過去の男と過去の女
「玉野、ちょっと良いか?」真庭エキスプレス芝浦営業所所長の矢田 圭太郎は午後の配送を終わらせて帰って来た、玉野 光一郎を呼び止めた。玉野は矢田所長に誘われるまま、カウンター向こうの事務所を通り抜け、応接室へと入った。
「玉野、仕事の方はどうだ?大分、慣れたんじゃないか?」矢田はやや神妙な面持ちで口火を切った。
「そうですね。今まで大きなトラブルも無く来れてますから、順調とは思います」玉野は矢田の言わんとしている事の真意が掴めず、探り探りな感じで話した。
「今の所、お前の班でお客さんからのクレームが一切無いのはお前だけだ。それどころか仕事は丁寧で受け応えも爽やか、おまけにいつも親切にして貰えて助かるとお褒めの言葉まで頂いてるんだ」
玉野は自分を持ち上げて来る所長の真意が何となく分かった。
「それはボクが自分の仕事の事だけに集中出来る環境があってこそです。他の仕事が増えたらそうは行きません」玉野は布石を打った。しかし、営業所を束ねる矢田も、そう一筋縄では行かない。
「お前の言いたい事も分かる。だがな、班を束ねる者がやはり必要だ。そろそろ矢掛を事務所に上げたいと思ってるんだ。聞けば、後輩達からの評判もお前が一番だ」はっきりとは言わないが、玉野からすれば言われたも同然だ。
「新見さんです!ボクは新見さんを押します」所長より先に言う事で、矢田の思惑を潰そうと考えた。しかし却ってそれが仇となってしまう。
「新見?冗談はやめろ!新見は下からもお客さんからもクレームだらけのクレームメーカーだよ。会社は年功序列じゃ無いんだ。実力のある者が上に立つ。お前が班長になるのが会社の為だ」遂に矢田は本音を漏らした。矢田の言う事は至極、もっともだ。しかし玉野は信じていた。ムコウの世界からの生還者の凄さを。今の自分の仲間達を。
「それじゃあ、1ヶ月待って貰えますか?1ヶ月経って、所長自らの目で見て、それでも新見さんよりもボクの方が適任だとおっしゃるなら受けます」普段は飄々として見える玉野の力強い目力に矢田は押された。
「わ…分かった。1ヶ月見よう。結果は分かってると思うがな」矢田は押された自分を誤魔化す様に、精一杯強がって見せた。
「色メガネは掛けないで下さい。ボクは新見さんは最近になって随分、変わったと評価してます。公平な目でキチンと見て下さい」相変わらずの圧だった。
「分かった、分かった、ちゃんと見るよ。会社の為だからな」
会社を出た玉野は、自宅アパートがある元麻布に向けて自転車を走らせた。丁度、信号待ちをしていた時、"キャー"と言う悲鳴が聞こえて来た。声のする方に目を向けると、サングラスに野球帽を目深に被った男がダッシュして来た。その後ろをホステス風の女が何やら叫んで追いかけている。
「ソイツ、泥棒!ひったくりよ!」それを聞いた玉野は自転車で男を追いかけた。そして、いよいよ近付いた所で、自転車を斜めに倒し、後輪タイヤを男の膝裏に当てた。男は堪らず倒れて、もんどり打った。玉野はゆっくり立ち上がり、男の手首を持って後ろ手に回した。
「イタタタッ、ギブ、ギブ!」男は空いている左手を地面にパンパン叩いた。やがて女が追い付いて来た。
「ありがとう、お兄さん。どこの何方か知り…タマミツさん?」ホステス風の女は目を見開いて驚いた。
「百合…か…?」玉野もまた驚いた。百合は玉野の新宿時代に知り合った、キャバレー"フェアレディ"のホステスで、覚醒剤に溺れていた所を"タマミツ"に救われた女だった。
ひったくり犯を警察に引き渡した後、2人は近くのカフェに入った。
「久しぶりだね、タマミツさん。アンタのお陰で覚醒剤とも新宿とも縁を切って、今は執行猶予中だけど、ここで働いてるんだぁ」百合は名刺を差し出した。"六本木クラブ ラブアタック"
「ふーん、元気にやっとって何よりや。近くやし、また暇があったら覗くわ」玉野は社交辞令のつもりで言った。出来れば過去を知る人間とは関わりたく無かった。
「それよりさぁ、タマミツさんって女、居んの?」百合は食い気味に玉野に擦り寄った。それを見て、玉野は百合の言わんとする所が分かった。
「居らん!けど好きな女は居る!」キッパリと言った。
「えっ?どんな、どんな?」言葉を聞いた百合は、タマミツへの想いを断ち切る様に、明るく振る舞った。
「働き者で、優しくて、容姿も心も美しい女や。もう二度と会われへんけどな」玉野の遠くを見つめる瞳が哀愁を帯びていた。
「会えないってどう言う事?二度と会えないんなら、アタシをタマミツさんの女にしてよ」二度と会えないと聞いて、タマミツへの想いが再燃した。
「スマンな、百合。ワシはあの女を忘れる事が出来るまで、女は作らん。ほなら明日も朝が早いから、これで」伝票を手に取り立ち上がった玉野に百合は最後に声を掛けた。
「タマミツさん!待って…
磯貝に、磯貝には気を付けて。アイツ、アンタを狙ってるらしいから」百合の言葉に玉野は振り向きもせず「分かっとる、でも、ありがとうな、ほな元気で」そう言って店を後にした。




