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トクソウ最前線  作者: 春野きいろ
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 三月三十日。異動になる学校職員は新任地に挨拶するために出張し、逆に新しく来る職員が挨拶に訪れる。もの慣れた金子さんに来客の受付とお茶出しを頼み、いざ校内の清掃をと思っていると、和香のスマートフォンが鳴った。

「あ、和香ちゃん。これからトクソウが行くから、和香ちゃんは第一理科室に入ってください。日常清掃は、中山さんと鈴木さんだけでいいから」

 管理さんからの連絡で、俄かに緊張する。顔だけは紹介されたけれど、実際未知の人たちだ。はじめの会話で弾かれちゃったらアウトだ、と過去の記憶が囁く。出すぎないように空気にならぬように、絶妙な間合い(と和香が思っている)は、普通の人は簡単に測れるものらしい。十時の休憩を早めにして、年配の同僚に励まされる。

「大丈夫よ、和香ちゃんはここでも十分に馴染んでたんだから」

「トクソウでいろんな現場に出入りするようになったら、新しい出会いがあって、友達とか結婚相手とか探せるかも知れないよ」

 やっぱり本社に行くなんて、了承しなければ良かった。ここでなら他人との温度差とか気にしないで、自分の思う通りに仕事ができたのに。

「それにね」

 煎餅をかじりながら、金子さんが言う。

「和香ちゃんが来てから、舘岡中は確かに綺麗になったけど、和香ちゃんはやりすぎだった。一生懸命仕事して、今まで手が間に合わなかった美術室の床とかまで洗ってくれたけど、他の人に変わったらそこまでできない。だけど学校側はそれに慣れちゃうから、今まで綺麗にしてくれてたのにできなくなった、佐久間サービスはレベルが下がったって認識になっちゃうのよ。今なら期間が短いから、先生たちも和香ちゃんの個人能力だって理解してくれる。だけどそれが何年も続いたら、当然になるでしょ。和香ちゃんがこの先、何十年も同じペースで同じ場所で働けるんじゃない限り、次の人のことも考えないとね」

 前にも何度か、働きすぎだとかそこまでするなとか、金子さんに言われたことがある。何故他人より多く作業することを咎められるのかと、和香はひそかに不服に思っていた。

「そうねえ。中山さんも、男仕事を和香ちゃんに頼っちゃってたしね」

 鈴木さんも言う。それについては否定できない。億劫がる中山さんの行動に苛ついて、自分で脚立を運ぶことが多かった。その結果中山さんは、自分が直接依頼を受けたもの以外は、全部和香に丸投げになっていった。そして身に覚えがあるので、今は明後日の方向を向いてコーヒーを飲んでいる。

「あ、来た」

 校門に向けられている防犯カメラが、佐久間サービスの白いバンを捉えた。



 正面玄関横の、主事室の目立たないドアが開き、元気な声が聞こえた。

「こんにちはー。トクソウの古谷でーす。急だったんで、ふたり体制で来ました」

 髪をきっちり結び、ウエストポーチと腰袋を巻いているのは、多分紹介されなかった由美さんだ。後ろに控えているのは、片岡さん。すぐさま金子さんが立ち上がり、ふたりを迎え入れる。

「お久しぶり。よろしくお願いしますね」

 にこやかに挨拶しながら、和香のほうを向く。

「和香ちゃん、事前研修のつもりで参加しておいで。がんばってね」

 若い女ふたりと、六十代男ひとり。これで一日で終わるのだろうかと思いながら、一緒に主事室を出る。あの魔窟のキャビネットだけで、一人工は十分使ってしまいそうなのに。


 準備室の入り口で、由美さんは軽く笑った。

「榎本さん、和香ちゃんだっけ? とりあえず指示出すから、従ってくれる?」

「はい、足手まといにならないように頑張ります」

 言いあっているうちに、片岡さんが脚立を広げてカーテンを外しているのが見えた。汚れたカーテンに隠れていた、埃だらけのサッシが剥き出しになる。ざっくりと見まわした由美さんから、最初の指示がきた。

「カーテンを洗濯して、あと必要なのはガラス用のワイパー、食器洗剤、マイクロファイバーの雑巾とタオルの雑巾。ハタキ、掃除機くらいかな」

 洗濯機を回しがてら、言われたものを主事室で揃えて戻った。あれば便利かなと、隙間用のブラシも加えてみた。すべて普段使っているもので、特殊な用具はない。魔窟は明日にも持ち越しかな、新任の先生は明後日には来ちゃうんだよな、なんて思いながら準備室に戻る。


 ドアを開けると、床の上は足の踏み場もなくなっていた。キャビネットの中身を出したらしい。形の統一しない備品をキャビネットに収めるだけで、大変な労力な気がする。

「上から行きましょう。片岡さん、換気扇と蛍光灯カバーお願いします。和香ちゃんはキャビネットの天板から」

 そう言いながら由美さんは、荷物の山を分けながらバラバラに積んでいる。どんな基準なのか、ときどきゴミ袋に投げ込んでいるものもある。勝手に捨てていいのかと、質問するまでもないような確信的な手の動きだ。片岡さんの換気扇を外す手も早い。和香も慌ててキャビネットの埃をはらい、雑巾で拭き上げはじめた。途中から由美さんがガラス面を拭きはじめ、振り向けば荷物はみっつの山に分かれている。

 キャビネットの中身を棚に収めるころには、蛍光灯カバーも綺麗にした片岡さんは、アルミサッシの溝を綺麗にしていた。

「このへんにあるのは、キャビネットに入れるもの。薬剤もあるから、気をつけて。こっちは問答無用で捨てましょ。何年も前のカタログとか、使った形跡のある雑巾やタオルのたぐい。植物の授業で使おうとしたんだろうけど、何年も前の花の種や松ぼっくりもいらないね。で、ちょっと厄介なのがこれ。返してない提出物とか研究会資料。あとね、現在の校内にはあっちゃいけないはずのシンナー類が置いてあるね。これの扱いは、副校長先生がお手すきのときに決めてもらおう」

 さくさくと進んでいく整頓に、和香は追いついていけない。由美さんの指示通りに動くのが、精いっぱいだ。


 自分はコミュ障ではあっても、けしてトロいわけじゃない。ずっとそう思っていた。事実舘岡中の用務員の中では、一番仕事が早い。ベテランの金子さんより仕事ができると自負している。

 井の中の蛙大海を知らず。少しばかりの自信に、ぴしりとヒビが入る。そして俯くぶん、手が余計に遅くなる。和香が入ってから来なかっただけで、他の人たちはトクソウの早さを知っていた。知っているのに、和香は仕事が早くて気が利くと褒めてくれていた。年配の作業員に比べて、仕事が早かっただけ。そのレベルしか求められていないから、時給もそのレベル。それで満足して、このままでいたいと思っていたのに。

 今現役の由美さんは、年上の片岡さんに指示しながら自分も動き、尚且つ和香には見えなかった場所まで手を伸ばしている。自分には無理だと思う一方で、プロってこういうことだったのかと目が覚める。


 副校長先生に廃棄するものを判断してもらうと、午前中に魔窟の元凶であるキャビネットは終わってしまった。(中身は三分の一になった)

「残りは午後にして、時間が余れば理科室のほうも少し綺麗にしましょうか」

 言い残して昼食のために出ていったトクソウのふたりを見送ると、主事室では鈴木さんと中山さんが弁当を広げていた。

「どうだった? 今日で終わりそう?」

「あとは机周りと床だけです。トクソウ、早いです……」

 言葉が尻すぼみになって、情けない顔になる。

「私、あれ、できるかなあ」


 結局午後の休憩になるころに準備室は完了し、和香たちが気にしながらも手をつけなかった理科室の割れたPタイルが貼り直され、実験用シンクの水垢が落とされた。その間和香がしたのは、指示された材料を運ぶことだけだ。どんどん募っていく不安に押しつぶされそうになりながら、残り一日の中学校での作業を思う。

 やっぱり見込み違いだったから、契約社員に戻れとか言われたりして。あり得ない妄想が広がっていき、落ち着かない。金子さんや鈴木さんに励まされて帰途につくときには、普段よりも作業量が少なかったにもかかわらず、ヘトヘトだった。



 そして最終日、まさかの事態に和香の頭は真っ白になる。

「榎本さんとは、一度話してみたいと思っていたんです。今年度の花壇のつくりかた、低予算であれだけできるコツが聞きたいです。僕はいつも実習用の植物を枯らしてしまうので」

 水木先生に声をかけられ、乞われるままに連絡先を交換した。仕事以外で話したって会話が続かないんだから、おかしな期待をしてはいけないと自分に言い聞かせ、和香の学校用務員の任期が終わる。

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