……あなたが協力してるんじゃないですか……」
「どういう意味だ」
「……注射器持ってますよね。あれ、刺された時意識を失ったけど……。本当は別の作用があるんじゃないですか?」
ヨガイラの目が細められる。
それは先を促しているようで、カノンは言葉を続ける。
「一度だけビアロウィーザさんが正気、に戻ったのを見たんです。
その時彼女はマルール隊の人の方に歩いていました。
正気に戻ったらあなたから、薬を貰って、ああなっているんじゃ、ないかなあって……」
カノンをジッと見つめながら黙るヨガイラが怖くなってカノンは一歩下がった。
彼は薄っすら微笑んだ。
「それだけでそう思ったのか? 想像力豊かだな」
「まあそうですけど……。あなたは随分ビアロウィーザさんのこと気に掛けているみたいだから何かあるのかなって……」
彼は何度かビアロウィーザを危険から庇うような行動をしていた。レッドもピンショーもそうしていなかったのに。
恐らく二人はビアロウィーザの直感を信じているので、彼女が危険が無いと思っていたら何もしないのだ。そして実際その直感は当たっている。
だがヨガイラはそうではない。彼はビアロウィーザのことを本当に意識のない人形のように捉えている。
それはビアロウィーザがああなのは薬によるものだと、そして薬の効果を知っているからではないか。
ヨガイラはビアロウィーザの方を見た。カノンもつられる。
「お前は周りをよく見ているな。
普通あんな最中でそこまで気が付かない」
「じゃあ」
「頭が良い。
哀れな奴だ。その内ビアロウィーザみたいに潰れるぜ?
この世界は馬鹿じゃないと耐えられない」
そう言ってヨガイラは懐から注射器を取り出した。
「軍の医療室から材料奪って作ってたんだ。
容量を間違えなければ意識を奪うだけだ。
この中身全部入れるとああなって、1ヶ月くらいで戻る。ビアロウィーザは8年間打ってたせいで抗体ができたのか1週間くらいしか保たなくなってたがな」
彼は注射器をカノンに押し付けた。
「なんでそんなことを……」
「ビアロウィーザの望みだよ。
現実を見ないで済むようにな。
……バレて良かった。俺ももう限界だ。
賢かった人をあんな風にしなきゃいけないのはキツイ」
彼はカノンの背中を押す。
「ギフォードに言ってやんな。
ビアロウィーザもそろそろ現実を見るべきだ」
カノンは注射器を持ったまま戸惑うようにヨガイラの顔を見たが彼の視線は別の方向へ向いていた。
コミだ。
カルパティアが来たのとは別の方向から走ってくる。
その横に鎖で繋がれた犬が同じように走っている。
「ヨガイラー!」
彼女はふうと息を吐いて犬を繋いでいる鎖をヨガイラに手渡した。
ヨガイラは悪いなと言って犬を受け取る。
「その犬は?」
「沢山いるなら一匹くらい良いと思ってな」
「はあ……」
そうではなく何故貰うのかを聞いたつもりだったが……まあいいか。
カノンは屈んで犬を見た。その犬は怯えたように後退る。
彼女は怯えられたことに少しショックを受ける。だが半獣にするために連れて来られた犬なら劣悪な環境にいたとしてもおかしくない。
現に背中には丸い、何かが刺さっていたような穴が痛々しく空いていた。
慰めようとカノンは手を伸ばし撫でようとしたがその手をヨガイラが掴んだ。
その勢いで注射器が手の中から落ちる。
「コイツ噛み癖悪いんだ」
「そう、なんですか」
不可解に思いながらも犬を眺める。
その横でコミがヨガイラに笑いかけていた。
「良かったね」
「ああ」
何が良かったのだろう。
カノンは哀れな犬を見る。
海のように青い瞳のその犬は悲しげにキューンと鳴く。その瞳は泣いているかのように濡れていた。
その瞳に見覚えがある気がしてカノンの背筋は震える。
まさかと思いヨガイラを見上げると、彼は愛おしそうに犬を見つめていた。
まるで恋人を見るかのように優しく、蕩けるような視線で。




